今はまだ見知らぬ君のために

青空野光

月に願いを

 十二月の駅前通りを行き交う人たちは誰もがうつむき加減で、まるで競争でもしているかのように足早に通り過ぎてゆく。

 それもこれも全ては、この冷酷なまでに鋭利なビル風のせいなのだろう。

 このところの季節の移ろいの早さたるや、私が幼少だった頃の時代とは比ぶべくもない。

 それは偏に自身が年齢を重ねたというだけのことだったが、数年前にうっかりその事実に気がついてしまって以来、私は頑なに知らぬ存ぜぬを決め込んだまま今日こんにちにまで至っていた。


 無常にも目的地まであと通り一本というところで、目の前の信号機がその片眼を紅く染める。

 否応なしに足止めされた人々は、視線を瞬時に手元の四角い板に落とす。

 私はそれとは逆に、凍てつく風に目を細めながら窮屈そうな空を見上げた。

 夕方とも夜ともつかないこの時間にして、その場所は既に漆黒に塗りつぶされている。

 かろうじて新月を免れた月だけが、たったひとりきりで心細そうに浮かんでいた。

 その眉月のすぐ傍らに動く気配のようなものを感じた私は、細めていた目をさらに狭めて眉間にしわを寄せることで、ようやくにしてその正体を見破った。

 うらぶれた雑居ビルの側壁に取り付けられた、大人の背丈ほどもありそうな大きな看板が、容赦という言葉の意味を欠片ほども知らぬビル風に煽られ、赤錆の浮いた巨躯がガタガタと身震いしていたのだった。


 看板に向けていた視線をそのまま一直線に降下させる。

 ちょうどその真下に、如何にも暖かそうなふわふわのマフラーを首に巻いた少女の姿があった。

 チャコールのダッフルコートの首元を押さえて信号待ちをしている少女は、今まさに自身の頭上で位置エネルギーを放出しようとしている存在に気づいている様子はなかった。

 危ない!

 私がそう叫ぶよりも一瞬だけ早く、その瞬間はまんまと訪れたのだった。

 二点あった支点の一方を失ったそれは、一旦ビルの外壁に自らの側面を強打した挙げ句やがて全ての束縛から開放されると、灰色のタイルの破片や錆色のボルトを伴いながら、秒速数メートルという高速度で降り注ごうとしていた。

 考えるよりも早く体が動いた。

 少女のふわふわとしたマフラーの端に飛びつき、渾身の力を込めてその小さな身体を引き倒す。

 その直後だった。

 大質量がまさにその場所の地面を大きく穿つと、数百からなるであろう金属と樹脂の破片を撒き散らした。

 弾丸の速さで目の前に飛んできたそのうちのひとつを、左右に千切れてしまうほどに身体を捻りながら何とか躱す。


 こんなにも俊敏に動いたのは一体いつ振りのことだろうか。

 明日の朝――いや、明後日の朝には筋肉痛に悩まされることになるかもしれない。 

 それにしても危なかった。

 遅れてやってきた震えに肩をすくめながら、ふと足元に視線を落とす。

 私はそこに、鮮やか過ぎる赤色を見た。

 咄嗟に首元に手をやると、ぬるぬるとした気色の悪い感触があった。

 手のひらを見る。

 赤かった。

 ああ、これはどうやらやってしまったのだろう。

 悲しいかな、なんと私も鈍り衰えたものだ。

 しばらくして周囲の人々がざわつき始めた。

 近くにいたスーツ姿の男性が少女に駆け寄る。

 果たして私は彼女を守ることができたのだろうか?

 それを確認できないのは非常に残念ではあるが、自分がやれることをやりきったという自負があった。

 あとはもう、私に出来ることはといえば、彼女が無事で、あることを、空に浮かぶ、あの、欠けた月にでも、祈ること、だけなのだろう。

 どうか、あの子が、名も知らぬ、あの子が、無事で、どうか、ぶじで、ありますように。



「……」

 白い壁に桃色のカーテン。

 それに、暖かい。

 目が覚めると、そこは知らない場所だった。

「――あ! ああ! お母さん! 目あけてくれたよ!」

 全く聞き覚えのない声だったが、不思議とそれがあの少女のものだとすぐにわかった。

 それほどにその声は、あのふわふわとしたマフラーを首に巻いた少女の外見と一致していたのだと思う。

「ありがとう! 本当にありがとう!」

 小さな手が私の頬に触れる。

 まだ少し痛む首を持ち上げると、少女と目が合った。

 額と頬に絆創膏を貼った少女は、あどけない顔にふたつ付いた瞳いっぱいに涙を浮かべていた。


 ああ。

 君も無事だったんだね。

 ああ。

 良かった。

 本当によかった。

 ただそれだけを伝えたくて。

 可能な限りに口角を持ち上げ、可能な限りに優しい声色を作ると、私はたった一言だけ少女に語り掛ける。

「……ニャア」

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