「『2194匹のサンマによる忍者式自己批判の日々ですね』?」

 〈彼女〉はきょとんとした顔でそう訊き返した。

 無理もない。

 僕らを隔てる丸テーブルの上でふたつのロックグラスが結露に濡れ、炭酸飲料の液面に頭部を湾曲させて映し出していた。〈彼女〉の顔が困惑の色をして少し動き、さらにはグラスの中身は控えめに揺れてもいたから、描き出される彼女の顔は、複雑に歪み具合を変えていった。液面で極端に引き伸ばされた唇の赤色がさらに動く。言葉が吐き出されようとしている。

「それって、その……」

 数拍の沈黙。

「なに?」

「わからない」

 わからなかった。

 バイトの同僚とカフェでお茶している僕は、とっくの昔に〈恋文機械代筆業〉を閉じていた。引き際だと思ったからだ。口コミで広がっていったこの事業の名前はちょっと広がりすぎたところもあって、「ラブレターを機械に代筆させる」という受け取る側からすれば最悪の行為への批判は強まった。というか強まりかけた。あと少し続ければ完全に強まってしまう感覚があったし、そうなれば事態は大きくなって、ただの小遣い稼ぎじゃすまされなくなると思った。

 だから現在の僕にとって、〈ラブレター生成機〉はお茶の途中に話す昔話でしかない。もちろん内容的には「最悪の行為を補助する事業に携わっていた」というものになるから、相手を選ばないと軽蔑されてしまうだろうし、話すときの態度についても、過去の自分は愚かだったと反省しているようなものにすることが重要だ。それさえ守れば、相手の反応は良い。

 特に、この『2194匹サンマ』のエピソードは。

「それって機械が壊れたんじゃないの?」 ほら、こんな風に食いついてくる。

「少なくともインジケータは緑のままだったし、前後に出力された文章は――これはちょっと目に入っただけで、中身をちゃんと見たわけじゃないんだけど――意味の通る普通の文章だったはずだよ。いろいろダミー文を入力しても、変な答えが返ってくることはなかった」

「入力された文章の内容は?」

「それはわからない。僕も確認したいのはやまやまだったけど、やっぱりプライバシーポリシーがあってね。でも、いっそ破っちゃった方が良かったかもしれないな……」

「というかプライバシーポリシーって言うけど、こうやって私に話しちゃうのは良いの?」

「規約に書いてあったのは『個人情報を漏らさない』だけだからね。忍者式自己批判が個人情報だというなら、話は変わってくるけど」

 そういうふうにいくつか問答を続けているうちに、〈彼女〉の言葉はだんだん加速していった。口調はもっと好奇心を隠さないものに変わっていき、身振りはだんだん大げさになって、その頬は日差しの中で紅みを帯び始めているようにも見えた。このちょっとした奇妙なエピソードに過剰なんじゃってくらい興味を惹かれる人がたまにいるんだけれど、どうやら〈彼女〉はその一人らしい。こういうとき、僕は決まった言葉を発して、更に興味を煽ってみせることにしている。

「父が僕に言った自慢を考えるとさ――」

 僕は若干の得意顔と共にそう切り出して、次の言葉を繋ぐ前にグラスに一度口を付けた。正直なところ、この状況を少し楽しんでいるところがあった。この一口を飲み込む時間で、彼女を焦らしてやろうと思ったのだ。

「うん、」

 しかし僕の予想は外れて、

「――『2194匹サンマ』がラブレターとして最高の効果を発揮するような恋情関係が、確かに存在していたってことだよね?」

 〈彼女〉は、先を越してきた。

 予想外の答えに面食らいながら口の中で遊ばせていた炭酸を嚥下すると、喉にざざっと発泡の感覚が押し寄せて、思っていたより辛かった。むせないようにだけ注意しながら、とりあえず答える。

「……あ、ああそうだね」

「ねえ」

 〈彼女〉は体勢を立て直す隙も与えず、更に好奇心を爆ぜさせてくる。

「私、それが具体的にどういう状況なのかすごく気になる。ちょっとしばらく考えてみたい気分なんだけど、あなたは何か予想を建てたりした?」

 視線が合う。その辺を舞う埃でもグラスの水面でもなく、彼女自身の瞳と合う。炭酸の爆発がまだ舌と喉を焼いていて、なにか初めてその感覚を体験するみたいに錯覚しそうになる。

「一緒に考えようよ」

 吸い込まれそうな虹彩だった。



 鉄製の扉は歪んでいて、がらがらと音を立てて横にスライドしたそいつが物置に呼び込んだ日光すらも、なんだか歪んでいるような気がした。

 気のせいだ。

 物置の汚れて古めかしい匂いの中。日光が生み出した道の内側で、重力に負けた埃たちが、豪雪というには控えめすぎる有様で、静かに微かに揺れ落ちていた。太陽はちょうど入り口と向かい合う位置にあったから、陽光はまっすぐ物置に差し込む形になる。僕の佇まいの輪郭だけが、影を落として光道を邪魔していた。

 影はべったりと寄りかかっている。

 物置の手前の中央で眠る、〈ラブレター生成機〉のまっすぐな筐体に。

 僕は右足をひとつ踏み出す。風が生まれて塵が散り、影が踏まれて闇が止む。そしてまた別の闇へと変じる。形状の変化した光道の中で、埃はやはり舞い踊っていて、けれども僕の影が変形したことでいくつかの埃は闇にのまれてしまったし、逆に闇から顔を出した埃もあった。

 そいつらが寄ってたかって〈生成機〉を取り巻いているという事実は、もうここ数年不変のままだ。

「よし」

 相変わらず意味のない呟きをしながら、二歩三歩と影を変えていって、ひんやりした物置に完全に侵入する。日光すら届かない壁棚で、父の残した発せない明かるくない品たちが僕を手招きしている気もしたけど、流石にそいつらに用はない。

「ええと」

 〈ラブレター生成機〉に両手をかける。父にしては気の利いたことにキャスターがついていて、倉庫から運び出すのは難ないことだ。今までそうしなかったのは、〈代筆業〉をやらない限り、自分が恋文を必要としている時くらいしか、こいつを使う機会がなかったから。

 力を入れかけた手が止まる。

 僕は本当は知っている。僕がこれから倉庫から〈生成機〉を運び出して、かつての仕事場まで運び込んで、電源につないで、便箋紙を補充して、例のノートPCとも接続して、それで僕と〈彼女〉の事細かな関係を入力したテキストファイルを作ってドラッグアンドドロップして『Done』を見て少し待てば、その先で一枚の便箋が吐き出されることを知っている。その内容は『2194匹のサンマによる忍者式自己批判の日々ですね』で、多分几帳面そうな文字でも書かれてもいて、あとは〈彼女〉にその紙きれを渡せば、それで僕らが結ばれるなんてとっくに知っている。そうしたいとも思っている。でもそんなの答えじゃないんじゃないかって気もしてしまっていて、○○って慣用句の例文を書く問題で「○○と彼女は言った」と答えるみたいなものな気がしてならなくて、僕の恋にも彼女の恋にも失礼な気がしてならなくて。だから僕は止めた手をそのまま離した。一歩後ずさった。二歩三歩と後ずさった。もっと。

 がららっ!

 と最大限勢いをつけて閉めた扉の向こうで、埃たちが人生で見た中で一番の舞踏を見せているのがわかった。彼らは竜巻のように捻じれて歪んで躍動し、あるいは細まっていく日光の線に何とか触れようと必死にもがいているようにも見えた。でも無駄だった。

 物置が閉め切られる。

 扉に落ちる僕自身の影が、やけにくっきり強く見える。

 書き出しを何にするか考え始めていた。

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