彼女の乗れなかったノアの方舟

高田正人

彼女の乗れなかったノアの方舟



 私たちは、一生懸命頑張ったんだ。

 大人たちと協力して、一隻の方舟を作った。

 でも、私たち子供はそれに乗れなかった。

 乗り込んだのは大人だけ。

 あいつらは子供に方舟を作らせて、自分たちだけが乗り込んだ。

 やがて大洪水が起こる。

 溺れる私たちに、大人たちが笑顔で手を振っている。

 ――絶対に許さない。私たちの努力を無駄にするもんか。



 風祭藤花(かざまつりとうか)。

 廃校になるこの瀬戸町の上月(かみづき)高校に残った在校生だ。

 僕は樫村雅昭(かしむらまさあき)。一応スクールカウンセラーだ。

 この時代、子供たちは「例外」という異能を持っている。大人が関知しない子供たちの特殊な夢想(ルール)。それが現実を歪曲する現象が例外だ。

 僕のスクールカウンセラーの資格は、例外を取り扱う「外縁」という組織が用意した建前だ。

 僕は子供たちの例外に対抗できる大人だ。地に足がつかない思春期の夢を、現実という地べたへと引きずり下ろす。それが僕の仕事だ。



 上月高校の校門は、その日も例外によって封鎖されていた。

 黄色と黒のロープと「立入禁止」の立て札だけで人の行動が制限されるように、例外を使えばそれ以上の超常が発生する。


「藤花、入ってもいい?」


 僕は細い糸が張り巡らされた校門で尋ねた。


『また来たの? 今すぐ帰って』


 女子生徒の刺々しい思念が校舎の方から浴びせられてきた。


「今日は差し入れを持ってきたよ。立てこもるのも大変でしょ。レトルトカレーとかカップ麺とかあるけど」

『いらない。さっさと帰れって言ってるのよ』

「しょうがないな。じゃあ、通らせてもらうよ」

『私の話を聞いてないでしょ!?』

「聞いてるよ。それはそれ、これはこれ。これが大人の対応」

『あー! 入ってくるな!』


 僕は校門をふさぐ糸をどかす。普通の大人なら糸に触れた途端、自分の目的を忘れてしまうだろう。けれども僕は例外を無効化できる。

 僕は校舎に立てこもっている生徒を説得する――追い出すために外縁から派遣されたのだ。


「藤花、そっちに行くよ。見られたくないものがあったら片づけておいてね」

『死ね! この変質者!』

「こらこら。女の子が汚い言葉を使っちゃいけないよ」


 藤花の思念をあしらいつつ、僕は異界と化した校舎に入る。風祭藤花という少女は例外において優秀すぎる。平安時代に生まれたら陰陽師の頂点だっただろう。

 たぶん学校の怪談という概念を「糸でくくって」現世に釣り上げている。トイレに行けば花子さんに引きずり込まれ、廊下は迷宮になり、理科室では人体模型が徘徊しているだろう。

 階段を上がって三階へ。一気に夢想が濃厚になった。


「藤花。そろそろ学校から出ようよ。転校の手続きなら僕たちが代わりにしてあげるからさ」

『ふざけないで! 廃校になんてさせないわよ! みんなお金に目がくらんで学校を売り渡して!』

「落ち着いてよ藤花。瀬戸町が財政破綻したらもっとひどいことになるんだよ」

『だから何よ! 大人の都合に振り回されるのはもううんざり! 出て行けって言ってるでしょ!』


 話が通じないけど、まあいつものことだ。



 僕は生徒会室にたどり着いた。

 ドアを開けようとすると、隙間から白い糸が伸びてきた。僕が手を引っ込めると、糸はドアを覆い尽くす。あくまでも籠城するつもりらしい。


「う~ん、この方法しかないか」


 僕はポケットから長い鋏を取り出した。


「切るよ~」


ドアの向こうから声がした。


「馬鹿なの? これは夢想そのものよ。例外を使えない大人がこれを切れるはずが……なんで!?」

「さあ、なんでだろうね?」


 僕が刃先を動かすだけで、ドアを覆っていた糸は切れていく。中の藤花が鍵をかける前に僕はドアを開けた。

 僕は肉体的には一般人だ。入れたくなければ、鍵をかければいいだけだったんだよ。


「こんにちは、風祭藤花」


 そこは整理整頓された生徒会室だった。在校生がいつ帰ってきてもいいように片づけられ、掃除されていた。痛々しいくらいに。


「この痴漢! 変態! 不審者! 警察呼べるんだったら呼びたいわよ!」


 セーラー服を着た長身の女の子が叫ぶ。黒髪につり目。見るからに気の強そうな顔つき。手に持っているのは糸巻き。裁縫道具のセットが机に並んでいる。

 彼女が風祭藤花。廃校反対を主張する上月高校三年生であり、校舎の解体を妨害するべく立てこもっている少女だ。


「前も言ったじゃないか。僕は藤花の味方だって」

「先生に話すことなんて何もないって言ってるでしょ」

「とりあえず落ち着いて。声が枯れちゃうよ?」


 彼女は口を閉じて僕をにらみつける。

 本来は視線だけで他人を拘束することも可能だろう。視「線」は糸に近しいからだ。


「ほら、コーヒー飲むでしょ? ポットのお湯だけもらうよ。君のカウンセリングと言うと肩ひじ張っているけど、悩みがあったら聞こうと思ってさ」


 僕は大人が翻弄される夢想に触れることができるし、大人の狡猾さでそれを解除することもできる。だから外縁という奇妙な組織に所属して、スクールカウンセラーもどきをしているのだ。


「……はあ。何を言っても出て行かないんだったら仕方ない。少しは付き合ってあげるから」


 長々とため息をついてから、藤花は窓際を離れて椅子に座った。


「そうこなくっちゃ。藤花もカウンセリングと思わず、ただの愚痴を吐く機会に思ってくれればいいよ」


 僕は二人分のコーヒーを煎れてテーブルに置く。テーブルの上の花瓶には、白い造花が生けられていた。


「どうぞ」

「……ありがとう」


 ちゃんとお礼を言うところを見ると、藤花は本当はいい子だと分かる。そんな子が、例外を使い校舎に立てこもっている。その理由を僕は知っているけど、彼女の話を今は聞きたかった。



「先生はさ……」


 しばらく警戒していた藤花だけど、コーヒーを飲むと少し落ち着いてきた。こんな時、夢想の無効化しかできない自分がありがたい。僕が攻撃的な例外を持っていた場合、藤花は警戒を解かないだろう。


「ノアの方舟って知ってるでしょ?」

「知ってるよ。神様が大洪水を引き起こすから、あらゆる生物を乗せる舟をノアが作ったんだよね。旧約聖書の物語だ」


 うん、と藤花はうなずいた。


「たとえ話だけどさ――私は、方舟を作ってたんだ」

「模型とか?」

「だからたとえ話って言ってるでしょ!」


 藤花は怒った顔でマグカップを机の上に置く。


「私たち生徒会は、財政難の瀬戸町に依頼されて町のPR活動とかもしてたんだ。このままじゃ廃校になってしまうから、君たちも町を盛り立てる活動に励んでくれないかって」

「うん、知ってるよ」


 僕はうなずく。ここに来る前に外縁から情報は得た。


「物産展を開いたり、町のPVを作ったり、沢山のイベントをしてたんだよね。結局うまくいかなかったみたいだけど」


 そう言うと、藤花は鼻で笑った。


「私を含めて、生徒会は本気で信じてたんだ。大人が私たちに期待してるんだから、それに応えようって。生徒会と町議会。二人三脚で走れば、きっと納得のいく結果になるって」


 藤花は苛ついた様子で糸巻きをいじる。彼女の夢想は糸になってキラキラと光った。


「でもね、町長も町議会も、最初から分かっていたんだ。何をしても無駄って。最初から、上月高校は廃校の予定だったのよ。じゃあ、なんで私たちに瀬戸町のPRをさせたと思う?」


 ぎり、と藤花は奥歯を噛んだ。目に憎悪の光がともる。


「お金よ。あいつら、私たちを使っていっぱい補助金を集めたの。上月高校の名前を借りて募金だって募った。でも、そのお金は町の公共施設を改築したり、自分たちが使うために……」


 要は有権者の御機嫌を取るために、高校を利用して都合のいい活動を行っていたのだろう。


「気づいた時にはもう遅かった。私たちが何を言っても町の人たちは耳を貸さない。結局高校は廃校で、大人が決めた結果になったのよ」


 藤花の話に僕はただ耳を傾ける。


「私たちは方舟を作ったようなものよ。完成させたら、大人が勝手に乗り込んで私たちはおいてきぼり。大洪水で私たちが溺れるのを、舟の上から大人たちが笑って見てるの」


 藤花はそこまで話すと、急に激高して叫んだ。


「そんなことってある!? この学校が好きだから頑張ったのに! 私たちは大人に利用されたのよ。廃校から救おうって言ってたくせに、自分たちだけお金を儲けて!」


 藤花は椅子を蹴立てて立ち上がると、生徒会室を出て行こうとする。僕は慌てて叫ぶ。


「どこに行くの?」

「下の寝泊まりしている教室。先生は付いてこないで。今日はもう話したくない」

「待って!」


 僕は彼女を止める。藤花は一瞬だけ歩みを止めて吐き捨てた。


「うるさいな! もう私には構わないでよ!」


 それは大人にはどうにもならない、子供が感じる苦しみだ。きびすをかえす藤花の背中に、僕は声をかけた。


「僕も藤花がどうすればいいのかまだ分からない。でも、一緒に何が最善か考えることくらいはしたいんだ。また必ず来るから」

「来ても無駄よ。馬鹿馬鹿しい」

「それでも来るよ。君が学校にいたければいつまでも待つし、一人で生きていける大人になりたいなら、僕が手伝うつもりだ」


 振り返った藤花はしばらく、僕を品定めするように見ていた。そして、わざと聞こえるようにため息をついた。


「先生みたいな大人、初めて見た」


 藤花はそう呟くと、最後に一言だけ言った。


「少なくとも、明日は来ないでよね」


 そう言って彼女は生徒会室を出ていった。僕はその後姿を見送るしかなかった。



 それから何度も、僕は藤花の所を訪れた。

 町議会からは「早く生徒を退去させてくれ」と急かされたけど、僕は「苦情は外縁に言って下さい」とあしらった。

 瀬戸町のPR活動についても調べてみたけど、確かに巧妙な手口で生徒たちは担ぎ上げられていた。学校のためではなく、町の財政のために。

 後から抗議できないよう学校側には「このPR活動はあくまでも瀬戸町そのものを盛り立てる活動です。上月高校の生徒会に協力してもらっていますが、廃校の回避となると……明言はできませんが、前向きに検討し、総合的な町の発展のために尽力いたします」と言ってあったようだ。

 一人の教師は僕の質問にこう答えた。


「私たちは、廃校の撤回よりも素晴らしいものを生徒たちに与えたんです」

「それはなんですか?」

「やりがいと思い出です。一丸となって努力するやりがいを生徒たちは学びました。かけがえのない思い出でしょう」


 キラキラ輝くその言葉は、アルミホイルよりも軽かった。

 また別の、町議会のあるお偉いさんは僕の質問に困った顔で言った。


「君も大人だから分かるだろう? 私たちでは廃校を撤回できないんだよ。国が関係することだからね」


 そう。僕も大人だ。藤花から見れば、汚い大人の一人だ。


「だから、そういうことは聞かないでくれ。どうしようもなかったんだよ」


 お手上げ、という顔でそう言われれば、僕は引き下がるしかなかった。



 このことを僕は藤花に全部伝えた。彼女は悔しそうに「やっぱりそうだったんだ」と言ったけど、それで終わりではなかった。大人たちの無責任は彼女を追いつめていた。


「もういいよ。先生は首を突っ込まなくていいから」


 ある日の夕方、藤花は生徒会室で僕に言った。


「今日、廃校に反対してた最後の一人が辞めた。『先輩と一緒に思い出ができた』って諦めた顔で笑ってた。もうここにいるのは私一人だけ」

「でも、君はまだ諦めていない」


 藤花は僕から顔を背けて叫ぶ。


「何だったのよ、私たちの活動!? 大義名分もないし、一緒に高校を守ってきた生徒ももういない! 全部無駄だったのよ!」

「無駄じゃないよ」


 僕は言う。彼女は一瞬絶句した後、憎々し気に吐き捨てた。


「先生だって大人のくせに! 子供の居場所に入ってきて場違いだと思わないの!?」

「思うわけないだろう。君は大人が助けるべき相手なんだ」

「私は助けなんか求めてない!」


 藤花の叫びと同時に、彼女の持った糸巻きから無数の白い糸が伸びた。夢想が形になった例外に、普通の大人は対処できない。でも僕はそれを払いのける。

 子供を大人にすることは、時に理想を諦めさせる醜い行為に代わってしまう。


「じゃあ先生は何をしてくれるの!? 一緒にデモとかしてくれる!? 市役所の前で拡声器で叫ぶ!?」

「落ち着いて、藤花」

「先生も他の大人と一緒よ! 安全圏から説教して、私を見下してるくせに!」


 次の瞬間、糸巻きから伸びた白い糸が増えた。それは白い縄になり、生徒会室の天井にくっつく。そしてその先端は輪に……絞首刑の縄の形になっていた。


「……いっそ死にたい」

「藤花、駄目だよ」


 僕は彼女に近づく。


「先生――私が死ぬのを見てて」


 僕は天井を見上げた。無数の絞首刑の縄が垂れ下がっていく。これが藤花の心象風景なんだろう。

 藤花の唇が動き、例外という自らの異能を名付ける。


「縊(くび)れ――――白締縄(しろしめなわ)」


 藤花は机の上に立つとその輪に首を通した。足で机を蹴れば、そのまま彼女は首を吊るだろう。


「……先生はスクールカウンセラーだよね。じゃあ、生徒が死にたいっていう願望をそのまま肯定してよ」


 藤花は僕を言葉で追い詰めようとする。


「君が本当に死にたいなら、僕は止められない。今君を止めても、後で屋上から飛び降りるだろうね」

「分かってるなら今私を死なせてよ! いっそ一緒に死んでよ!」

「僕はできない。常識に縛られた大人だからね」


 僕の保身に満ちた返答に、藤花の目が侮蔑と悲しみで染まった。


「……床に土下座して。『藤花さん、どうか死なないでください』ってみっともなくお願いしてよ。ほら早く」


 藤花に急かされる。でも僕は何もしない。藤花は苛立ったように唇を嚙んだ。


「死なせたくないんでしょ!? 先生って大人でしょ!? 大人は子供を助けてくれるんでしょ!?」


 応じるべきだ、と思った。大人がどこまで子供に向き合っているのか、知りたいのだろう。

 僕は床に手をついて彼女に懇願した。額を床に擦り付ける。


「藤花、どうか死なないでほしい」


 待っていたかのように藤花は叫んだ。


「みっともない。無様。情けない。気色悪いし大人失格。本当に惨め。大人が子供に手をついてお願いして恥ずかしくないの?」

「そうだね。僕は今、大人として恥ずかしいことをしている」


 藤花は机の上から僕を見下ろす。主導権は彼女にあった。でもそれもつかの間だ。僕は立ち上がると、次の瞬間には彼女の手をつかみ、縄の輪から脱出させていた。


「離して! 私をだましたの!?」

「そうじゃない。本当に首を吊ったら危ないからだよ」


 怒りに任せて藤花は僕を突き飛ばした。勢いのあまり僕は尻もちをつく。


「別に本気で死のうって思ったわけじゃない! 先生を困らせたかっただけ!」


 そう怒鳴ると、藤花は天井から垂れ下がっている縄を糸巻きに回収していく。

 僕は大きく息をつく。藤花はそう言っていたけど、僕には本気で彼女が首を吊ろうとしていたようにしか見えなかった。

 その、自死を選ぶほどの苦しさが例外に形を与えた。糸巻きに戻っていく白い糸の一部が軌道をそれ、僕の体を這いあがっていく。


「え?」


 藤花が驚きの声を上げた。彼女の意志とは無関係らしい。それは僕の手首に巻き付き、血のような色に変わった。

 僕は夢想に耐性がある。それなのに視界が揺らいだ。


「……あ、れ」


 僕はそのまま真横に倒れた。視界が暗くなっていく。耳は何か叫んでいる藤花の声を聞いていたけれど、次第にそれも遠ざかっていった。



 ゆっくりと目を開ける。それと同時にインフルエンザのような悪寒が押し寄せる。


「ここは……」


 背中はマットレスだ。そして体の上には、可愛らしいデザインの毛布とタオルがかけられていた。


「先生!? 気が付いたの!?」


 少し離れたところに藤花がいた。濡れたタオルを絞っている。

 僕は首だけで周りを見回した。私物が置かれた教室だ。着替えやお菓子、スマホに勉強道具。窓の外は真っ暗だった。もう夜らしい。


「ここは……?」

「前言ったでしょ。私は空き教室に寝泊まりしてるの。ここは私室みたいなもの。だからあんまり見ないで」

「ごめん……」


 藤花は呆れた顔で椅子に座った。


「まったく、いきなり倒れるんだから驚いたわよ。仕方ないからここに寝かせてあげた。先生って本当に馬鹿だよね」

「自分でもそう思うよ」


 僕は横になったままうなずく。


「あれはただの嫌がらせだったんだよ? 私なんか早く死んだほうがいいんだって暗に伝えただけ」

「死んでいい子供なんて誰もいない。藤花だってそうだよ」


 藤花はあの時のような絶望した顔はしていなかった。この子は世話焼きなんだと思う。誰かを構っている方が、気が紛れるかもしれない。

 僕はその時、手首の痛みを思い出した。毛布から手を出してみると、まだ赤い痣が残っている。


「これはなんだろう……?」

「私の夢想が先生の中に入っちゃったみたい。辛かったり苦しかったりとか、負の思念とかそういうの?」

「だから藤花は少し気が楽になったんだ。よかったよ」

「違うってば。それって呪いみたいなものよ。とりあえず寝てて。私の寝てるところで悪いけど、看てあげる」


 藤花が僕の額に濡れたタオルを当てた。清廉な何かを感じる。これが本来の藤花の夢想なんだろう。あんなに痛々しく歪んだものじゃなくて。


「ありがとう、藤花。でも仕事があるから戻らないと」


 そう言って上半身を起こしかけたけど、めまいがして立つのは難しかった。仕方なく僕はまた横になる。


「ああもう。先生は強がってばかりなんだから。辛いんだったらそう言ってよ」

「……それは君も同じだよ、藤花」

「今は言わないで。治ったらまた話に付き合ってあげるから」


 藤花は毛布の中に手を入れ、僕の手を握ってくる。まるで僕がここにいると確認するかのように。


「ねえ……今何を考えてるの?」

「どうしたら……君の辛さや悔しさを理解できるんだろうって。どうすれば、君の気持ちに共感できるんだろうって」


 僕はつい正直に言ってしまった。外縁の自称スクールカウンセラーではなく、一人の人間として。

 ぽかんとした感じで藤花は口を開けていた。


「そんなことを考えるから、私の呪いを受け取っちゃうのよ。ほんと、先生って馬鹿」

「そうかもね……」


 僕は力無くため息をつく。そんな僕に対して、彼女は笑った。以前の苛立ちや強情さが影を潜めた、優しい笑顔だった。


「それは大人の傲慢よ。だって、先生は私とは違う人間。私の辛さも悔しさも分からなくて当然だから」


 けどね、と藤花は付け加えて、僕の手をさする。


「――知ったかぶりしないし、本気で私を分かろうとしてくれたことだけは、認めてあげる。ありがと、先生」


 藤花はそう言ったきり、手を離さなかった。僕は照れくさくなってきた。穴があったら入りたいような気持ちになって、無理矢理目を閉じることにした。



 やがて。

 眠りについた雅昭の呼吸が安定してきたので、藤花は手を毛布から抜いた。

 彼の赤い痣を指でいじると、それはするすると抜けていった。ムカデのように逃げるそれを、藤花はつまみ上げて糸巻きに戻した。

 藤花は一人呟く。


「……もう潮時なのかな」


 それは、立てこもるのにも限界が来た、ということなのだろう。

 廃校を学校から告げられた時は当惑した。ずっとそうならないように、町のPR活動にも一生懸命協力したのに。でも、当の瀬戸町が学校の存続を望んでいないと知った時、藤花は絶望した。

 最初から、校舎に立てこもりたかったわけじゃない。大人たちの非道を訴えるのに仕方なくだ。


「私って、やっぱり子供なんだな……」


 確かに藤花には、例外という異能があった。しかし、校舎を異界に変えるその力は、肝心の上月高校を存続させることはなかった。

 今までは感じなかった無力感。それを突きつけたのは雅昭だった。だから藤花は彼を拒絶したのだろう。

 でも、雅昭は彼女の異界に入ってきた。

 藤花が自殺しようとすれば、土下座して助けようとした。あっさりと呪いを受けるほど、無防備で自分と接してくれた。


「もっとほかに方法がなかったのかな?」


 藤花の問いに答える者はいない。ひどく疲れた。でも、雅昭の寝顔を見ると心が少しだけ安らいでいた。

 藤花は彼の隣で毛布をかぶる。夜は更けていく――



 それからしばらく後。

 曇天の下、僕は藤花と並んで校舎の解体を見ていた。

 藤花はすっかり落ち着いているように見える。

 僕が彼女の呪いを受けた日の翌日、つきものが落ちたような表情で藤花は言ったのだ。


「先生に免じて、もう立てこもるのは止める。出ていくよ、ここから」


 僕に免じて、というのはきっと藤花の欲しかった辞める理由だろう。本当はもう疲れ果てていたに違いない。

 瀬戸町は喜んだ。町議会の面々はぬけぬけと「さすがは外縁の専門家ですね」と僕に言ってきた。あなた方が藤花を追い詰めたのに、と僕は思ったが口にはしなかった。


「ねえ先生」


 僕は彼女を見る。彼女が着ているのは私服だった。


「どうして今も私に会いに来るの? もう先生の仕事とは関係ないでしょ?」


 僕は外縁と掛け合って、藤花のケアを続けている。外縁としても最上級の例外を有する藤花は手元に置きたいので、利害が一致したのだろう。大人はいい加減で欲が深いと思う。


「藤花、君は前、ノアの方舟のことを言ったよね」

「うん。私の方舟はあの高校だった」


 藤花は壊されていく校舎をじっと見つめる。


「ほら――それが今、沈んでいく」


 その黒い瞳は、大洪水の水を呑み尽くした深淵のようだった。

 ずるい大人の一人である僕は、それでも言いたかった。思考ではなく、本心が口を開かせる。


「ひどい話だよね。君を置き去りにして、大人たちはクルージングを楽しんでいる。あの人たちが乗っている方舟は、君たち生徒が作ったのに」


 藤花を置き去りにして、何事もなかったように町の行政は続いていく。その理不尽を僕はつい言葉にしてしまった。


「先生、私の台詞を取らないでよ。それに今の台詞、スクールカウンセラーとして失格だと思うけど」


 案の定、藤花の声には呆れの感情が乗っていた。


「ごめん。でも、それが僕の本音だよ」


 我ながら藤花に影響されすぎた、と思う。例外の糸を使わずとも、彼女は僕を自分の側に引き寄せていた。


「初めて、そう言ってくれたね。大人をかばわなかったし、私が悔しい時に、それを否定しないで一緒に悔しがってくれた」


 藤花が視線を移した。深淵のようだった瞳は、校舎ではなく僕を映していた。


「今はそれで充分。大人たちの方舟なんて、もうどうでもいいよ。あいつらがどうなろうと、私には関係ない。どんな方舟だって、いつかは沈むんだし」


 藤花は口元に小さな笑みを浮かべたけど、僕には強がりに見えた。


「行こう、先生」


 さっさときびすを返そうとした藤花に、僕は呼びかける。


「上月高校という方舟は沈んだかもしれない。だったら、僕が君の方舟になるよ」


 僕は藤花に語りかける。


「どんな方舟もいつかは沈むなら、どんな大洪水もいつかは終わる。君が水に沈みそうなら、僕が君の仮のよりどころになりたいんだ」


 止まない雨はない。

 でも、それは濡れていない者の台詞だ。ずぶ濡れの人が欲しいのは傘であって、実況じゃない。だから、僕は傘を藤花に差し出したい。


「いつか水が引いて、乾いた大地が姿を現すよ。藤花が一人で自信を持って歩いていける時だ。それまで、僕の方舟に乗っていていいよ」


 藤花が悲しみを癒して自立できる時は必ず来る。僕は彼女が濡れた体と心を乾かして、雨が止むまで仮の居場所であればいい。

 藤花は当惑した様子で僕から視線をそらした。


「先生ってそういう恥ずかしいことを平気で言うよね。まるで夢物語みたい」


 でも――と藤花は照れくさそうに笑ってくれた。


「信じてみるよ、先生」

「ああ、信じていいよ」


 僕はうなずいてみせた。この言葉に偽りはない。ただちょっと恥ずかしいだけだ。

 その時、曇り空から雨粒が落ちてきた。


「雨だね」


 藤花が空を見上げて言う。


「傘、持ってこなかったな」

「私の糸で傘を作ってあげる」


 藤花がポケットから糸巻きを取り出した。白い糸が空中に広がり、雨傘の形に変じていく。

 藤花が例外で作った傘は一つだけだった。片手で柄を持って、当然のような顔で藤花は僕を手招きする。


「さ、入って。濡れちゃうよ」

「あのさ、藤花。できれば二本作って……」

「つべこべ言わないで。大人ならこれくらい受け入れなさい」


 諦めて僕は彼女の傘に入った。得意げに藤花は寄り添う。

 僕は藤花の居場所になろうとした。でも今、彼女の傘に間借りさせてもらっている。

 もしかしたら、僕の方が藤花という方舟に乗せてもらったのかもしれない。

 あの時。呪いを受けた僕を、藤花が看病してくれたように。

 きっと僕たちは、そうやってお互いを支えながら、この大洪水をどうにかして生き延びていくんだろう。


 なんて――人間らしいんだ。


 安全圏でクルージングを楽しんでいる大人たちが、絶対に知らない真実だ。




 そうして僕たちは上月高校を後にした。

 藤花は、一度も振り返ることはなかった。


[完]

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