アニマグラファー 〜危機一髪のひとめぼれ〜

鳥辺野九

危機一髪


 爬虫類型ヤモリ星人の目玉はとても大きい。それこそ宇宙みたいに真っ黒だ。宇宙に浮かぶ濡れた月のようで、黒く光を反射させ、見つめていれば、ふと吸い込まれそうになる。


「最初に環境侵略されたのはきれいすぎる水だったよ」


 哺乳類型チキュウ星人の里帆は水面に映る空の青を眺めて、大きな目で器用にファインダーを覗き込むヤモリ星人に言った。

 聞いているのかいないのか、モケはまばたきひとつしないで被写体を狙っている。まるで捕食行動だ。


「不純物が一切含まれていない純水では水棲生物は長く生きられなかった。水に含まれたミネラルを奪われたの」


 空を見上げれば、青く光るソーラーパネル。それは巨大なビニールハウスのようで、ひとつの建築物のように土地を覆っている。


「まず最初に絶滅したのは、田圃っていうミニマムな生態系で上位に位置するトノサマガエルだった」


 里帆は再び水面に目をやった。記憶の田圃とは似ても似つかない人口的でミニマムな生態系環境がそこにはあった。

 ようやくモケの真っ黒い瞳がくるりと動く。顔はまっすぐ一眼カメラに向けたまま、

目玉だけが独立した生き物みたいに里帆を捉える。


「わたし、生きているカエル見るの初めて。チキュウにはもうカエルはいないし、そもそも田圃なんてもうないからね」


 モケの一眼カメラがささやかなシャッター音を奏でた。人口的に水を湛えたミニマム生態系に波紋が一つ生まれる。シャッター音に驚いたか、田圃の澄んだ泥水に一匹のカエルが潜った。長い尻尾がぴしゃりひるがえる。


「ああっ、逃げちゃった。ごめんよ、驚かせちゃって」


 人型のヤモリが田圃のカエルにひと言謝った。カエルは長い脚で泥をひと掻きふた掻き、水面にかすかな波を立ててモケに抗議する。


「聞いてた?」


「聞いてるよ。リホの知ってるチキュウはもう滅んでるんでしょ。それはとっても残念なことだけど、宇宙ってそういうもんだよ」


 第七自然保護区は崩壊した地球文明の再生プロジェクト関連施設だ。ニホンエリアにある環境博物館で学芸員として生きている里帆は10メートル四方の小さな田圃を再現する企画に参加している。

 ドーム型ソーラーパネルで土地ごと覆い尽くし、閉鎖的ではあるが光に溢れた擬似的な生態系を構築するプロジェクトだ。

 このミニマム生態系再生計画が成功すれば、いよいよ本格的な田植え計画が実行される。里帆の宇宙逆侵略の第一歩だ。


「そういうもんって、軽く言わないでよ。故郷の惑星が壊れちゃったって、けっこうメランコリックな気持ちになるものだよ」


 やや冷たい田圃の水に細い指を浸す。水温はまずまず。光に温められすぎず、乾燥した空気に蒸発しすぎず。いい水だ。


「チキュウ星人の特性だね。それならリホの大事なものをカエルみたいに持ってきちゃえばいいのに」


「それよそれ。なんか複雑な気持ち。チキュウって一個だけじゃないなんて、誰も教えてくれなかった」


「別次元にカエルのいないチキュウだってあるはずだよ。動物カメラマンやってる僕にはとってもつまんなそうなチキュウだけど」


「わたしのいたチキュウって、動物がめっちゃいたっぽいね。大絶滅前にモケも来ればよかったのに」


 里帆はモケの後ろに回り込んで、一眼カメラの液晶パネルを覗き込んだ。田圃の水面から顔だけを出している一匹のカエルをファインダーに捉えている。

 水面は上空パネルからの澄み切った青を反射させ、表面張力に捕まったカエルがまるで青色に溶けかかった緑色みたいに、水とカエルの境目がわからなくなっている。

 それはカエルなのか、水なのか。あるいは水に浮かぶカエルなのか、チキュウで絶滅したカエルなのか。里帆にはわからなかった。モケにはどうでもよかった。

 カエルの写真が撮れればそれでいい。チキュウが崩壊しようが、別次元から連れてこられたカエルだろうが。自然保護区で再生されたカエルだろうが。写真に撮れれば、それでいいんだ。


「はいはーい、写真撮影はそこまでー」


 ミニマム生態系に新たな上位存在が現れた。背の小さな、でも耳の大きさの分だけ里帆と背丈が並ぶ白ウサギだ。

 哺乳類型ウサギ星人のマルマルマは作業ブーツの大きな足の裏で人口的な畦道をどんと強く踏み抜いた。田圃にさあっと波紋が走る。水面に浮いていたカエルは振動に驚いてぷくんと沈んだ。泥に潜るように足掻いて、見えない水の奥へと泳ぎ去る。


「ああ、また逃げちゃった」


 モケが残念そうにマルマルマをひと睨みする。あのウサギはいつも不機嫌そうで、偉そうで、でも優しい。カエルを逃したのもきっと理由があるのだろう。


「本来ならここは研究施設。部外者は立ち入り禁止よ。リホが身元を保証してくれてるから撮影許可を出しているにすぎないの。気をつけなさい」


 マルマルマは里帆の隣にぺたりとしゃがみ込み、手のひらが一枚入るくらいの大きさのタブレット端末を畦道に直置きした。


「何これ?」


 里帆がマルマルマに尋ねる。マルマルマは頭の上の大きな耳を楽しげにゆさゆさ揺らして腕まくりをした。


「リホはブラックホール通信知らない? じゃあ見ときなさい。リホが言っていた、チキュウのニホン固有の植物を採取するよ」


 マルマルマの細い腕がタブレット端末の画面に触れる。もわん。画面が波打つ。田圃の波紋みたいに。


「宇宙座標はリホの生まれたチキュウにセットしといたのよ。まだ田圃が破壊される前の時間軸ね」


 この宇宙は多元的だ。重力の作用で時間軸は多重にぶれて幾つもの像が露出される。そのひと座標が人間に認識できる時間軸にすぎない。


「ブラックホール通信する様子、写真に撮ってもいい?」


 モケがいそいそと一眼カメラを向けてファインダーを覗き込んだ。無遠慮に距離を詰めるヤモリに白うさぎは前歯を見せてきっと睨む。


「ダメに決まってんじゃん。宇宙座標が流出しちゃったら、リホの生まれ故郷が悪い奴らに再侵略されちゃうでしょ」


「ええ、それはダメだ。リホのカエルたちがかわいそうだ」


「わたしのカエルじゃないけどね」


 里帆はマルマルマとモケの間に割って入った。ブラックホール通信は里帆も初めて見る。何より、タブレット画面越しとは言え、生まれ故郷の惑星の風景が久しぶりに見えるのだ。モケには悪いが特等席を譲ってもらう。

 マルマルマの白い産毛に覆われた細腕がブラックホール端末に沈む。音もなく、肘のあたりまで画面に溶けるように消えていく。その白い毛の向こうに、里帆にとっては懐かしきチキュウの田圃の原風景が見えた。


「はい。危機一髪の採取成功」


 タブレット画面から引き抜かれたマルマルマの手には、ひと束の稲が握られていた。みずみずしくぴんと張った緑色の尖った葉っぱは、里帆のよく知った田圃の光景そのものだ。


「危機一髪?」


 モケが聞く。たしかに、何が危機一髪なのだろう。里帆は首を傾げて稲に魅入った。


「チキュウ終末一ヶ月前、正真正銘最後の稲作田圃の稲束よ。この後、稲作文明は再起不能な壊滅的なダメージを受けるの」


 この宇宙時間軸に現存する最後の稲束。別次元のチキュウならいくらでも植えられているだろうが、なるほど、里帆が知るチキュウの稲はたしかにこれだけだ。まさに危機一髪の米となる。


「最後ってことは、ひとめぼれかな」


 里帆がまだ未熟な、しかし生命力を感じられる稲に手を触れた。皮膚が切れそうなくらいぴんと張り、それでいて柔らかく里帆の指を躱す稲葉だった。


「ひとめぼれって?」


 マルマルマが耳を傾げる。


「このお米の品種。美味しいの!」


 マルマルマは里帆の答えににっこり微笑んでくれた。


「それは楽しみね。さあ、田植え実験しましょうか」


「ねえねえ、なんでカエルも一緒に連れてきたの? 写真撮ってもいい?」 


 モケがマルマルマの指先を見ながら呑気に尋ねた。

 見れば、稲の束に紛れて一匹のカエルが、マルマルマの指に小さな手をかけていた。まるで初めて会う宇宙人に握手を求めるかのようで、カエルは真っ直ぐに白ウサギを見上げていた。


「きゃあっ!」


 慌ててマルマルマは手をぶるんぶるん振るう。カエルも慌てて稲束からジャンプ、これまた小さな田圃にぽちゃんと飛び込んだ。


「あたし、毛のない生き物苦手なの!」


 何故かモケを睨みつけて怒鳴りつけるマルマルマ。モケは毛のない生き物の代表であるかのように丁寧に謝罪した。


「僕も毛がなくてごめんなさい」


「わたしも、どっちかと言えば体毛が少ない種族なんだけどね」


 里帆が笑いながらおよぎさるカエルを目で追った。あれ? あのカエル、尻尾がない。里帆は自分の記憶を辿ってみた。

 里帆のチキュウのカエルは尻尾がない。幼生期にはオタマジャクシから変態し短い尻尾があるが、成長するにつれて尻尾はなくなるものだ。

 そういえば、さっきモケが写真に撮っていたトノサマガエルには立派な尻尾があったような。

 あのカエルは、どの時間軸のチキュウから連れてこられたものだろうか。


「ま、いいか。カエルはカエルだし」


 別次元の宇宙で姿形を変えるカエルたち。宇宙ではよくあることだ。

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