トゥールの88ミリ砲

諏訪野 滋

トゥールの88ミリ砲 


 間近にとどろ炸裂さくれつ音。

 耳をふさいでいたのは幸運だった、鼓膜こまくはどうやら無事らしい。

 マルチナは自分の神に感謝すると、振り返って戦友の姿を求めた。


「イルゼ、連隊本部と連絡ついた!?」


 塹壕ざんごうの底にへばりついて長方形の箱をいじくりまわしていたイルゼは、ヘッドセットを投げつけると泣き出しそうな顔になった。


「……駄目、無線機の電源自体がいかれてる。マルチナ、手榴弾しゅりゅうだんの予備ある? これで装甲の薄い車体上面を狙えば、T34相手でもなんとかなるんじゃ」


 イルゼの血走った目を見て、マルチナは彼女が恐怖に支配され恐慌に陥っていることをさとった。

 マルチナはイルゼのそばにかがみこむと、平手で彼女の頬を軽く叩いた。


「馬鹿、あんた生身で戦車に肉薄にくはくするつもり? ここを出たら、五メートルも進まないうちに奴の機関銃でミンチにされるよ」




 一九四一年六月二十二日、ドイツ第三帝国は突如ソビエト連邦との国境を超え、敵国の首都モスクワへの進撃を開始した。

 「バルバロッサ作戦」の発動である。


 作戦の序盤じょばんは順調であった。

 ソ連軍の国境警備隊の兵力が少なかったこと、ドイツ軍の事前工作によって通信網が切断されていたこと、ソ連首脳部の初期対応が消極的であったことなどから、ドイツ側としては不意打ちに完全に成功した形になった。


 そして戦車群にやや遅れて随伴ずいはんする形で、マルチナとイルゼは女性砲兵として従軍していた。

 楽勝だ、と二人は思った。

 国境から離れるにつれて糧食りょうしょくと燃料の配給がとどこおりがちなのは気になったが、制空権を確保したドイツ自慢の空軍による支援爆撃の効果も著しく、部隊はほぼ無人の野を進むかのごとくであった。


 しかし日数が経過するにつれて、二人はお互いにふさぎ込みがちになった。

 特にマルチナと比べると理想主義のイルゼの方が、先に精神が参ってきていた。

 なにしろソ連兵は、降伏というものを容易にしない。

 彼らは自分たちの政府に、ドイツ軍に捕えられれば虐殺ぎゃくさつされ、降伏すれば故郷の家族を処罰すると脅されており、戦意を無理やりにかき立てられていた。

 自分たちと同じ年ごろの女性兵士が機関銃の前に身をさらしては倒れていく姿を目撃し続ければ、正気でいられる方がどうかしている。


 そんな個人の感傷など一顧いっこだにすることもなく、勢いに乗ったドイツ機甲部隊、とりわけ中部方面群はひたすら東進し、七月五日には第三戦車軍の先頭は、ドイツ国境とモスクワのほぼ真ん中に当たるソ連の都市オルシャまで進出していた。




 そこで彼女たちは見た。

 丘の上に陣取じんどる、一両のソ連製新型戦車を。


 手前にはすでに、ドイツの誇るⅣ号戦車が二両、Ⅲ号戦車も三両が黒煙を上げて擱座かくざしている。

 先行していた別の砲兵隊が、3.7センチ対戦車砲をすでに展開していて、今まさに敵戦車に向けて砲弾を撃ちこんだ。

 マルチナは勝利を確信した。

 彼女の先輩が測的そくてきつとめるその隊は、対フランス戦で戦車五両を撃破して勲章くんしょうを授与された、砲兵隊のエースだった。


 だが。

 彼方かなたから聞こえてきたのは、甲高い金属音。

 それは装甲版を貫通する独特の重低音とは異なる、絶望の鐘の音だった。

 この短い距離で、はじかれた。


 初撃で決められなければ、戦車と相対した歩兵の群れはあわれだった。

 新型戦車の前面に設置された機関銃がうなりを上げてマルチナの先輩たちを肉片に分解し、とどめに放たれた76.2ミリ戦車砲は、かつて対戦車砲が設置されていた辺り一帯を、薄く煙が立ち上る巨大なクレーターに変えた。


 降りかかる土砂を吐き出しながら塹壕に飛び込んだマルチナの元いた場所に、機関銃の弾丸がぶすぶすと土煙を立てて突き刺さる。

 溝の中にはすでに五、六人もの兵士達が横たわって動かず、ただイルゼだけが返事のない無線機にひたすら呼びかけ続けていた。


 マルチナは呼吸を整えると、塹壕の縁からわずかに頭を出して前方を観察した。

 ドイツ兵のせん滅を確信したのだろう、敵戦車は機銃の掃射そうしゃをやめると、二人の方に向かってゆっくりと前進を開始していた。

 その周囲には、散開した徒歩かちのソ連兵たちが、周囲に散らばったドイツ兵士の死体にとどめの弾丸を撃ち込んでいる。


 あれが教官の話していたソ連の新型戦車か、とマルチナは戦慄せんりつした。

 T34と呼ばれるそれは、最新の傾斜装甲と馬力あるエンジンによる快速性、さらに強力な主砲を兼ね備え、ドイツ軍のあらゆる戦車をスペック上は凌駕りょうがするとも言われていたが、前線に投入されるのはまだ先だと誰もが楽観視していた。

 それが今、自分たちの進路に立ちふさがり、踏みつぶそうと迫ってきている。


 マルチナは恐怖に駆られて後方を見たが、味方の戦車が到着する気配はなかった。

 いや、仮に到着したとして、それでどうなるというのだろう。

 兵器開発はシーソーゲームだ、どんなに優れた兵器もいずれ研究されて、それを超える兵器が必ず現れる。

 しかしこの場では、T34は無敵だった。


「イルゼ。そんな役立たずの箱なんか放っておいて、逃げるよ!」


 イルゼは、涙と鼻水でぐちゃぐちゃにした顔を上げた。


「逃げるったってどこに。あの戦車、私たちが走るよりずっと早いよ」


 彼女の言う通りだった。

 のちに知ることになるT34の最高速度は、整地された路上で時速55キロ、不整地でも時速30キロの高機動を誇っていた。

 それでも、とマルチナは思った。

 走らなければ死ぬ。


 マルチナはぎらつく目で後ろを見回した。

 最も近い雑木ぞうき林まで、五百メートル以上は優にありそうだった。

 だが、迷っている時間はない。

 放心しているイルゼの腕を無理に引き上げると、二人はかりそめの天国から、本物の地獄へと飛び出した。


 百メートルまでは、何事も変化はなかった。

 ひょっとしたらうまくいくかも、とのマルチナの期待は、急に大きくなってきたドイツ軍のものとは明らかに異なるエンジン音にさえぎられた。

 見つかった。


「もっと早く、イルゼ。林までいければ、私たち助かる」


「マルチナ、もう無理。置いて行って。二人離れ離れになれば、どちらかが助かる可能性は高くなる」


 いかにも理系のイルゼらしい考え方だ、とマルチナは思った。

 そうはいくか。

 あんたの母ちゃんに私から戦死報告するなんて、そんなのまっぴらごめんなんだよ。


 ついにマルチナの耳に、機関銃の弾丸が地面を掘り返す音が聞こえてきた。

 聞きなれたその音は、振り返らなくてもわかる。


「あと三十秒だけ走りなさい。いい、三十秒よ。たったそれだけ」


 マルチナは時間を区切ることで、イルゼに最後の力を振りしぼらせようとした。

 しかしその自分の言葉は、自身には何の救いももたらさなかった。

 三十秒も必死に走れば、その反動で自分たちの心臓も肺も限界に達し、そこで終わるだろう。

 それでも悲鳴を上げる肉体が、その間だけでも恐怖を和らげてくれる。


 マルチナは息を荒げた。

 どうして私たちはここにいるのだろう。

 正しいとか間違いとか、善と悪とか、そんなものここにはない。


 せめて、イルゼには。

 神よ、慈悲じひを。




 北欧神話には、トゥールという雷神がいるという。

 ソ連兵が神に不平等を唱えるとしたら、まさしくこの時だったであろう。


 マルチナの脳内に大音響の雷鳴が充満し、わずかに遅れて暴風に似た風切り音が尾を引いていく。

 もはや車長の表情が視認できるほどの距離まで二人に迫っていたT34は、一瞬その動きを止めると、突然の黒煙と共に爆散した。


 背中に熱風を感じ、イルゼをかばうように抱きかかえたマルチナは、折り重なって地面に突っ伏す。

 出征しゅっせい前に空軍に研修で出向していたマルチナは、そのあまりに特徴的な発射音をよく覚えていた。


アハトアハト……」


 雑木林に隠れていた一基の高射砲が、危機一髪の彼女たちを救った。

 対空砲として開発されながら、高い初速による装甲貫通力から対戦車砲として転用され、フランス戦車相手に猛威を振るった88ミリ高射砲。


 ぺたりと座り込んだ二人の方へ、雑木林から飛び出してきた友軍が駆け寄って来た。

 後ろを振り返ったマルチナは、戦意を喪失して武器を放り出し逃げていくソ連兵を呆然と見送る。

 若い女性の衛生えいせい兵がハンカチを取り出すと、いつの間にかできていたマルチナの頬の傷を優しくぬぐった。


「よく頑張ったわね。ここまで逃げて来てくれて、良かった」


 マルチナは自分の膝の上に横たわって気絶しているイルゼを抱きかかえると、彼女の胸に顔をうずめて嗚咽おえつした。




 あの戦いを振り返ったとき、マルチナは考える。

 大型で重量があるため移動には車両すら要し、しかもその運用には多数の人員をさかねばならない88ミリ砲が、あんなに都合よく前線に配備されていたというのは不可解だ。

 だとすれば上層部は、自分たちがいた戦場にT34が出現することを、あらかじめ知っていたことになる。

 私たちは、ソ連の新型戦車をおびき出すためのおとりになったのか。


 マルチナは、自分の横でシーツをかぶり安らかな寝息をたてているイルゼの髪をそっとかきあげると、その額にキスをした。


 神なんて気まぐれだ、私たちの味方をしてくれたなんて傲慢ごうまんな考えをいだいては、死神を招き寄せるだけだろう。

 それでも、私たちはかろうじて生きている。


 どうやら今回だけは、彼女たちは神の嫉妬しっとを買わずに済んだようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

トゥールの88ミリ砲 諏訪野 滋 @suwano_s

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説