ロードバイク

石川ライカ

ロードバイク

眠れない夜は、目覚めてみるとはたして本当に眠れなかったのか、自分を問いただしてみたくなるような愚にもつかない生真面目さを感じて恥ずかしくなる。たとえば子供の頃はナルシストでありロマンチストであったので布団のなかでうつ伏せになり口を半開きにして顔面を枕に横たえる。そうするとそこはドットの少ない砂漠地帯であり、自分は腹部から血を流して行き倒れている。貧弱な想像力はとってつけたようなドラマチックな終末しか描けないので、はたして「俺」はなぜこんな目にあってるのか皆目分からない、しかしこんな人生も乙だったなと言って死に絶える。アンチヒーローを砂漠で殺してみたって眠れるわけでもなく、この貧弱な妄想はカッコよく物語を閉じたいという自分の願望そのままでなんとも情けない。これは大学生になっても変わらない。貧乏学生とはいえども一人暮らしなので好き放題に本が買える、そして本棚は値がはるしどうせ二年もすれば引っ越すものと思い、必然的にベッドから見渡すけしきは荒涼とした不毛の地となり何層建かの文庫本のビルディングが埋もれている。とりあえず学生らしく生きようと目を背けて何冊か本を読み、はたして「読了」なんていう状態はほんとうに存在するのだろうかとイチャモンめいた妄想に浸って眠りに落ちる。するといつのまにか生活はガリバー旅行記よろしく文庫本の山に囲まれている。自分は本棚になったかのように身動きが取れず、アアこうして廃墟や諦めはその領土を広げていくのだと納得する。本が崩れて圧死する夢でもみて気を紛らわそうとするが、たとい文庫本が崩れたところで大したことはあるまい。ああイヤだイヤだ、こんなことならでっかい本棚をベッドの横に据えて劇的な死を予感しながら憎しみを膨らませていたかった。処刑装置としての本棚、どう考えても言いがかりである。夜に誰かの部屋にいる状態は不自然なもので、大体の動機は性欲か睡眠欲か食欲だと思うが、たまには何もない宙ぶらりんな状態もある。あるとき「一年分の週刊少年ジャンプがある」と聞き、ある女性の部屋にいた。その頃の僕はコーヒー豆を挽くことにちょっとした古い気配のある調度品のような存在意義を見出していたので、その時もコーヒーミルを持参していたのだが、それを持ちだすまでもなかった。セイコーマートで買った安ワインだろうか、その人は自分の部屋で躓き、座っている僕の太腿あたりに倒れた。もともと繊細な、というよりある種のぼんやりとした不鮮明さが魅力的な人ではあったので、一寸びっくりしつつも「大丈夫?」と声をかけた。甘言ではないが、「無理しなくていいよ」とも言った覚えがある。いまこの記述が言い訳めいているのも、あの夜が何であったのか、つかみどころのない気まずさを今でも忘れずにいるからである。そしてその人は俗に言う「膝枕」の体勢で寝てしまった。僕はワインに手が届く位置ではあったが、姿勢を変える事は不可能で、胡座をかいたままその夜感じたものは背中の鈍い痛みだけである。その人の迂闊さには何だか昔から親しみをもっていたので、「膝枕」などという不埒なワードには非常な異議を申し立てたいのだが、そう説明するしかない居心地の悪さもあの夜にはたしかにあったのである。「あなたは余っ程度胸のない方ですね」と言われるような間柄では決してなかった。そんな人はこの文章には登場しない。あの時自分は、部屋の壁の三分の一ほどを占める週刊少年ジャンプを見ながら、あれが崩れる時はさぞ爽快なのだろうな、あの硬く糊付けされた背表紙には自分の鼻腔もその形を保ってはいられまい、と妄想に浸るのが精一杯であった。はたして二年経ち、実家に帰ってみれば部屋がない。一先ず父親の部屋の半分ほどを借り受けて布団をひろげることにした。程なくして文庫本に囲まれはしたものの、今回はいままでとは勝手が違い、ずいぶん大きな異物が自分を見下ろしている。壁の側面には特殊なラックが備え付けてあり、そこには自転車が二台、上下に掛けられている。しかも一台は父親のもの、もう一台は自分がわざわざフェリーで北海道から持ち帰ってきたものだ。これが何とも暴力的である。ロードバイクとかいう代物なので、特徴的なのはドロップハンドルとかいう角の曲がり方を間違えてしまった高原の鹿のような頭部だが、これは横たわって下から見た場合は幾分様子を異にする。自転車は手入れの都合でタイヤを外して掛けておくので、見上げると黒ずんだチェーンが不気味に垂れ下がり、前輪のあったところにはそれを支えるはずだった二本の強靭な金属が此方を窺っている。名称を調べてみるとフロントサスペンションだとか前ホークだとかいうらしい。前ホークとはよく言ったもので、これを下から眺めていると、彼らがとたんに殺意をもって上から降りかかってくるような思いがして、その二本の牙をもってすれば自分の腹部は大きなフォークでひと思いに貫かれてしまうだろう。何とも頼もしい。矢張り同居人は物言わぬ金属でできているくらいが生活にメリハリがつくように思う。眠れない夜、その二本のカーボン製の槍が自分の眼球めがけて落ちかかってきた。一本は右眼の眼球を押しつぶしたものの、もう一本は運悪く左耳を引き千切るにとどまった。なんてことだ、僕の頭蓋骨は殆ど無事らしい。右眼があった場所の窪みから血が吹き出して鼻の穴に入る。ツンとする鉄の匂いはどうやらこの槍ではなく僕の膿んだ顔面の穴から生じているようだ。いやにとろみがあり、鼻や喉が詰まり呼吸がし辛い。むせるとたしかに自分の頭部がフォークによって固定されているのがわかる。絶命というのはこんなにも状態的な、自分の損壊を克明に味あわされるものだったとは。ドロップハンドルがはるか天空に聳えており、なおよく見ると血飛沫が付着している。それほどまでに落下の衝撃は大きかったのだ。この窪みはただ窪むだけでなく、その瞬間に大きく跳ね返ったのだ。しからば自分の眼球もどこか見知らぬ場所へと脱出を遂げているかもしれぬ。どうやら物言わぬ金属製の友人はあまりロマンティックな死を思い浮かべないものらしい。俺はまだ死なないばかりか、血のプールを泳いでいく眼球のことばかり考えている。

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