エッシャーの熊

春日希為

エッシャーの熊

 誰かに見られている気がして私は一度立ち止まり振り返った。すると、一台のワンボックスが止まっていたことに気が付いた。今さっきここを通った時にはこの車はあっただろうか。あったとも言えるし、なかったとも言える。私の記憶はぼんやりとしていてはっきりしない。その曖昧な頭を目覚めさせる光景が視界に入り込んできた。ワンボックスの後部座席に熊が座っていたのだ。それもきちんと両手を膝の上に置いて行儀よく座っているから、私は一呼吸分、恐怖を忘れた。それから二呼吸目には恐怖が戻ってきて、目の前の現状を把握しようとした。そのために、目が合わないように慎重にその行儀のいい熊を観察した。

 茶色の毛皮には艶があり、整えられている。動物園で熊を見たことがあるが、飼われている熊でさえ泥にまみれていて毛はべちゃっとしていた。しかしこの熊はどうだろうか。自然に生きているとは思えない。だが、これが出来のいい着ぐるみの可能性もあるのではないだろうか……。

 そう希望的な見方をして納得しかけた時、私は確かに熊の瞳が瞬きをして、私の顔を視界に入れたのを見た。

 目が合ってしまった……。

 熊の瞳は意外にも濁っておらず、純度の高い蜂蜜みたいな色をして丸いビー玉のようだった。私は思わず、瞬きも呼吸も忘れてその瞳を見つめ返した。

 そして、正しく恐怖を取り戻した後、逃げ出しそうとした右足を必死に押さえつけてその場に留まり、次にどうするべきかを考え始めた。

 熊に出会ってしまった時は絶対に、背中を見せてはいけない。走って逃げてはいけない。こちらが弱い存在だということを悟らせてしまってはいけない。それが例え後部座席に座っている熊だろうと、油断の先に待ち受けているのは死だろう。

 しかし、逃げなくてはこの状況は変わらない。どう逃げるかが問題だろう。私は熊の瞳を見つめたまま、慎重に一歩目を後ろに下げた。砂利が立てる音でさえ、今は神経を使わなくてはいけない。なるべく大きな動きにならないように下げた一歩は上手くいった。熊は相変わらず私を見ている。だが私の体が微かにズレたことには気づいていないようだ。まだ行儀よく座っていて動く気配は感じられない。

 また一歩後ろに足を下げる。

 二歩目も上手くいった。これで両足を元いた場所から一歩分動かすことに成功したことになる。あまりのじれったさにこのまま駆け出してしまいたい気持ちに強く駆られる。私は手のひらに爪を食い込ませて、痛みでどうにか正気を保った。

 (焦るな……)

 早く逃げたい気持ちと、恐怖感を抑えたせいか次の一歩は控えめになってしまった。そしてその次の一歩はまたそれよりも控えめになる始末。これでは、熊から確実に逃げられる安全圏に行くまでに何時間もかかるだろう。

 それでも、私は熊の瞳を見つめたままでいなければいけないので可笑しくなってきてしまい、蜂蜜みたいな熊が人を襲うわけがない。あいつは心優しいんだ。そう、クリストファー・ロビンとプーみたいに。あるいはパディントンのように、熊は私と仲良くなりたいのではないか。

 しかし、たとえそうだったとしても私は自分が襲われてしまう可能性よりも仲良くなれるかもしれない可能性を信じなければいけないし、その勇気はどこにもない。

 そこで私はふとあることに気が付いた。ワンボックスのエンジンがかかっていなかったのだ。今は八月で、外でぼんやり座っているだけでも熱中症で死ぬというのにエンジンのかかっていない車内の温度はサウナを越えているはずだ。

 だんだんこの状況にも慣れてきて、このような推測をしている間にも順調に後退していた。慢心ともいえるだろうが、都合の良い解釈をするだけの頭の余裕が生まれていた。だが、そうした希望も熊が一つ瞬きをしたことで全て失われた。

 

 そうした、五十歩百歩の状況を打ち破ったのは熊の方だった。熊は何を思ったのか、膝の上に置いていた右手だか右足だかをゆっくりと胸の前まで持ち上げたのだ。座席のすき間から綺麗な欠け一つない手入れの行き届いた長い爪と肉球が見える。

 私にはそれがなにを示すものなのか分からない。これからお前を襲いに行くぞという合図のようにも受け取れるし、降参のポーズにも受け取れる。いかようにも解釈の余地があった。その中で、私はどのように解釈をすればあの熊に好意的に見られるだろうかと計算をしてみたが、鈍った頭よりも先に動いたのは熊の方だった。

 熊は依然私を見つめたまま、胸元まで上げた右手を左右に振った。それは、親しい友人が道端で偶然会った友人に送るような親愛の籠ったようなものに見えた。

 私は、数度瞬きをした。そして、最後には目を数秒閉じてみた。だが、次に目を開いた時にも熊は変わらず手を振っていた。それどころか笑ったのだ。口角を上げてにっこりと笑い、そのすき間からはわずかだが犬歯が覗いていた。

 その頃になると恐怖というよりかは奇妙な現状に逃げたいとは思わなくなっていた。この人間らしい熊がこの後どういう行動を取るのかが気になり始めて、私はもう後ろに歩を進めることは止めていた。


 熊はしばらく口角を保ちながら手を振っていた。しばらく、おそらく数分だろうがその状態が続いて、もうこれ以上はなにもないのではないかと思い始めた時だった。熊はちょうど耳の真ん中から真っ二つにパックリと裂け始めた。それも、振っていた手がちょうど体の真ん中に来た時に裂け始めたので顔が完全に二つに分かれた後、中指の間にもそれが伝わってしまい、裂け目は止まることが出来ない。熊の体は二つになろうとしていた。

 奇妙なことに、体が裂けているにも関わらず熊の体からは血が噴き出していない。それに裂けて、左右に垂れ始めた体の断面には肉や骨のようなものすら確認が出来ない。ただ黒い、空洞が存在しているだけだった。

 そして、ついには熊の体は真っ二つになり、左右に分かれて座席に横たわり、見えなくなってしまった。

 私はほんの少しだけ、好奇心が湧き上がってきて、あの熊を詳しく調べようと車に近付いていった。時間をかけて後ろに下がった分は、常時のたった数十歩分だった。ワンボックスに近寄り、窓越しに車内を確認すると笑ったままの半分ずつになった熊が横たわっていた。どうやら幻覚ではないらしい。中身は見間違いなどではなくやっぱり空洞で、なにも詰まっていない。私はドアを開けて詳しく調べようと思った。だが、熊の足元に白いものが落ちているのを見て、ドアから反射的に手を引いた。

 その直感は正しかった。

 車が裂けたのだ。白いものは落とし物の類ではなく、熊の裂け目だった。

 手を引いたは良いものの私はいよいよ混乱してきて、その状態で放心していると、車は裁断機に掛けたみたいに綺麗に二つになってしまった。

 ここまでくると、私は私の意識を疑い始めた。つまり、今この暑さの中で幻覚を見ているのではないかということだ。だとすればこの幻覚にはいずれ終わりが来る。その時はまで私はじっとここで起こることを見守っていてもそれは幻覚で、私はどこかで目覚めなくてはいけない。

 そのためにはやはりここからどこか別の場所へと行かなくてはと思った。私以外の人を見つけなければいけない。私は足を動かそうとして、自分がいつの間にか地面の上に両手をついてペタンと座り込んでいたことに気が付いた。手のひらを見てみると、石の跡が付いて赤くなっている。細かい砂利を払い、でこぼこした手で、力の入らなくなった膝を何度か叩いて、なんとか立ち上がる。

 その時だった。今まで静かだった世界にパキパキと小枝を踏んだような音がし始めた。私の膝は思い出したように震え出した。崩れ落ちそうになるのを必死に耐え、音の出所を確認するために周りを見回した。

 音は近くでなっているのに肝心の鳴っている箇所が見つからない。その間にもパキパキという軽い音はバキバキと濁音混じりの音に変わり始めた。

 「あ!」

 私は音の正体を見つけた。出所は自分のすぐ下、地面が割れていたのだ。熊を裂いた衝撃は車だけでは止まらなかった。幸い、私の体は二つにはなっていない。どうやら、縦以外の方向には進めないようだ。

 だが、状況は先ほどよりも悪くなったと言えるだろう。なぜなら、逃げ場がないからだ。こうして一歩も動かずに、熊と車を眺めて考えている今も裂け目は地面を二つに分断しながら進んでいる。それがどこまで逃げれば終わるのかも分からない。むやみに走り回るほうが危険なのではないか。

 私は地平線を見た。あともう少しで裂け目が私の視界から完全に消え失せる。それをみてから逆方向に走って行けば、いずれどこかで一周する裂け目を真正面から受け止め、避けることが出来るのではと考えたのだ。

 (そもそも、こんなものは夢だろう。いつか覚める)

 それを肯定するかのように熊はにっこりとした笑みを変わらず保ち続けていた。

 動き出そうと決意した瞬間に必ずなにか良くないことが起こってしまうのは必然なのかもしれない。

 雷が近くに落ちたような音が聞こえて空気がビリビリと震えた。私は本能的に頭を低くして、姿勢を保った。次の音がやってこないことをしばらく待って、恐る恐る顔を上げた私の目の前に広がっていたのは宇宙空間だった。

 裂け目は隣接している全てを切り裂いている。物体だけに留まらず、それは空気という無機物に対しても適用された。

 昼が終われば、夜が来る。

 夜には無数の星たちが何光年という途方もない場所から、この地球に光を届け輝いている。私はそのカーテンをすき間みたいな少しの切れ目からは宇宙が覗いているのだと、どこかでそう考えていた。

 しかし、そうではない。今もなお空を分断する傷から見えるのは奥行きすら感じられないただの黒い、のっぺりとした空間だった。夏の空、入道雲の白と空の青、そのすき間には今までの出来事を全てなかったことにしようと黒が広がっていく。

 その時、背後でなにか動いた気配がした。まさかと思い、恐る恐る振り返ると、熊の右半身がゆらり、ゆらりと左右に揺れながら私を見降ろして立っている。熊は半月みたいに半分になった口を大きく開けた。それは初めてあいつが私に見せた微笑み以外の表情で、犬歯が覗く口に友好的や人間味を感じることは出来なかった。

 私の足は逃げるために必死に動かして頑張っている。右足と左足を交互に出せばいいはずだ。しかし、右足を出したあと、また右足が先に逃げようとするせいで、左足が逃げ遅れてしまい、もつれ、手を付く暇もなく転んだ。

 上手く受け身が取れなかったせいで、顔を地面に擦ってしまう。頬や鼻先を触ると擦り傷のザラザラとした感触と小石が零れ落ちた。それでも派手に転んだ割には大きな出血をしていないことにほんの少しだけ安堵した。

 熊はというと一歩も動かず、口を開けてぼんやりとこちらを見ている。その熊の顔が突然陰って暗くなり見えなくなったので、私はもしやと思い上を見上げると、空が私と熊を境目にするようにして裂け目が広がっていた。

 「え……?」

 その瞬間、熊はいまだ呆然として立ち上がることも出来ず這いつくばっている私の方へ、倒れこんできた。熊の右半身が同じように地面に伏している。その様子はまるで、ライオンに食われたガゼルの死骸のようだった。

 これはチャンスだと、今逃げなければいけないものが一つに定まった今逃げなければと、擦り傷に痛む足を持ち上げた時、私の頭からは血の気が引き、だれもいない空間で一人「やられた」と呟いた。

 そして、私は右足から体が半分になっていくのを感じた。

 熊の右手は私の右足首を掴んでいた。



 熊は突然私の前に現れた。予兆も何も感じなかった。整備された山道で当日にレンタルしたワンボックスを走らせ、帰宅していた時の一瞬だった。

 その日、私はようやくどうにかもぎ取った有給を使って、どこか日常を感じない場所に行きたいと思ったのだ。八月の半ば、世の中は夏休みで人が溢れている。どこに行っても人に会ってしまうのが嫌で、じゃあ山に行こうとなった。しかし私には、キャンプはやり方が分からないし、登山も同様だった。それに、ようやく取れた休みの日に疲れることはしたくない。突発的な考え、それも日帰りで出来ることが星座観察くらい他に思いつかなかった。

 そして、私は双眼鏡と車をレンタルして一人山に向かった。道中、百円ショップで購入した星座盤と格闘して数時間で分かったことがある。それはせいぜい、素人に分かるのは夏の大三角とアンタレスくらいだということだ。都会の光が届かない中、持っている星座盤よりも多い星を見て、ああ、あれがはくちょう座なのかと感傷に浸っていることすら出来ず、薄く靄のような天の川と砂粒なんてみたいなものに綺麗だなと月並みの感想しか出せない。それが自分であまりにお粗末で悲しさすら感じた。だから早めに切り上げて帰ることにしたのだ。なんて虚しいことだろう。しかし、そんな分からないなりに見たアンタレスは赤く煌めいていて、心に残るものがあった。

 

 ヘッドライトの明かりで影を見た数秒後、ガコンとタイヤが何かを踏んづけた。

 人である可能性は無いに等しいが一応人であったならこのまま通り過ぎてしまえばひき逃げになる。鹿か猪であってくれと願いながら恐る恐る除いたサイドミラーには最悪のものが映っていた。

 血だらけの熊だ。熊が片腕をぶらぶらさせながら立っている。私がたった今踏んだものが熊の右手だったのだろう。今にも取れそうでくらいに揺れる腕は関節が反対に曲がっていて、どう見たって折れていた。

 私はアクセルを踏むことも忘れて、ぼんやりと熊の次の行動を見守っていた。中々動かないので立ったまま死んでいるような気がしたのだ。そんな私が再び、アクセルを踏んだのは、熊が三本の足で器用に見たこともない鉄の塊に向かって、走ってきたからだ。

 遅れてやってきた震えと冷や汗で、アクセルを踏む力はかなり弱い。ハンドルを握る手は滑ってしまう。

 早く、早く動け!と思っているのに、行動が伴わず、速度は二十キロも出ていない。元々お互いに対した距離もなかったためにすぐに追いつかれてしまう。そうして、熊は後部座席の窓に体当たりを始めた。その度に誤った方向へとハンドルを切ってしまいそうになる。数回は持ちこたえて、並走していたのだが、捨て身の一撃を食らって、とうとう逆に切ってしまう。私は、針葉樹に突っ込んだ。エアバックが膨らんだおかげで怪我は全くない。大した速度が出ていなかったのが功を為したのだろう。

 状況を忘れたわけではなかった。見苦しも私はエアバックが前方に展開されたまま、アクセルを踏んだがそれはもう遅かった。

 私の体は座ったままひっくり返り、ガラスの割れる音、爪が胸に食い込む感触、そして最後に赤く燃える心臓を見た。


 気が付くと私は車の後部座席に座っていた。あたりには、木と一本道しかない。ふと手に何か違和感を覚えて、見てみると私の五本の指は消えていて、代わりに鋭い爪と肉球があった。目の前には人の腕を生やした熊がいた。

 右腕を上げる。そして座ったまま手を振り続けた。

 ─体が裂けていく。

 


「行方不明になっていた男性の遺体が山中で発見されました。男性は腹を裂かれており、近くに熊の死体があったことから、熊に襲われたものだとして調査を進めております。

 次のニュースです。本日、NASAがさそり座の心臓であるアンタレスが観測不可能になったことを発表しました……」

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エッシャーの熊 春日希為 @kii-kasuga7153

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