最初から手際よくはできない

浅賀ソルト

最初から手際よくはできない

その日は神奈川に用事があり、カメラマンと一緒にハイエースで移動していた。俺がハンドルを握り、カメラマンの大久保は現在はカメラを持たずスマホでナビをしている。たまにこのまままっすぐとか次の信号を左とか道を教えてくれた。俺は言われた通りに運転した。

ハイエースの後ろにはブルーシートとキッチンハイター。そのほか、パイプクリーナーや薬局で購入した苛性ソーダなど混ぜるな危険な塩素系清掃道具が揃っていた。この手の薬品は肌についたまま放っておくとえらいことになるので防護服も揃っている。目に入れば失明するのでゴーグルも必須だ。といっても最初は素手で処理をして手がえらいことになった。すぐに水で流したけど。もちろん、大量の水のタンクも今は用意している。触れるとすぐにこれはやばいと分かる。

危険性を知らないまま作業するのは最初の作業の最初の10分だけだ。

カメラマンの大久保も最初はいなかった。1人でできると思っていた。

何事とも最初は無知で非効率だ。情熱だけで行動してしまうが、下調べとか練習とか地味なことをする情熱は持ち合わせていなかったりする。

俺の地元は静岡で、近所に豊田さんという年寄りが住んでいた。異臭という言葉はなかなか文字だけでは伝わらないが、実際に鼻に入れて体験すると忘れられない記憶になる。人に説明するときに「異臭がするんだよ」という言葉でしか説明できないのがもどかしい。肉や魚をしばらく放置しておけば誰でも体験することができる。それも難しいなら自分のウンコを流す前に手につけて鼻で嗅いで欲しい。手はあとでちゃんと洗えば綺麗になるし、臭いも落ちる。勇気を出して自分のウンコを手に付けるのだ。それ以上の説明の方法はない。

豊田さんの説明のはずが異臭の説明になってしまった。しかし豊田さんというのは異臭のことであり、異臭というのは豊田さんのことであるからこれで説明になっているような気もする。

表の通りから見えるうず高く積まれたゴミ袋の数々と、その隙間に転がる割り箸とカップ麺の器。袋に入れるものと入れないものの区別をどこでつけているのか分からなかった。それが豊田さんの家だ。しかし豊田さんというのは異臭のことであり景色のことではない。山のようなゴミ袋はあってもなくてもどうでもいいのだ。異臭がするかどうかだ。異臭というと上品すぎる。ようするに、くせー。

豊田さんとはその日の風がどっちに向かって吹いているかでもあった。豊田さんは風向きのことでもあった。

今日はそんなに臭いませんねというのが近所の会話になっていた。そんな中で俺の住む場所はたまに臭ってきて、それが慣れる前にどこかに消え、消えたと思ったらまたふわっと臭う、そんな位置関係にあった。

こうやって車で運転していてもたまに豊田臭がフラッシュバックする。これから向かう先でも同じものを嗅ぐことができるはずだ。その場所で嗅ぐのは最初で最後になるだろうが。

豊田臭の発生源は生ゴミではない。生ゴミが臭っているのだけど、発生源は豊田さんだ。

俺はその頃はまだ1人だった。行動したのも昼間だった。13時とか14時とか、週末で気持ち良く過ごしていた午後の昼下がりだった。俺はそんないい気分のときに漂ってきた臭いに舌打ちをした。舌打ちをしただけでは足りず、そばにあったクッションに顔を押しつけて本当の全力で「わー!」と叫んだ。クッションは音を吸収して「うー」と唸るだけだった。

そのまま情熱だけを仲間にサンダルにルームウェアの格好のまま外に出た。つかつか豊田さんの敷地に入ると、足元に転がっていたゴミ袋を一つずつ手に取って奥へと放り投げていった。

通りに転がり出たゴミ袋であっても、それを他人が手に取って移動させようとすると飛び出してきてわけの分からないことを喚き散らすという話は聞いていた。

噂通り、豊田さんは家の中からゴミ袋をガサガサとかきわけながら飛び出してきた。

俺はそのときまでホームレスというのを見たことがなかったが、もしいたらこういう感じなのかと思った。髪も髭も長さも方向もバラバラで、肌の色は不健康なドス黒さになっていた。顔や表情というのは覚えていない。飛び出してきたといっても具体的な現れ方や近付かれ方は覚えていない。ふわっとした雰囲気でしか覚えていないのだ。こちらに敵意を持つ二足歩行の生物が武器を持たずに突進してきたという印象だ。まだゲームのモンスターの初見の方が観察できるというくらい、豊田さんは観察できなかった。ぐわーという悪意だけが伝わってきた。

勝手に触るなとか人の土地に入ってくるなとかぶっ殺すぞとか言ってたような気もするが、そもそもそんなことを言う時間はなかったはずなので全部気のせいかもしれない。豊田さんは近づいてきただけだ。目が吊り上がり、口を開いて汚い歯が見えただけで、何か喋る秒数はなかった。

俺にはクッションの中に封じ込めていた叫びと感情があった。豊田さんの敵意などに負けない感情だ。近づく豊田さんに対して手に持ったゴミ袋を押しつけると、そのまま押し倒し、顔面をゴミ袋で抑え続けた。ゴミ袋越しの豊田さんの悲鳴は俺のクッション越しの叫びと同じだった。俺の腕の血管が浮き上がり、それまでの人生では経験したことのないほどの力が出た。地面に埋め込みそうなほどの力だった。そのまま埋まればいいなとすら思っていた。ゴミ袋の中にはそれなりに固いものも入っていたので口を塞ぐ役割としては適切ではなかったはずだ。そこでゴミ袋越しに中身の固いものを豊田さんの顔面に押し付けて頭蓋骨を割ろうとしていた。その方がそのときの俺の心情としては正しい。中の固くて四角いものの角を、向きを調整して豊田さんの口の中にぐりぐりと押していった。全体重をかけた。豊田さんの口が開き、中にその四角いもの——形が歪んだのでタッパーか何かだ——が入っていき、豊田さんはもがもが言った。俺の体重のすべてを乗せていたので顎が外れるか折れるくらいはしていたかもしれない。俺は臭いを止めることに必死だった。

遂に豊田さんが動かなくなるそのときまで、休日の昼間だというのに目撃者はいなかった。表の通りから丸見えだったというのに、正義がどちらにあるか証明するかのようだった。

初仕事というのはかくも綱渡りだ。

俺はぐったりした悪臭の塊である遺体を敷地の表から、ゴミ袋によって崩落したトンネルのように見える玄関を通って中の廊下へと引きずって運んだ。廊下といっても廊下の床の上ではなくてそこにあるゴミ袋の上だけど。床が見えるようなら世話はない。

ちょっとゴミの処理方法について考えたが、何もしないか、工夫してすぐに腐らせるようにした方がいいのではないかと思った。臭いについてだけ言えばこのゴミは腐る前から腐臭がする。水場のあたりかあたたかい場所に放置しておけば死因など分からないだろう。そもそも殺人の可能性があったとして捜査するだろうか? 俺が警察官なら見て見ぬフリをする。この悪臭は住民だけでなく警察にも迷惑をかけてきた。ここまで説明は省いたが、警察を呼んだり呼ばれたりしたことも10回や20回ではきかない。それ以上の回数で市役所の役人も呼ばれている。

今の場所だと中に覗けば見える。俺は豊田さんの死体を奥に運び、適当にゴミ袋を移動させて凹みを作ると転がし、その上にゴミ袋を戻した。まったく見えなくなった。クソみたいな作業だった。死んでも結局人に片付けをさせるんだから、最期まで迷惑な存在だった。あとは自然に腐るのを待とう。

凶器のゴミ袋はこの場所にない方がいいと思ったので俺の家に持ち帰ることにした。手に持って自宅に帰るときにも誰ともすれ違わなかった。ルームウェアのズボンの裾には変な液体がついていて豊田臭がした。いつのまについたんだ。俺はゴミ袋を手にぶらさげて歩きながら「くそっ」と悪態をついた。

ご想像できるか分からないが、数日のうちに近所に漂った悪臭はすごいものだった。すごいものだったんだけど、「今日はすごく臭いますね」以上の話題にはならなかった。

俺は、これが人間が腐るときの臭いなんだなあとしみじみ思った。こちらも臭いの想像ができないと思うが、知りたかったら近所の公園で猫を殺して放置しておくといい。似たような臭いがする。俺は何度か殺した猫を豊田さんの家の中に放り込んでいたけどそのときも同じような臭いが漂った。今後は野良猫の処理方法についても別の手段を考えないといけなくなった。

豊田汁の付いたルームウェアは処分した。サンダルはどうしようか迷ったが別に臭いが付いたわけではないので、交換するきっかけが見つからず履き続けた。特に問題はなかった。

そして野良猫の処分とゴミ屋敷の処分はほとんど同じだと気づいた。これが俺の仕事の始まりだ。どちらもボランティアでやっている作業なので報酬は受け取っていない。困っているところを見つけてはハイエースで駆け付けて悪臭を元から断つ。お礼を受け取らずに静かにその場を離れる。

ただしそれから少しずつ臭いが消えて街の人に笑顔が戻るのを長期間に渡って記録に録ることだけはした。これを見直すのが最高に気持ちいい。報われるといってよい。5年を目安に長期間の記録になるのだけど、毎月毎月、徐々に片付けられていくゴミ屋敷をタイムラプスで見るのは極上の娯楽である。

みんなも近所に悪臭漂うゴミ屋敷があったら役所に通報して欲しい。その通報や対策会議の議事録、予算についての市民便り、そういったものを参考に俺たちは次の目標を探している。通報はいつか俺たちに届く。どうか諦めないで欲しい。

今回の神奈川の件もそれで見つけたのだ。そろそろ例の臭いが感じられてきた。

さあ始めよう。

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