第15章 別れの宴
上高地バスセンター。バスが発進すると、タカシがノボリを持って一礼している。その前に、松電のダットサンが止まって、アズサとエルデシュとアニューカが降りてくる。タカシが笑顔で尋ねる。
「どうだった?どうだった?」
アズサが苦笑する。
「すごいウケてた。なんで子供にあんなにウケるんだろう?さすが数学界のボブ・ホープ」
エルデシュが抗議する。
「そのあだ名はどーだい?「ブタペストのマジシャン」の方がよくないか?」
アズサが考える。
「うーん、マジシャンよりボブ・ホープの方がスゴいんじゃない?マジシャンは世界中にいるけど、ボブ・ホープは一人しかいないから」
エルデシュとアニューカとタカシがうなづく。うしろから声がする。
「タカシくーん」
タカシが振り向くと郵便局の制服を着た女性が立っている。
「あぁ、どーも。どしたんですか?」
「届いたよ。小切手。いましがた」
村営ホテルの従業員食堂にアズサ、タカシ、エルデシュ、アニューカが一つのテーブルに座っている。テーブルの上に「三万ドル」と記された小切手が置いてある。エルデシュが口を開く。
「これくらいあれば大学で勉強できるだろ?これで南カリフォルニア大学に行きなさい。話はしてあるから」
アズサとタカシがジーッと小切手を見ている。沈黙が流れる。アニューカが羊羹を食べ始める。タカシが日本語で、小声でアズサに尋ねる。
「ちょ、ちょっと頭に血がのぼっちゃって、よくわかんないんだけど、3万ドルって日本円でいくら?」
アズサが目を上に向けて考える。
「えーと、いまドルが286円だから、、、」
急に、すっとんきょうな声を出す。
「は、は、858万円!はっぴゃくごじゅーはちみゃんえーん!!初任給の何年分?20年分?25年分??」
タカシがビックリする。
「えぇー!858万円!!」
タカシが思わず立ち上がる。
「だ、だめですよ。博士。そんな大金、ぼくなんかに、、、」
エルデシュが手で制して、「座れ座れ」と合図している。
「いーんだよ。ボクが持ってたって使わないんだから。前途ある若者に使ってもらった方がいいよね?アニューカ?」
アニューカが羊羹を食べながら、満面の笑みでうなづく。
アズサとタカシが目をむいてエルデシュを見ている。無言で。
エルデシュうが見られていることに照れる。
「あ、アニューカ、お風呂入ろうよ。きょ、今日は講演会で疲れたから」
エルデシュが手を引いて、アニューカと一緒に立ち上がって、出口に向かう。タカシが立ち上がって、深く礼をする。エルデシュがそれを一瞥して、そそくさと風呂に向かう。タカシは深く礼をしている。
数日後の夜。
村営ホテル寮の灯りが半分くらいになっている。
食堂前のローカを、エルデシュとアニューカが両側から主任を引っ張って歩いている。うしろからタカシが押している。主任がぼやいている。
「なんだよー。なんでボクがお礼されるんだよー」
主任は食堂に入っていって、真ん中に用意されているイスに座らされる。回りを見ると、ナオミ、マイコ、ジロー、シゲルが座っているので、彼らに向かってぼやく。
「なんだよー。困っちゃうなー。なんでボクがお礼されるんだよー」
主任の目の前にエルデシュが立つ。その横にタカシが立る。
「主任、ほんとに、色々ありがとう。あなたは親切な素晴らしい人だ。でも、すっかり長居してしまった。明日帰るよ」
タカシが通訳すると、主任がさびしそうにうなづく。エルデシュが続ける。
「親切な心をいつまでも忘れないようにな。それは君の優れた才能だぞ」
タカシが訳すと、みんなから拍手が起こる。エルデシュが続ける。
「お礼がしたいんだけど、何をしたらいいのかよくわからなかったから、踊り子を呼んだよ」
タカシが通訳すると、主任は「踊り子?」と首をひねる。タカシがレコードプレーヤーに近づいて大きな声で言う。
「それではお呼びしましょう。ローザさんです」
タカシがレコードに針を落とす。西郷輝彦の『星のフラメンコ』が流れる。食堂のドアの方で音がする。みんなが見ると、アズサが食堂のドアにとりついて中を見ている。ケバい濃い化粧で、フラメンコみたいな衣装で、露出が多い。バラを一輪口にくわえている。みんなビックリして見入る。
『星のフラメンコ』が佳境に入ったところで、ローザが食堂の真ん中まで来て、一心不乱に踊り始める。ナオミとマイコが大笑いして喜んでいる。
「ローザー、ローザー」
「はははは。ローザー、ローザー」
会場がバカみたいに盛り上がって、みんな立ち上がる。エルデシュも手をバタバタさせて、飛び上がって踊っている。主任はビックリしながら座ってローザを見ている。
ローザが主任を凝視して止まる。みんなも止まる。ナオミが主任に注意をうながす。
「狙ってる、狙ってる。主任、ローザが狙ってるわよー」
ローザが急に主任のヒザに乗って、頬にキスをぶち込んだ。
「うっひょー!!」
みんな一斉に両手を上げて、さらに盛り上がる。エルデシュは飛び跳ねている。アニューカも踊っている。マイコが踊りながら、踊っているタカシに近づく。
「アズサって、あんなにステキな子だったの?知らなかった」
タカシが笑う。
「あれはローザだよ。アズサくんがワインを3杯飲むと小悪魔ローザに変身するんだ」
「はははは。ローザー!ローザー!」
ローザがマイコの方を凝視する。踊りながらスタスタとマイコに近寄ってきて、頬にキスをぶち込む。
村営ホテルの電話室でケバい濃い化粧のアズサが電話をしている。
「そんなわけでね、博士もう帰っちゃうの。うん、うん、ほんとにそうだね」
アズサがふと視線を外に向けると、電話室の横でエルデシュが見ている。アズサはビックリする。
「あ、あの、その立派な先生がなぜかこっちを凝視してるから、切るね。うん、うん、またね」
アズサが電話室から出てくる。
「どしたの?」
エルデシュがアズサの手を取る。
「アズサ、ありがとう。ほんとに、ありがとう。君のおかげで良い夏になった。アニューカも喜んでいるよ」
アズサが照れる。
「なによー、急にぃ改まってぇ、やめてよぉ」
エルデシュが感慨深げに言う。
「明日帰るからさ、改めてアズサにお礼言わなくちゃいけないと思ってね。忘れちゃいけないから、伝えておくよ」
アズサもシンミリする。
「うん。でも、夏の終わりまでいればいいのに」
エルデシュもシンミリする。
「そうしたいとこだけど、もう3週間もいるしさ、やっぱり仲間達と話さないとぼくの研究も進まないし、かといって電話使うとすごく高いしさ、、、」
アズサがやっぱりシンミリしている。
「そうー。寂しくなるわねー。。。あっ!」
アズサが急に大きな声を出すので、エルデシュがちょっとビクッとする。
村営ホテルの従業員食堂にエルデシュが一人で座っている。アズサが濃い化粧のまま本を持ってドタバタ入ってくる。
「これ、これ、これ、タカシさんにもらったの。サインして。タカシさんのサインの横にサインして」
エルデシュが本をしげしげと眺めた後、胸ポケットからペンを取り出して書き込む。
美しく、若く、親しい友人であるアズサと、
上高地の素晴らしい思い出に。
ポール・エルデシュ
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