おでんの出汁を

鈴ノ本 正秋

本編

目の前が真っ白になるほどの湯気が四角い鍋から立っていた。その四角い鍋の中には仕切りが引かれており、大根やちくわ、こんにゃくなどが出汁の中で浮かんでいる。そこからおじさんは菜箸で大根を取り、プラスチックの容器の中に入れた。


「小僧、あとは何が欲しい?」


おじさんは僕が住んでいたアパートで隣だった人で、口周りを覆うほどの髭を生やし、眉をいつも顰め、不機嫌そうな表情をしている。本人曰く目がかなり悪いらしく、ぼやけている視界を正していると、自然に眉が寄ってしまうらしい。だからそれを隠すために、額に僕がプレゼントした手拭いを巻いている。今は必要ないのに付けてくれていることが少し嬉しい。


「もう僕は二十二歳ですよ。小僧と呼ばれる年齢じゃないですよ」


僕が口を窄めながらにそう言うと、おじさんは「まだ小僧じゃないか」と笑った。そして、まだ僕はおでんの具材を答えていないのに、おじさんは勝手にこんにゃくを入れた。


「小僧はこんにゃくも好きだったよな。貧乏学生の癖に、一丁前に二つも具材を頼みやがって」


「それはおじさんの店に全然お客さんが来なくて、このままじゃ閉店するかもって言っていたからですよ」と、僕はここまで言うと、あることを思い出して吹き出してしまった。「それでいつも出汁を容器から零れるくらい入れてって頼むと、おじさんは決まって嫌な顔していましたよね」


「当たり前だ。俺のおでんは具材にはこだわっているが、出汁にはこだわりがない。それを小僧に馬鹿にされるかもと恐ろしかったんだ」


おじさんは大根とこんにゃく、そして出汁が容器から溢れてしまうほどすれすれに入った容器を僕の前に差し出した。

僕はそれを受け取ると、プラスチックの容器ごしでじんわりと熱を感じた。冷え切った指先が桜色になった頃に、僕は容器をカウンターテーブルの上に置いた。


「馬鹿になんかしませんよ。それにおじさんのおでんの出汁は美味しくて、温かかった」


「おでんなんだから温かいのは当然だい」


「なんで突然江戸っ子風なんですか」


「俺は生まれも育ちも江戸でい」


「おじさん昭和生まれなんですから、東京に変わってから百年以上経ったあとじゃないですか」


僕はそう問い詰めると、おじさんはそっぽを向いた。僕はおじさんの顔を見てやろうと、席から立ち上がって回り込もうとするも、区切りがないカウンター席に阻まれてしまった。

そうだった。僕は向こう側に行くことはできないんだった。


仕方がなく席に座り、カウンター席に備え付けてある割り箸の束から一つだけ取った。そして、失敗しないように真ん中らへんを両手で丁寧に摘んで、左右に引っ張った。前に割るのを失敗して、新しいのを取ろうとしたらおじさんに怒られたことを思い出して、口角が上がってしまう。


パキっという乾いた音と共に割り箸が二つに分かれた。しかし、力の配分を間違えてしまったからか、右手で摘んでいた方の箸が少しだけ大きくなってしまった。僕の口角が上がってしまっていた。


「おじさん、割るの失敗しちゃったから新しい割り箸使ってもいいですか?」


僕は少し笑いながらそう問いかけるも、返答がない。そっぽを向いてしまったまま、おじさんの大きな背中だけが僕の目に映る。

流石は人生の先輩だなと思う。生涯をかけて奥さんを幸せにして、子どもを成人させるまで育て上げ、六十六年間生きてきた男の背中は多少猫背になっても頼りがいがある背中をしている。


*****


おじさんとは一度、お酒を酌み交わしたことがある。二月の閉店したおじさんのおでん屋さんの中で、余ったおでんをつまみに僕がコンビニで買ってきた缶ビールを二人で煽った。その時の僕は就活中で何度もお祈りメールを受けており、人生の大先輩であるおじさんに話を聞いて欲しかったのだ。


「小僧。まずはおでんを腹いっぱい食え。そして、腹がいっぱいになるまで話せ」


面接で落とされ続ける僕は駄目な人間でしょうか、という問いに対してのおじさんの答えだった。

僕はおじさんの言う通りおでんを頬張りながら、就活での不満を話した。面接官が圧迫面接をしてきたこと、面接では好感触だったのに落とされてしまったこと、エントリーシートを書き疲れてしまったこと、もう就活をしたくないと心から思ってしまったこと。

もはや就活に対する悪口を負の感情を爆発させて言っているだけであったが、おじさんはビールを口に運び、頷きながら聞いてくれた。


そして、僕のお腹が満たされた頃、僕の負の感情はいつの間にか小さくなっていた。


「辛いことや悲しいことがあった時は、おでんと酒でも用意して、語り合うのが一番なんだよ。そうすれば乗り越えられる」


僕は今でもあの言葉を忘れない。

あの後、僕は志望業界の会社に内定をいただいた。それはきっとおじさんのおかげだった。

おじさんがあの時、僕の話を聞いてもらえなかったら、内定をもらうことができなかった。


*****


「だからおじさん、いつまでもそっぽを向いていないで、おでんと酒でも用意して、僕と語り合ってください」


僕は片手に持ったコンビニ袋を前に差し出した。袋の中に入ったお酒が揺れて、がこんと音を立てた。

その時、おじさんの肩が小さく揺れた気がした。


「おじさん?」


僕は持ち上げていたコンビニ袋をカウンターテーブルの上に置いた。コンビニ袋のビニールが擦れる音と共に、おじさんから鼻を啜るような音が聞こえた。

僕はさらに声をかけようと思ったが、下唇を噛むと同時にやめた。弱い風が吹き、おでんから立ち上っている湯気が左に揺れる。


体の横にあったおじさんの右手が目元あたりを擦った。


「俺はな…………」


おじさんは絞り出すような声で呟いた。おでんが煮立っている音でかき消されそうだった。だが、おじさんは息を吸いなおして、こう続ける。


「俺は、小僧のことを本当の息子のように思っていたんだぜ」


ごめんなさい、という言葉を吐き出そうとしたが、飲み込んだ。僕はそんな言葉を言う資格なんかない。

もうおじさんに顔を見られないために僕は座ったまま頭を下げた。それと同時におじさんの靴が地面と擦れる音が聞こえた。おじさんがこちらを向いたのだろう。


「なんで……俺よりも先に死んじまったんだよ」


消えてしまいそうな声だった。それを聞いてしまった僕は、目が熱を帯びていくのを感じた。


僕は死んだ。交通事故だった。

六月に大学から帰宅途中に、志望業界の会社から内定の電話を受け取った僕は浮かれていたのだろう。ノイズキャンセリング機能のあるイヤホンを付けて音楽を聴いていた僕は、背後から迫って来ていた居眠り運転をしていた軽乗用車に気が付かなかった。


そこからの記憶は曖昧だが、身体中に痛みは感じず、ただぼーっと何も考えられない状況が続いた。辛うじて開いていた目が最後に捉えたのは、救急車の中の天井だった。六月十日に僕は死亡した。


そして、そこから再び開いた僕の目が捉えたのは、このおじさんのおでん屋さんに似た場所に、おでんの支度をするおじさんの姿だった。いつものようにおでんの鍋が目の前にあるカウンター席に腰をかけると、おじさんが驚いた顔でこちらを見ていた。だが、その時は何も言わなかった。


「妻が死んだとき、夢の中でいつものようにくだらない会話をして、腹を抱えて笑っていた。けど、目が覚めると、無駄に広い家がそこにあっただけだった」


前におじさんが泣きながら、話していたことがあった。前までは一軒家に住んでいたのだが、息子二人が大人になって家を出て、奥さんが亡くなった。ただ一人、広い一軒家に取り残されたおじさんは、思い出が詰まったその家をおでん屋さんに改築して、おじさんは近くの安いアパートに住み始めたのだと。


僕はそれを思い出しながら、カウンターテーブルに涙を垂らしてしまった。しかし、このままではせっかくのおでんに不純物を混ぜてしまう恐れがあったため、僕は慌てて顔の前で手を合わせた。


「いただきます」


おじさんは何も答えなかった。僕は片方だけ大きな割り箸で大根を二つに分け、一つを口に運んだ。大根にしみ込んだ出汁が口の中に広がっていく。おじさんは出汁にこだわっていないと言うが、こだわっていなければこんな深みのある味にはならないと思う。僕はもう一つの大根も口に運んだ。


そして、次にこんにゃく。三角柱に切られたこんにゃくに網目状に切り込みが入っている。その切り込みの中に出汁が少しだけ放り出されずに残っており、濃い味を堪能することができる。僕は一口でこんにゃくを食べてしまった。最後に出汁を少しだけ啜った。


その様子をおじさんはただ黙って見ているだけだった。


おじさんと初めて知り合ったのは、僕が大学進学を機に上京をして、慣れない一人暮らしに苦しんでいる時に、近くにあったおじさんのおでん屋さんの匂いに誘われ、ふと立ち寄った時だ。

春が過ぎて、これから気温が高くなってくる五月だというのに、おでんを口にすると、体の芯から温まった気がした。そして、僕はその日にこの店の常連になることを決め、おじさんに感謝の言葉をかけたのだ。


「ごちそうさまでした、美味しかったです」


僕は今もおじさんに向けて、感謝の言葉を投げかけた。その時、僕の視界が大きく揺れた。制限時間が来たようだった。充電が切れたパソコンのように、いきなり視界が黒く染まった。


*****


目が覚めると、俺は勢いよく体を起こした。しかし、慢性的な腰痛が発火するような痛みを俺に躊躇なく与えてきた。俺は右手で腰を優しく撫でながら、ゆっくりと立ち上がった。壁にかかった時計が時刻を午後三時三十分と示している。昼食を食べてから、昼寝をしてしまっていたようだ。


「そろそろ開店準備しないとな」


俺のおでん屋の開店時間は午後五時からで、あと一時間半しかない。寝間着から作務衣に急いで着替え、その上からロングコートを身に纏った。

アパートの外に出ると、やはり風が冷たく、ロングコートを着る判断をした自分を少しだけ褒めた。そして、表面の塗装が剥げ、少しだけ錆びた鉄製のアパートの廊下を歩いた。コツンコツンと足音が響く中、ちらりと隣の部屋の表札を見たが、今はもう何もつけられていない。


俺はその部屋の前から逃げるように、重い足取りで駆け抜けた。


住んでいるアパートから徒歩五分で着く場所にあるおでん屋が俺の経営している飲食店だ。見た目は古い一軒家だが、暖簾を玄関先に掛けるとおでん屋に早変わりだ。やはり俺のおでん屋は古き良き伝統店のように見える。この雰囲気に釣られてテレビの取材とか来てくれないだろうか、と内心期待している。


厨房へと入り、棚から四角い鍋を取り出し、コンロの上に置いた。鍋の中に複数のおでんの粉と水を入れ、火にかけた。鍋の中身が沸騰する前に多くの具材を切り終え、それぞれの具材ごとにわかりやすいように仕切りを作り、具材を投入した。あとは具材に出汁が染み込むのを待つだけだ。


ぐつぐつと煮られる具材を眺めながら、昼寝の時に見ていた夢を思い出そうとしていた。だが、どうしても思い出せない。ただ辛い夢だったのは確かだ。俺の寝間着の背中の部分がぐっしょりと濡れていた。

いつもなら見ていた夢を思い出そうとは思わないが、何故か今日の夢は思い出したかった。俺が腕を組みながら、うーんと唸っていると、玄関の引き戸が音を出して開いた。


「大将!!今日もおでんやっている?」


常連のサラリーマンだった。俺がああ、と返事をすると、満面の笑みを浮かべ、引き戸を丁寧に閉じた。そして、そのサラリーマンは羽織っていたコートを丁寧に畳み、席を座ると同時に膝の上に置いた。

食べる準備をしている間に壁にかかった時計を見ると、いつの間にか午後五時を過ぎていたことに少し驚きながらも、四角い鍋の前に立った。


「ご注文は?」


俺は菜箸を手に取り、サラリーマンの顔を見て問いかけた。常連のお客さんだから知っている。このサラリーマンは会社の中ではまだまだ若手らしい。俺は何もつけられていない表札が脳裏に過った。


「大根とこんにゃくで」


「はいよ!!」


俺は腹から声を出して、注文を受け付けたが、目の前に座るサラリーマンから見えない位置に少しだけ隠れるためにしゃがみ込んだ。


今の注文で見ていた夢の全てを思い出した。

そうだ。あの小僧だ。あの小僧が夢の中で激励をしてくれたのだ。それを思い出せただけで、目頭が熱くなった。

夢の中にまで化けて出てきやがって、生意気な小僧だ。俺はそう思いながらも、口角をあげていたと思う。あの小僧に負けていられるか。


俺は立ち上がると、プラスチックの容器に大根とこんにゃく、そして出汁をたっぷりと入れた。


「大根とこんにゃくお待ち!!出汁は当店の特製でい!!たっぷりと味を楽しんでいってな!!」

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