幸せと秒針

明月朱春

時計は心も動かす

 幸せな時間は長く続かない。

 ずっとそう思って過ごしてきた。

 なのに、ある時から私の考え方は変わった。

 もしあの時、時計の針が進んでいなかったら、今私はどんな日々を過ごしていたんだろう。

 時々、そんな疑問が浮かぶ。

 でも、想像するのは無駄だし、何よりも辛かった時期を思い出すのが嫌で、いつもすぐに考えるのを辞める。

 今の私は幸せで、先のことは考えて悩むことは無い。

 過去の自分だったら、絶対にもうすぐ悪いことが起こると不安になっていただろう。

 幸せなはずなのに、幸せを楽しめない。

 それが、私だったから。


 喫茶店でいきなり声を掛けられた。

「あの、どこかであったことありませんか?」

 私には心当たりが無く、知らない人から声を掛けられた恐怖心で少しの間、思考が停止した。

 落ち着いた茶髪。短めのセンターパート。

 こんな人、知り合いにいたっけ?

 声を掛けてきた人はずっと私の返事を待っているようだった。

 一言も発さず、ただ静かに待っていた。

「ごめんなさい。思い出せないです。人違いだったりしませんか?」

「いや、そんなことはないと思います」

 思った以上に強気で来られて、私はこの人の正体を思い出さないといけない気がした。

 私は、何か大切なことを忘れてしまったのかと思ったが、交友関係の少ない私が、そこまで記憶に残らないはずがない。

 名前を聞けば思い出すかもしれないと思い、尋ねてみた。

「名前を聞いてもいいですか?」

「いいですが、名前を聞いても分からないと思いますよ。まあ、一応伝えておきますね。雅琉叶です」

「雅さんですか…。やっぱり分からないです。ごめんなさい」

「いえ、僕の方こそいきなり声を掛けてしまってすいませんでした。では、失礼します」

「えっ、いや。」

 結局、雅と名乗ったその男は、何処で私と会ったのか、どうして私のことを知っているのか詳しくは教えてくれなかった。

 モヤモヤしたまま、残っていた仕事を片付けて店を出た。


 次の日もずっとあの人が誰なのか気になったままだった。

 何故、何も教えてくれなかったのか不思議に思いつつ、無責任に声を掛けてきたことに怒りが沸いた。


 あんな人、どうでもいい。

 どうせ、人違いだ。

 そんなことを思いつつも、どうしても気になってしまった。

 次の日、もう一度、あの人に会えるかもしれないと思い、あの喫茶店に行くことにした。

 少し前まで行きつけだった喫茶店「クロック」の一番奥にある外の見える席が私のお気に入りだ。

 会社が移転する前は外を眺めながらここでよく仕事をしていた。

 私はその時間が大好きだった。

 仕事が楽しくないと感じるようになった頃、気分転換で少し遠回りをして帰ろうと思い、初めて入った喫茶店がクロックだった。  

 クロックは私を救ってくれた。

 会社では楽しめなくなっていた仕事が、クロックでやると何故か楽しく感じた。

 でも、一度楽しく感じると意外と会社でやる仕事も楽しく感じることができた。

 なのに、会社が移転してクロックに通うには遠くなってしまった。

 上司が新しくなり、部署も変わった。

 新しい上司は厳しく、理不尽な上に部署が変わったことで慣れない営業に周ることになった。

 そして、残業も多くなり、心も体も少しずつ疲弊していった。

 本当に辛くなった時、クロックを思い出し、久々に行ってみようと思った。

 それが、昨日のことだ。

 そして今日、元気を出すという目的以外でクロックの一番奥の席に座っている。

 少し店内を見回して、あの人を探した。

 正直、いるとは思っていなかったが、わずかに期待している自分もいた。

「やっぱり、いないか。」

 溜息と共に独り言が口から落ちた。

 琉叶と名乗ったあの人はいなかった。

 せっかく、クロックに来たので少し仕事をしてから帰ることにして、パソコンを開いた。

 あれから、一時間が経った。

 少し外を眺めて休憩をしていると、幸せだった時を思い出した。

 毎日が楽しくて、自分が輝いていた。

 周りの人に恵まれ、最高の日々だった。

 でも、すぐに新しい環境に慣れない私の全身には、日に日に辛さがのしかかってきた。

「幸せな日々は続かない」

 そう思った。

 それが、現実だと突き刺されたようだった。

 少しのことで幸せを感じられるのに、少しのことで地の底に落とされる。

 でも、幸せだった頃も、いつ自分がまた辛くなるか不安に思うことがあった。

 そんな時、ある人が私を救ってくれた。

 その人のおかげで、私の考え方は変化し、心が軽くなった。


 あ、あの人は…。


 ―二年前

 学生時代から使っていた腕時計が壊れてしまい、入社二年目の時に腕時計を買いに行った。

 その時に一緒に時計を選んでくれた店員さんだ。

 昔ながらの落ち着く雰囲気を漂わせた、大きいとは言えない時計屋さんだった。

「お探しのものはございますか?」

 店内で、腕時計の場所を探していると声を掛けられた。

「腕時計を探しているのですが…」

「どのようなものをお探しですか?」

「今まで使っていた物と似ているものを探しています」

 私は、この間壊れてしまった思い出の時計を見せた。

 この時計は、就職祝いに尊敬している高校の先輩からもらったものだ。

「かしこまりました。少々お待ちください」

 少し経ってから、店員さんが戻ってきた。

「こちらの腕時計はどうでしょう」

 店員さんが持ってきた腕時計は、まさに私が求めている物だった。ゴールドのベルトにローマ数字で書かれた文字盤、そして文字盤

 はクリスタルガラスが囲んでいた。

「とても素敵ですね。これにします」

「ありがとうございます。ところで、失礼を承知でお伺いしたいのですが、前と同じような時計が良かった理由はあるのですか?」

 何故そんなことを聞いてくるのか少し不信に思った。

 でも、対応が良く、悪い人ではなさそうなので、理由を言ってみることにした。

「幸せな時間を共に過ごしてきた物だったので、幸せな時間が長く続くといいなと思って。私は幸せな時間は長く続かないと思っているので…」

 つい、余計な事まで言ってしまった。

「そうでしたか。でも、そんなことは無いと思いますよ」

「えっ、どういうことですか」

 何を言われるのか、内心ヒヤヒヤしてしまう。

「幸せな時間は自分の気持ち次第で、長続きするものだと思います。日常の中で、少しの幸せを集めていけば、振り返った時に幸せな時間だったと思えると思います。必ずしも、悪いことが待っているとは限らないと思います」

「そうかもしれないですね。ありがとうございます」

 今まで、背負っていたものが、ゆっくりと落ちていくような感覚。

 腕時計を買うだけで、こんなに励まされることがあるのかと驚いた。

 幸せな時間は自分次第という言葉は、ずっと不安だった私を変えてくれた。

 なにより、辛かった私を元気づけてくれた。

 そんな雑談をしてから、お会計をした。

 買った時計を渡す時、店員さんはこんなことを言ってくれた。

「腕時計の贈り物には、勤勉に取り組んでください。とか、頑張ってください。という意味があるそうです。だから、これは僕からの贈り物だと思ってください。」

 そう言って、さりげなく少し安くレジに商品を登録してくれた。

 初対面の店員さん。何かの記念でもないのに、こんなにしてもらうのは申し訳ないと思った。

「いいんですか?こんなにしてもらって。そんな義理ないですよ」

「大丈夫ですよ。お仕事頑張ってください。応援しています」

「すみません。でも、本当にありがとうございます」

 あの店員さんの「大丈夫」という言葉は、まるで私を励ますために言ってくれたようだった。


 初対面だったけれど、あの店員さんの言葉は温かくて嬉しかった。なんだか背中を押された気がして、これから頑張ろうと思えた。



 気が付いたら、結構な時間が経っていた。

 あの人の正体が思い出せた今、どうしてもあの人に会いたかった。もう会えないかもしれないのに、こんなに待っているのは徒労なのかもしれない。

 でも、会いたかった。

 あの、時計の針を進めてくれた人に。

 私の世界を変えてくれた人に。

「いらっしゃいませ」

 店内に店員さんの声が響き渡る。

 と同時に、あの人が目の前に現れた。

 少し店内を見回したその人は、

「あっ、いた。」

 と小さな声で言いながらこちらへ近づいてきた。

 私は、目の前に来た雅さんに尋ねた。

「もしかして、二年前時計屋さんで働いていた方ですか?」

「はい。思い出してくれたんですね。ずっと気になっていました。頑張れているかなって」

「そうだったんですか。でも、何故最初に言ってくれなかったんですか?」

「それは、何となくです。覚えていないと思ったし、昨日のこともすぐ忘れてしまうだろうと思ったんです。もう一度会えただけで良かったので…」

「その割には、謎解きさせてもらいましたけど」

「そんなに気になったなんて。ごめんなさい」

「気にしないでください。こうしてもう一度会えて、あなたの正体が分かったので大丈夫です」

「なら良かったです」

「あと、私はあの時のあなたの言葉で頑張れていました。雅さんが、幸せな時間は続くこともあると教えてくれたので。」

「僕にはそんな力があるとは思えないですけど、お力になれたようで良かったです」

 あ、そうだった。

 幸せな時間は続くこともある。

 自分の努力次第で楽しい日々を送ることができる。

 教えてもらったのに、忘れていた。

 上司の変化や部署の移動のせいで幸せではないと思うのは、自分から幸せになろうとしていない証拠だ。

 こんなに大切なことを忘れていたなんて。

 もう一度、あの人に会えて良かった。


 この時、私の幸せの時計は再び秒針を進め始めた。


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