不快社員
後藤文彦
不快社員
憂鬱だ。昨日が期限だったが、今日になっても提出がない。報告義務のある有線ネットワーク利用者九七人のうち、昨日の朝時点での未提出者は九人だったが、リマインダーメールを出しておいたら、八人が今朝までに提出してくれた。予想通りだ。予想通りの一人がまだ提出していない。確信犯だ。電話しなければ。苦痛だ。私は電話する、
「もしもし、技術部のBですが」
「え、なに?」
しょっぱなから迷惑そうな応答だ。
「有線ネットワーク接続機器の物理IPの報告が きのうまでだったんですが」
「は、そんなのそっちで調べればいいでしょ」
「各自が自分の使用機器の物理IPを調べて報告することになってるんです」
「は? あんた馬鹿なの? アクセスログ見れば物理IPわかるでしょ。あんた、ほんとに技術部?」
「技術部にはアクセスログへのアクセス権限はないので」
「だったら、アクセス権限もらえば? そんなくだらないことで、こっちの仕事 邪魔しないでもらえる?」
「技術部にアクセス権限がないのは社の情報ポリシーで決まってることですし、仮にアクセスできたとしても、その物理IPがどの部屋のどの機器かといった情報と結びつけるのは、使用者本人でないと困難です」
「だったらアクセス権限のある情報部かどっかが、各使用者の使用機器を調べにくれば? ほんと迷惑だなあ。もう五分ぐらい時間を無駄にした」
「各自が対応することは社内会議で決まったことなので、お願いしま」
ガチャ。電話が切れる。憂鬱だ。まずは情報部に事情を説明して、Mのアカウントにアクセスした機器の物理IPを抜き出してもらおう。それらが去年の報告書にある機器であれば、去年と同じ所有者、同じ保管場所ということにしてしまおう。去年の報告書にない機器については厄介だ。ログからわかる機器の種類とアクセス日時を書き出してMに確認しに行かないといけない。憂鬱だ。情報部の新人はその辺の事情がわからないから、直接 行って相談するか。
「技術部のBですが、接続機器のIPの件で ちょっと相談が」
「え、私が管理してる機器の物理IPは、きのうの締切に間に合って提出してますよ」
「はい、もちろん、Nさんの提出は確認できています」
「なんですか、不備があるとでも言うんですか」
「いえいえ、そうではなくて、Mさんの件なんですが」
「Mさんとは機器の貸し借りなんかやってませんけど」
「いえいえ、そうではなくて、Mさんの物理IPを調べていただけないかと」
「え、目的はなんですか。私は何も関係してませんけど」
「Mさんが、使用機器の物理IPを自分で調べてくれないので、情報部で調べていただけないかと」
「え? それって、不正開示になりませんか。本人が調べるべきものを、本人がちゃんと調べないから、アクセスログから調べられないかってことですよね。そんなのに巻き込まないでくれませんか。私は悪くないですよ」
「それはそうなんですけど、Mさんは確信犯なので、本人に調べさせることはほぼ無理なんです。なんとか、助けていただけませんか」
「私がMさんをそそのかしてるとでも言うんですか。私はMさんと一切 関わってません」
「そりゃそうです。Mさんと関わってたら、私が困ってる理由がわかりますから。不正開示に抵触するかどうかわかりませんけど、ここでアクセスログを調べさせてもらえれば、Mさんのアカウントがどの物理IPからアクセスしてるかがわかるんですが」
「あれ、Bさん、どうしました? ああ、あれでしょ。きのうがIPの締切だったから、Mさんのアクセスログを抜き出してほしんでしょ」
「え、どうしてそれを」
「去年の担当者にも同じこと 頼まれましたから、そろそろ来るなと思ってましたよ。Nさんはまだその辺の事情がわからないので、失礼しました。Nさん、あとはいいですよ。私が対応するから。」
「いやー、ほんとにすいません。余計な仕事 増やしてしまって」
「いや、Bさんは悪くないですよ。社内のみんながMさんのせいで、やらなくていい仕事 やらされてるんですから。いや、仕事が増える程度で済むなら大した被害じゃないですが、総務部とか、Mさんの事務処理の度にMさんの対応をしなくちゃいけない部署は気の毒だよ。もう何人もメンタルやられて会社 辞めてしまったし、ほんとにMさんさえいなくなれば、会社は平和になるのに」
二〇二〇年頃、AIによる信用度スコアを利用する企業が現れ始めた。A社のメール解析システムは、当初は社内サーバーのメールログのキーワード検索により、言葉づかいなどがどれくらい「誠実か」を数値化するためのシステムとして開発されたものだった。これを応用し、社員がどれくらいストレスを受けているかをメールログの言葉づかいから数値化するストレスチェッカーを導入する企業も増え始めていた。多くの企業がストレスチェッカーを導入し、ストレス因子のデータベースが蓄積されるにつれ、最大のストレス因子となっているのは、社内にいるごく少数の性格の悪い人間いわゆる「不快社員」のせいだということがわかってきた。不快社員というのは、簡単に言えば他人に不快感を与える言動を取る社員のことだ。このような不快社員の存在は会社の業務効率を著しく下げるので、会社としては何とか理由を見つけてこういう社員を解雇したいところだが、不快社員は必ずしも業務成績は悪くなく、むしろ会社の売上にそれなりに貢献している場合もある。これは不快社員には優秀な人が多いということを意味するわけではない。不快社員は、仕事を頼むと露骨に厭な顔をし、厭味を言ったりするため、社内の分担業務の多くは、仕事を頼みやすい「人のいい」社員に集中し、不快社員はそのような分担業務に煩わされることなく自分の成果となる専門業務に集中でき、相対的に業務成績がよくなる傾向があるのだ。一方、「人のいい」社員はなぜか自分のところに集中する仕事を断れないので、分担業務の負担が大きくなり、自分の専門業務の遂行に支障が出てしまったりする。
一般的に正義感の強い人は、分担業務は平等に分担すべきだと考えている。しかし、業務を頼んでも厭味や文句を言ってなかなか引き受けようとしない人がいるとき、正義感からその人に仕事を引き受けさせようと頑張ると、相当な労力と議論体力が必要なうえ、さんざん厭味や文句を言われ続けることになるので、少なからぬ精神的ダメージを被ってしまう。多くの人は、そこまでして正義を貫き通す精神力はないので、不平等にはなっても快く引き受けてくれる「人のいい」人についつい頼んでしまうようになる。
二〇二五年頃からであろうか。SNSで独自の性格指標が開発された。これも当初は、SNS上で不適切なコメントを繰り返すユーザーへの注意喚起の目的であったが、やがて、ユーザー自身の自己評価をSNS上に自虐目的で晒すのが流行りとなった。
SNSの性格指標には各種あるが、最も代表的なものは、他人に言葉で苦痛を与える程度を数値化したA社の共感性障害指数に相当するもので、「不快指数」とか「不愉快指数」とか呼び方は様々だ。その他、不平等さを定量化する指標もSNS内での支持と使用率は高かった。本来、自分が担当すべきだった仕事をどれだけ他の人に尻拭いさせているかを定量化した「尻拭い指数」「卑怯度」「ずるさ指数」や、その逆で、本来 他人がやるべき仕事をどれだけ自分が肩代わりしているかを定量化した「肩代わり指数」「人のよさ指数」等もたちまち流行語の仲間入りをした。やや毛色が違うものでは、自分に対する他人の行動が、なんでもかんでも何らかの悪意に基づくものだと捉える傾向を定量化した「被害者意識指数」もなかなか人気の指標だった。
不快社員とのやり取りのストレスを避けるための「肩代わり」にせよ、互いの善意を前提とした本音の話し合いを妨げる「被害者意識」にせよ、実際に会社の企業利益に少なからぬ影響を及ぼしているため、SNS発祥の「尻拭い指数」「肩代わり指数」や「被害者意識指数」はA社等の信用解析会社でも採用し、社内メールやウェブ会議システムでの発言を解析することには留まらず、電話の通話ログやオンライン会議の発話ログ等も音声認識によりテキスト化して解析することで、極めて精度の高い客観的な指標として、昇進や人事異動の際の判断に利用され始めた。とはいえ、会社がこうした指標を根拠として最もやりたいことは、本人への直接的な「介入」だ。正直なところ、会社としては不快社員は解雇してしまいたいところだが、共感性障害指数が高いというのは、二〇二五年時点の認識では、ある種の障害のようなもので、これを根拠に解雇することは差別であり社会的には許容されないことだった。
一方で、共感性障害指数の高い社員にカウンセリング等の「ケア」を行い、他人に不快感を与えないようなコミュニケーション方法を教育・訓練したり、本人が自分の性格のせいで社会生活に支障を感じ、それを改善したいと希望している場合は、精神科を紹介し、より効果の大きい治療へと導くことはできた。
これまでも、他人に不快感を与えるコミュニケーションを取る社員に対しては、ハラスメント事案として「指導」できないか検討されてきているが、ハラスメント事案として指導するには、証拠となる具体的な被害内容を提示する
必要があるため、被害が具体化する一定レベルを超えるまで待つ必要があったし、仮にそれで「指導」ができても、本人の性格が改善されることはほとんどなく、せいぜい指導された特定の加害言動が控えられる程度で、それ以外の全般的に不快なコミュニケーションはその後も続くのだった。
だから、共感性障害指数等の数値は、こうした不快社員にコミュニケーションが不快だという理由だけで「介入」するための根拠として、多くの会社で重宝するようになったのだ。介入の方法は大きく分けると二つあった。
一つは、不快社員の改善を指向してカウンセラーによる指導を行い、あわよくば精神科による治療へと誘導するものである。共感性障害指数が高い人には、幼少期の家庭環境やミラーニューロンの障害など、様々な複合的な要因があることがわかっている。例えばミラーニューロンなどの先天的な機能面には特に障害がなく、家族や恋人に対しては、深い同情を感じるような一見やさしい人であっても、共感する必要がないと自分が区別した対象に対しては、一切の共感や同情をせずに冷酷で残忍な態度を取ったり、拷問・殺害ができるようになる人がいる。これはある種の「スイッチング」と呼ばれる切り分け回路が脳内に組み込まれた状態である。このスイッチングにより、自分が見下していいと判断した対象に対して選択的に文句や厭味を言うタイプの不快社員の場合は、カウンセリングにより「治療」ができる可能性がある。しかし、本人が自分の性格を「改善」したいと考えていない場合、その意向は尊重すべきものである。不快社員の多くは、自分の不快な性格を変えたいとは思っていないし、そのことで自分の社会生活に支障があると感じているわけでもないので、カウンセラーによる直接介入や医療への導きは、あまり期待できなかった。
そこで多くの会社が実際に導入したのは、もう一つの介入方法だ。こちらは不快社員の改善は特に指向せず、社内業務の公平で円滑な遂行に特化したもので「仲介屋」と呼ばれる専任の仲介者を常駐させるものだ。不快社員が提出書類を提出しなかったり、ローテーションで担当すべき分担業務の引き受けを渋ったりした際、こうした分担業務の依頼主は、これまでのように不快社員に直接 催促したり、不快社員が引き受けない仕事を代わりに自分が肩代わりしたりする
必要はなく、ただ所定の業務を遂行しない社員がいることを仲介屋に報告しさえすればよかった。仲介屋は依頼主から業務の依頼内容の説明を受け、後は不快社員に所定の業務をしっかりと遂行させる役を負った。
仲介屋は多くの企業で急激にニーズが高まり、なかなかの高収入の職業となったが、不快社員の文句や厭味とやり合えるだけの精神耐力が必要なことから、誰でもできる職業というわけでもなかった。一方、反社会的組織が関わる強引な取り立てで飯を喰っていた取り立て屋たちにとって、企業の正社員として雇用され、高収入が保証され、しかも職務が完全に合法的である仲介屋は、魅力的な転職先となった。取り立て屋から転職した仲介屋は、不快社員の文句や厭味程度ではびくともせず、不快社員の業務不履行といった社内規則違反を的確に指摘して本人に認めさせることができた。仲介屋の指示に従わない不快社員は、社内規則違反者として社長に申告され、社内調査委員会の審議を経て懲戒や懲罰を受け、場合によっては解雇が命じられることになるので、さすがにほとんどの不快社員は、文句や厭味を言いながらも仲介屋の指示にしぶしぶ従った。
仲介屋は、従業員百人に最低でも一人以上配置することが適正とされた。実際、仲介屋を導入した会社では、社員のストレス係数が一割以上は軽減し、企業利益が数パーセント程度 上昇するのが一般的だった。仲介屋による企業利益の上昇ぶんを考慮すると、仲介屋を従業員百人に二人ぐらい配置しても余裕で元が取れる勘定になるので、多くの会社でこぞって「有能な」仲介屋を高給で処遇するようになった。
二〇三〇年頃には、結婚斡旋会社でも独自の性格指標を開発して導入し始めた。当初、結婚斡旋会社は二〇二五年頃の性格指標ブームに乗って、互いのやりとりで判定される思いやり系指数の高さを根拠にして、「相性抜群」などと理想の相手を判定する目的で性格指標を利用していたが、「相性抜群」で結婚したはずの相手の性格が、結婚後 数年程度で豹変し、こんなに性格の悪い人とは思わなかったと離婚に至るケースが多発した。
つまり、自分をよく見せようと演技し合っている二人のやりとりのみから判定した性格指標は、気に入られようとしている相手の前で演技している性格の指標であるため、これは演技指標と名付けられた。とはいえ、人は誰の前でも多かれ少なかれ演技をしているため、本来の性格というものを定量化するのは難しい。そこで、特に本来の性格ということにはこだわらず、様々な人の前でその人が取る言動から算定した性格指標の平均値をその人の性格のひとまずの代表値として捉え、相手によって、性格指標がどれくらい変わったかを代表値に対する相対誤差で表したものをその特定の相手に対する「演技率」と定義した。
すると、結婚斡旋会社でマッチングされた二人が、どれくらい「演技」しているかということもお互いに数値としてばれてしまうため、結局、最初から本音でコミュニケーションをとる方が「演技率」は低くなり、誠実な人だと評価されるようになった。
一方、相手ごとにころころと性格が変わる程度を表す指標も考えられた。代表的なものは、性格指標の平均値に対するばらつきを変動係数で表したものでカメレオン係数と呼ばれた。カメレオン係数は、脳内にスイッチング回路が形成されているかどうかを判断する代表的指標となった。普段の生活の中では他人に対して善良でやさしい人が、戦地で敵と見なした一般人に対しては、性的なものも含めた残虐行為を平気で行い得る戦争犯罪の例も、普段の生活の中では善良でやさしい人が、職場の部下など特定の個人に対しては平気で暴言を吐けるパワハラの例も、同種のスイッチングであり、そこには程度の差しかないと捉えられるようになった。
「あんた私一人につきっきりで何やってんの? あんたの給料は私の邪魔をすることに対して払われてんの?」
「はい、私があなたの対応をするだけでこの支店の業務効率は五%上昇し、会社の売上もほぼ五%上昇すると見積もられます。これは私一人の人件費のほぼ五倍に相当します。あなたに対応するストレスを避けるため、あなたに依頼すべき社内業務を自腹で外注していた社員もいます。あなたへの対応でメンタルに支障をきたし、辞職した社員は五人になります。もし会社が訴えられていたら、あなたの共感性障害指数は明らかな加害性の証拠となる値なので、彼等は余裕で勝ったでしょう。その場合に会社が支払わなければならない賠償金は、彼等が停年まで働けていれば得られたであろう生涯賃金の残額です。
あなたは自分が相手から不快感を受けた場合、相手に非があるかどうかにかかわらず、すぐにその不快感を相手に文句や厭味として表明することができます。しかし、あなたのような人は少数派で、従業員百人のこの支店に、あなたレベルの不愉快指数の人は、あなた一人なので、まあ、人口の一パーセントぐらいですから、それほど多いわけではありませんが、残りの九九パーセントのうち、あなたと定期的にかかわりを持たなければならない五〇パーセント程度の人は、あなたから言葉による不快感を受け、それがあなたに非がある場合であっても、言い返すことができずに、ストレスを蓄積させていくことになるのです」
「は? バカじゃないの。言いたいことがあるなら言い返せばいいだけで、黙って聞いてるなんてただのバカじゃん」
「はい。すべての人間があなたのような人であれば、そのようなコミュニケーションは合理的かもしれません。しかし、多くの平均的な文化圏、つまり、ほとんどの民族や平均的な家庭、平均的な会社組織では、相手に不快感を与えないように配慮するコミュニケーションが普通です。
これは、人間社会の発展の過程で獲得された比較的 普遍的な文化・習慣であり、ほとんどのコミュニティーでは、こうした社交プロトコルを採用しています。多くの人は、まず家庭内でこうした社交プロトコルを獲得していきますが、幼少期から親に文句や厭味を言われ続けて育ったりすると、またそういう相手にダメージを与える言葉の使い方を、自分より弱い友達等に試して増長したりすると、他人に不快感を与えない社交プロトコルを習得できないまま、大人になる人が人口の一パーセント程度はいます 」
「ちょっと、気をつけてものを言えよ。それって、相当な侮辱発言じゃないか」
「はい、話はまだ途中なので、すいません。稀にですが、相手に気づかう やさしい親の子であっても、Mさんのように、他人に平気で不快感を与えるようなコミュニケーションをとる大人に育つことがあります。学校等で、そのようなコミュニケーションに曝されたことによる適応という場合もありますが、単純に遺伝的な要素が原因の場合もあります。実は多くの哺乳動物でも、他個体の感じていることを想像してそれに共感する思考回路は先天的に備わっていて、具体的にはミラーニューロンという神経細胞がその機能を司っていると考えられていますが、ミラーニューロンに障害があったりして、そのような共感能力を持たない個体もある頻度で発生することが確認されています」
「なんだと、私を障害者呼ばわりするのか?」
「すいません。Mさんがそのケースだと言っているわけではありません。それに私は医者ではないので、そのような診断を下したりはできません。人間の精神はより複雑なので、他人に不快感を与えるのが平気な人というのが、単純にミラーニューロンの障害だと片付けられるものではないのです。例えばMさんは相手の反応を巧みに読み取りながら、相手が最もダメージを受けるような言葉で厭味を言っているように受け取れる発言が多々あるので、おそらく、どんな言い方をすれば相手が最もダメージを受けるかということを想像する際に、ミラーニューロンが機能しているようにも観察されます。つまりMさんの場合は、遺伝的な原因というよりは、生育過程での何らかのきっかけや こだわりが平気で他人に不快感を与える性格を形成したのではないかと察します。」
「黙って聞いていれば、失礼なことばかり言うやつだが、あんたはたった今、診断をしないと言いながら、医者でもないのに診断してるじゃない。たった今 自分で言ったことと矛盾することを言うやつなんか信じられるか」
「はい、不正確な言い方ですいません。私は医者ではないので、診断はできないのですが、性格障害者のカウンセリングの資格を有しており、必要性が認められる場合に性格障害者と医師との間に入り、受診をサポートする役目もあります」
「人を病人 扱いして、医者に行けっていうのか」
「いいえ、Mさんのやっていることは別に犯罪というわけではないし、どんなに周囲の人から嫌われ、好感を抱かれることがなかろうと、Mさん自身がそれで生活に不便を感じることがなく、適度な幸福感を感じながら生活しているのであれば、別に専門医を受診する必要はありません。
参考までに、Mさんのコミュニケーションログを解析したところ、カメレオン係数が意外と大きいことがわかりました。実は、Mさんは誰に対しても相手を不快にするコミュニケーションをとっているわけではなく、顧客との対応、社内でも役員以上の上役たち、また社員の中でも外見にある特徴を有する若いP性に対しては、相手に不快感を与えないような気づかいが観察されています。相手ごとの演技率を見てみたところ、総務部のLさんとのコミュニケーション記録から算定された演技率が五〇%と最も大きくなっています。もちろん、これはよくあることで、好意を抱いた相手によく思われたい場合などには、演技率は五〇%を超えることもあります」
「な、な、な、そんなのセクハラ発言だろ」
「はい、そうです。しかし、Mさんの性格についての問題を解説するために必要な情報なので、あえてそのデータにも触れさせていただきます。 一方で、Mさんが文句や厭味を言う場合の内容は、明らかに相手を見下した発言であり、自分が見下している相手に対しては、相当にひどい文句や厭味を言っても気にならなくなるようなスイッチングが作動しているものと推察されます。つまり、Mさんの場合は、相手がどう感じているかに共感する機能に障害があるわけではなくて、見下した相手に対しては、同情方向の感情を想像しなくていいという例外処理がなされているのはほぼ確実です。このような思考の例外処理は、戦時下におけるある種の洗脳状況で、多くの兵士が、敵国一般人に対して、平気で残虐行為を行えるようになった事例もあることから、誰にでも、洗脳や自分の思い込みなど、なんらかのきっかけで生成されることがわかっています。もし、Mさんも遺伝的な要因ではなく、なんらかの刷り込みや思い込みで、自分の見下した相手に対する例外処理を作ってしまっているのだとすると、カウンセリング治療によって、他人に不快感を与える性格を変えられる見込みがあります」
「よくも、人を病人扱いする気か」
「すいません、もちろん先程も言ったように、どんなに周囲から嫌われ、好感を抱かれることがなかろうと、Mさん自身がそれで生活に不便を感じることがなく、適度な幸福感を感じながら生活しているのであれば、別に専門医を受診する必要はありません。しかし、これは私の想像でしかありませんが、Mさんは、多くの人から嫌われて信頼されず、自分自身も自己承認欲求を満たせていないのではないでしょうか。
Mさんが相手に気づかいながら、Mさんらしくない友好的なコミュニケーションをとっている総務部のLさんですが、先日、私を総務部の飲み会に誘ってくれました。私の他にも、技術部のBさんとか、Mさんから被害を受けている社員たちが、みんなでMさんの悪口を言って、ガス抜きをしていました。私がLさんに、Mさんは誘わないのと聞いてみたら、
――Mさんを呼ぶなら私は来ません。露骨に私だけにやさしく話しかけてくるんで、もうキモくて怖すぎなんで――
と言ってました」
明らかに要「介入」の高い共感性障害指数の値を叩き出したMに対して、あしたから、専任の仲介屋が配属されることになっていた。その情報はMには伝わってはいなかったはずなのに、今日、Mが辞表を提出したそうだ。いったい、何があったんだろう。社長が情報部にログの確認に来た。
「なんか きのう、Mさんの部屋に来客が来てたようだけど、会話ログをチェックしてくれない? アクセスパスワードは持ってる」
「あの社長、これ すごいですよ。あのMさんのダメージ指数が九〇%に達しています。うわ、この来客、ニセカウンセラーじゃないすか。完全にカウンセリングのスキルを悪用してる。誰かに雇われたのかな」
「どうりで。まあ、Mさんの被害者は多いから、なかには報復を考える人もいるでしょう」
「Mさんに、事情を説明するんですか?」
「いや、辞表は受け取っておこう」
了
不快社員 後藤文彦 @gthmhk
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