オーロラを見に行った時の話
佐藤山猫
「危機一髪」
このお題を見た時、まさに今の状況にうってつけだと、わたしは弱々しくほくそ笑んだ。
すっかり日が沈み、外には雪垣がそびえるホテルのベッドの中である。
日本ではない。北米はカナダ・イエローナイフという都市のホテルの一室である。
イエローナイフといえばオーロラ観測で有名な観光地。写真で見ないと薄ぼんやりしていたとか、メガネに霜がついて前が見えなかったとか、感想も感動も種々あるが本筋ではないので一旦脇に置いておく。
わたしはバンクーバーを経由して帰るフライトを予約していた。明日には出立が決まっているという日だった。
your flight is cancelled
メールで送られてきた一文を食い入るように読み返した。
天候不順で、予定のフライトが欠便したというのだ。
この時、カナダ全土を記録的な寒波が襲っていた。
当初の予定では、往路と同様に、イエローナイフからバンクーバーを経由し、土曜日には成田空港に到着している手筈だった。
いま、手元のメールから示された代替案では、イエローナイフからトロント、トロントからモントリオール、モントリオールから成田空港着となっている。到着予定は丸二日後ろ倒しになって、月曜日到着の予定だった。
我ながら呆れることではあるが、この時わたしが最も恐れたことは「出勤できない」の一点であった。社畜もいいところである。すっかり洗脳されかけている自分を可笑しく思いつつ、しかし深刻さは変わらなかった。
トラベルエージェントに相談したがエージェントでもどうしようもないとのことだった。空港に行き、航空会社と交渉すればなんとかなるかもしれない、とも。
トラベルエージェントに立ち寄った足で空港に向かい、交渉する。目標は、なるべく早くカナダから帰国すること。日曜日中に帰国できれば、上司に頭を下げずに済む。
拙い英語でわたしは交渉した。果たして、エアラインの窓口が提示してきた案は日曜日に帰国するプランだった。
イエローナイフ発エドモントン行き、エドモントン発バンクーバー行き、バンクーバー発成田行き。イエローナイフを経つ日は土曜日の早朝とのことだった。新しいチケットを受け取るわたしの手は震えていたと思う。
感謝で? 当然だがもうひとつ。
発熱だ。
寒波のためか、慣れない環境によるものか、わたしはしばらく体調を崩してしまっていた。
海外旅行中の発熱ほど怖いものはない。
体調を崩したのは夜からのことだったので、解熱剤や咳止めをありったけ飲んで回復を祈った。頭が朦朧として、ありったけ着込んでいるはずなのに寒気がする。かと思えば体が焼けるように熱くもなり、起き上がり枕元に備えた水を飲む余裕すらなかった。
そんな中で見たお題が「危機一髪」であったから、乾いた笑いが込み上げてくるのも必至だろう。込み上げてきた笑いは激しい咳にかわったけれども。
そして、うなされ疲れ、高緯度ゆえに重役出勤の太陽と共に起きたところで、航空会社から再度メールが届いていた。嫌な予感がした。
your flight is delayed
遅延。
飛ぶ予定はある。
しかしイエローナイフから先、エドモントンからのフライトについては一切サポートされていなかった。
再び空港へ赴く。
同じような状況に陥っていた日本人観光客と状況を共有し「どうしましょうか」と嘆き合った。
話をする中で、航空会社を変えるという選択肢が浮かび上がった。どうやら、当初の航空会社は割合に欠航やら遅延やらを起こすらしい。
「エアラインを変えてでもいい。一刻も早くイエローナイフを出たい」
予定通りにいかない苛立ちと焦りと、そして万全には回復しなかった体調──熱は下がっていた──を抱えて、わたしは窓口にかじりついた。
必死の交渉は実り、代わりのフライトが手配された。
本日15時台のイエローナイフ発エドモントン行き、乗り換え45分でエドモントンからカルガリーへ乗り換え、そして乗り換え50分でカルガリーからバンクーバーへ。深夜のバンクーバー空港で翌昼まで待機し、成田空港へ。
到着は日曜日で、スケジュールは全く申し分なかった。
ホテルに置いてきた荷物を引き上げ、エージェントに報告と挨拶を済まし、延泊の予約にかかった費用を惜しみつつチェックインを済ませる。
寒波を超えてガタガタ揺れる小型機に乗って、わたしはエドモントンへ旅立った。
荒天に纏わりつかれながらも、15分遅れで便はエドモントンに到着した。
キャビンに積み込んだキャリーケースを下ろす時間も惜しい。
Run!
誰にともなく呟いて、乗り換え口まで駆けた。
そして、脱力する。
the flight is delayed
何度も見た英文が目に飛び込んできた。
読めば、どうやら30分の遅延。
別に走る必要は無かったし、カルガリーでの乗り継ぎ時間は20分しか無かった。
「もし予定の飛行機に乗れなかったら、カスタマーセンターへ言って下さい」
わたしを含め、何人もの乗客がそう声をかけられていた。機内では「乗り換えのタイトなお客様を先に下ろします」のアナウンスまであった。
この期に及んでは、祈ることしかできなかった。
結論。予定の便には乗れなかった。
空港で迎えてくれた航空会社のスタッフは、そのままわたしたちをカスタマーセンターへ導いてくれた。
せっかく帰国の目処が立っていたのに。
何も信じられないと絶望的な気持ちでカウンターに向かう。問われるがままに名前を告げると、差し出されたのは一時間後のバンクーバー行きのフライトチケットだった。
今日の日ほど、神に感謝した日はなかっただろう。
安堵した途端にぶり返し出した風邪の諸症状に悩まされながら、バンクーバー空港に辿り着いた。あとは咳と喉の痛みさえ治ってくれたら良いのだが、そこは自己免疫力に期待する他ない。
思い返せば、航空会社の窓口に掛け合ったくらいしか、自力の努力をしていない。それだって、努力と言えるか怪しいくらいだ。危機一髪の経験なんて、他に沢山あるし、してきた人だって山ほどいることだろう。
しかしながら、だ。経験というのはどこまでも主観的なもので、経験の良し悪しや事の重大さは、比較するようなものではそもそもないのだと思う。
今回の旅を通じて、わたしはフライトの度重なる遅延という初めての経験を得ることができた。
いま、わたしは、バンクーバー空港国際線チェックインゲート前のフードコードでこの文章を書いている。投稿する頃には飛行機の中き、日本に着いている頃だろう。
帰国した時、何日か経って読み返した時、「色々あったけどいい経験だった」と胸を張ることができていればと願って、この文章を締めくくりたい。
2024年1月13日
佐藤山猫
オーロラを見に行った時の話 佐藤山猫 @Yamaneko_Sato
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