第5話 メッセージのやり取りなんて、きっかけがあればできるもんだ
「次の夏はさ、海に行こうよ」デートの終わり、必死に取り付けた来年の約束。
「いいよ」って美波の返事に浮かれて、ほんの少し見せた寂しそうな笑顔に、気がつくことができなかった。
個人メドレーの最終種目は自由形。
刻一刻と迫る最後の壁までに、どれだけタイムを縮められるか。隣のレーンなんて気にしてられない。
自分の限界まで手足を動かして、一分一秒でも早く。
必死に泳ぐ美波の耳に、心に届くようにと、声を振り絞って手を真っ赤にして声援をおくる。
大会前の大切な一日。その一日を俺との時間に費やしたところで、美波の成績に大した支障はない。
もちろん俺の成績にも。
中学最後の大会、美波は県大会入賞。俺は地区大会敗退。
もちろん俺だけじゃなくて部員のほとんどが俺と一緒。我が校において美波が極端に強いだけ。
それでも、たった一人でも県大会に出られるのが個人競技の良いところで、美波を応援するために県大会の会場にくるのも三回目だ。
「美波。お疲れ」
「これで終わりかぁ。なんだか寂しいね」
会場から帰る電車の中、普段と変わらない会話。
たった一日のデートは、結局俺と美波の間には何の変化も与えてくれず、メッセージアプリの画面は未だに白いままだ。
大会を最後に水泳部の活動期間は終わる。その後は、ただの受験生に戻るだけ。
プールの中で水に潜っていた日々が、部屋の中で参考書の波に潜る日々に変わる。
俺だけじゃない。美波だって、きっと同じような時間を過ごしてる。
次に美波に会えるのは引退式だ。
俺たちの引退式は、夏休み最後の登校日。プールサイドに並んで、顧問のありがたくもない話を聞いて。「ありがとうございました!」なんて言いながらプールに向かって頭を下げる。
誰も何も感じてない白けた場。
そりゃそうだ。俺たちはまだまだ卒業しないし、後輩とだって校内ですれ違う。
本当に込み上げるものがあるのは、卒業式の当日だろう。
冷ややかな空気が取り巻く中、耳に届いたのは誰かが鼻をすする音。
思わず辺りを見回せば、涙を堪えていたのが誰か、すぐにわかる。
「美波ー。泣いてんの?」
「たかやっ。うるさいっ!」
「涙は卒業式までとっとけって」
「いいじゃん! 何だか泣けてきちゃったの!」
美波の涙につられるように何人かの女子が涙を流してたけど、やっぱり美波が一番可愛い。
美波の涙が引退式にそれらしさを付け加えて、俺たちは三年間の水泳部活動に終わりを告げた。
もう、今までみたいに美波と気軽に話せる場もなくなる。
クラスメイトですらない俺と美波の接点は部活だけだから。
優等生の美波と劣等生の俺。
釣り合わない、ふさわしくない、そう言ってるような周りの視線が痛い。
プールの中で、夏の太陽の下で、少し浮かれただけ。
その夏も、もう終わる。
『また、かき氷食べに行かない?』
夏が終わる前にもう一度、女々しい誘い文句を親指で打って、また消して。
部屋のベッドの上に寝転んで、もう何度繰り返しただろうか。
メッセージアプリのグループ一覧。一番上は水泳部だ。今年のグループも、もう必要なくなる。もうメッセージが送られてくることのないトーク欄を、つい開いてしまった。
『美波が退室しました』
目に入ってきたのは、無機質なその言葉。
誰かがグループから抜ければ、その人の足跡のように表れる言葉。
これまでだって何人も見てきた。
通知もないままのその言葉は、いつだって静かに見つけてもらえるのを待ってる。
引退式も終わった。
俺だって、もう必要ないグループだってわかってる。
でも、まさか、美波が引退式のその日に抜けるなんて。
慌てて美波とのトーク画面を開く。
『グループ、もう抜けたの?』
いつもよりも冷えた親指が、何度も打ち間違えながら、スマホに載せた。
いつものように消してしまいそうになる親指を、慎重に送信ボタンへと動かす。
まるで25mを泳いだ後ぐらい息が上がって、心拍数が上がって。
目を瞑って、息を止めて。
初めて、トーク画面に言葉が載った。
時間にして数秒のこと。
浮かび上がった『既読』の文字。
美波が俺のメッセージを読んだことがわかる。
それから、どれだけ待っても返事はない。
普段どうでもいい言葉にだって、健気に返事をする美波の既読無視。
「既読スルーされるの寂しいもん」そんな美波の言葉が、頭の中に響き渡る。
『電話していい?』
美波からの返事がもらえれば何だって良かった。
美波が言葉を返さないわけにはいかない文章を打ち込んだ。
浮かんだ『既読』の文字と、その下に続くOKのスタンプ。
それを見た途端に、俺の親指は美波に電話を繋げた。
「美波? 突然電話してごめん」
「ううん。大丈夫」
電話越しに聞く美波の声に、俺の心臓はさっきとは違う意味で高鳴る。
「グループ、抜けたんだ」
「うん……」
「早くない?」
いつもと会話の空気が違うのは、電話だから?
黙りこくった美波の返事に耳を澄ませる。
どんな小さな声だって聞き逃さないように、その息遣いに神経を尖らせる。
「な、なんっで。たかやが、一番に気づくのぉ」
ようやく聞こえた美波の声は、涙声だった。
「ごめん」
美波の泣き声に、わけもわからず謝る。
美波が泣き止んでくれるなら、何とだって言える。
「抜けたあたしが悪いの。たかやじゃない」
「そんなに寂しいなら、まだ抜けなきゃ良かっただろ?」
そうだよ。もう誰も発言しないだろうけど、別に消さなきゃ良かったんだ。
「……ダメなの。そうしないと、いつまでも忘れられない」
忘れる? 忘れる必要なんてないだろう?
「何で?」
「あたしね、転校するの」
泣き声まじりに打ち明けてくれた美波の事情。
両親の離婚が成立して引っ越すって、ただそれだけの理由。
俺以外誰も美波の転校を知らなくて、夏休み明けのみんなの驚いた顔に、少しだけ優越感を感じる。
まさか、釣り合わない俺だけが知ってたなんて、思いもしなかっただろ。
美波の転校の衝撃も数日もすれば薄れ、また普通の毎日が戻る。
ただ、俺の親指はもう躊躇しない。
美波とのトーク画面には、数えきれないぐらいの文字が並ぶ。
今日も俺は美波に向けて、自由に言葉を飛ばす。
僕の親指は、君へのメッセージを紡ぐ 光城 朱純 @mizukiaki
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