水泳

石川ライカ

水泳

 僕はいつも鼻をふんふん言わせていたみたいで、いつだってついてくるぬくぬくした騒音は僕の声だったのだとある時気づいた。僕がその発見を一番最初に伝えると、蛙君はそれは声ではなくて鼻「息」なんだよと教えてくれた。蛙君は僕の知らないことをたくさん知っていて、とくに僕のことは僕より詳しい。僕の見えない顎の下とか、背中の癖っ毛とか、なんで僕が小熊なのかとか、色々なことを教えてくれる。

「それは君、小さい熊は小熊って呼ばれる幸福を知らないだけさ。」

 僕と蛙君はよく水辺で話をした。暑い日に僕が湖に飛び込むと、蛙君は迷惑そうに間をあけてから静かに飛び込んでくる。一度蛙君が飛び込んだ瞬間に、僕が水の中で待ち構えていておっきく口を開けて驚かせたら、ひどく怒られた。やっていいことと悪いことがある、君はまだ小熊だけれど、自分の口の大きさや、隣人の身体の小ささをもっと知らなければならない、と言っていた。たしかに蛙君は身体は小さいけれど、水の中にいる時はとっても大きくて、水搔きで水を捕まえると緑の湖全体が蛙君になるような気がした。僕は慌ただしく手足をバタバタさせているだけ。僕は蛙君になりたかった。

「それはどういう意味だい?」

 蛙君は大きな目をぱちくりさせて聞いた。これは蛙君の癖のひとつで、僕に説教をする前か、もしくは太陽を浴びて眠くなっているサインだった。

「どうって、僕はこんな針みたいな硬い毛に覆われてるけど、蛙君は綺麗な緑色で、すべすべの肌をしているから」

「君は小熊だからわからないのさ、両生類の孤独ってものを。僕の肌は濡れるためにあるんだ――ただ濡れるために。わかるかな、僕は永遠に水に飛び込んで、また陸に上がってを繰り返すんだ。いいかい? 僕の身体はこんなに水を欲しているのに、水から上がった時しか僕は濡れて感じないんだ。僕は君みたいに一回きりの迷惑極まりない飛び込みが羨ましいよ。君の毛はいつだって濡れているじゃないか……」

 蛙君が何を言ってるのか全然わからなくて、僕は黙ってしまった。僕は蛙君と一緒には湖に飛び込まない方がいいのかもしれない。せめて蛙君を先に飛び込ませてあげるとか。でも、僕は何もない緑色にキラキラ光る世界を貫いて、華麗に現れる蛙君が好きだった。太陽の下で蛙君に触ることはできないけど、緑の水の中なら、やさしく手を伸ばせば蛙君に触ることができるかもしれない。僕はやわらかな蛙君に触れたかった。

「君を批判するつもりはなかったんだ。けれど、僕と君は違う。この肌も、身体の大きさもね。でも、それは君と僕が一緒にいるためには必要な違いなんだよ。僕はそう思う」

 僕は嬉しいのか悲しいのかもわからなくなって、蛙君に飛びかかった。蛙君はびっくりして跳び上がって――いつだって蛙君の方がはやいんだ――僕と蛙君は同時に湖に飛び込んだ。きっと怒られるだろうけど、たまには僕だって怒られる権利がある。


 少年が目を覚ますと、腕が毛に覆われていた。それは寒い日のことだった。起きた瞬間に、違うとわかった。毛布から出ている顔や首が毛布の中にあるようだった。少年はカエルになりたかった小熊に申し訳ないような気がした。緑のすべすべの肌。この家から一番近い水場はどこだろう。氷が張っているだろうか。眠い眠い冬の朝、少年はぺろりと自分の目脂を食べた。

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水泳 石川ライカ @hal_inu_

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