GDAE - ソレラミ

島本 葉

ソレラミ

 擬音にするなら『ポーン』だろうか、それともAの音なのでそのまま『ラー』が良いだろうか。譜面台に置いたチューナーの小さなスピーカーから鳴る電子音を聞きながら、僕はそんなことを思い浮かべた。

 肩当てをつけたバイオリンを構え、ほどよく毛を張った弓でA線をすっと引く。少し高いか。二つの音がピタリと重なり合うように、耳を澄ませながらペグをゆっくり緩める。

 最初は調弦という作業はなかなか難しいと感じたものだ。数年前に習い始めた当初は先生が調弦をしてくれていた。レッスンの最初に楽器を渡すと、ピアノの「ラ」を鳴らしながらさっと和音を鳴らして調弦をしてくれる。次第に先生に見てもらいながら自分で調弦を行うようになったが、果たして四十も半ばを過ぎてから習い始めたおじさんにできるものなのだろうか。そんな風に不安に思っていたものの、近頃はやっと和音の気持ち良い響きが判って来た気がする。継続すればなんとかなるものだ。

 さて、ようやくうねりが消えて音が重なったので、次はA線とD線を同時に鳴らす。バイオリンの弦は低く太い方からGDAEの四本。ソレラミと隣り合う弦とは完全5度の音程になるらしい。専門的なことは良くわからないが、響き合う和音が溶け合い、気持ちよく調和したかなというところでD線のペグを止める。次はDとGを合わせ、最後にAとEだ。

 勿論、それぞれの音をチューナーで確認しながら調弦する方法もある。初心者向けにはその方が簡単だし、ある意味正確だ。けれど、この和音を使って調弦する方法を僕は好んで行っていた。

 バイオリンはギターと違ってフレットが存在しない。左手の押さえる位置が数ミリ違うだけで音程が微妙に変化してしまう楽器だ。正確に調弦していたとしても、正しい音程で演奏するためには、耳を鍛える必要があるのだ。

 だからこの和音の響きで調弦するのは耳の感性を養う目的もあった。あとは単純にこの重音の混ざり合う響きを、僕はとても心地良く感じていた。

 

 

「お父さん、今日はありがとう」

「おめでとう、優希ゆうき

 純白のドレスに身を包んだ娘は例えようもないほど綺麗だった。色んな感情が僕の胸をかき回していた。やっとのことでお祝いの言葉を絞り出したが、うまく笑えていただろうか。

 結婚のことは事前に聞いていたけれど、式の招待状が届いたときは「いよいよか」という気持ちと「僕が行っていいのだろうか」という思いだった。

 僕が妻、美也子と別れたのは優希が就職してしばらくたった頃だった。もう四年程になる。別にどちらかが浮気をしたとか、そんな理由ではない。ある日美也子は「離婚しないかしら?」と秘密にしてきたことを打ち明けるように切り出した。僕にとっては寝耳に水だったのだけど、彼女はずっと考えていたようだった。顔を見ると、冗談でもなんでもないことは直ぐ判った。

「別にね、あなたがイヤだとか、嫌いだとかではないのよ。ただこの先もずっと一緒に暮らしていくというのは考えられなくって」

 僕は呆然とした。と同時に、どこかホッとしたような気持ちもあった。それは僕に取ってはとてもショックなことだった。父親として、夫として、家族として。充分ではないとしても、それなりに役割を果たしてきたつもりだった。けれど、どこか気詰まりを感じている自分も確かにいたのだ。その吐き出せない気持ちは思っていたよりも大きいものだったことに、美也子の言葉で気付かされたのだ。

 驚いたことに、優希も反対しなかった。美也子から事前に相談を受けていたのかも知れない。いや、このタイミングでの提案なのだから、当然そういうことなのだろう。

 程なく僕たちは離婚し別々の生活を始めた。お互いに会いたくないとかではないので、連絡はいつでも取れるし、僕が優希に会うのも問題はない。美也子とも会おうと思えば会える。だけど、離れて暮らしてみると、特に話す用事もないことに気付いてしまった。

 普通の家族のつもりだった。

 けれども、どこからか、何かがズレていた事に気づいていなかっただけだったのだ。



 音階練習やエチュードなどのウォーミングアップを行った後は、課題になっている曲をゆっくりのテンポでさらう。課題曲はずっと弾いてみたかったパッヘルベルの「カノン」だった。

 僕がバイオリンを習い始めたのは、美也子と別れてしばらくしてからだ。仕事に出かけて、家で独り休む。それだけの日々は穏やかだけどどこか退屈だった。離婚する前の僕は、普段何をしていたのだろう。そんな折に、ふと休日に立ち寄った駅前の商業施設で弦楽器の音が響いてきた。音の方に向かってみると、楽器店が主催しているミニコンサートだった。バイオリンが二人と、チェロが一人。耳に馴染みのあるポップスを何曲か演奏したあと、最後に弾いていたのがカノンだった。

 この曲は、美也子と優希も好きな曲だった。もう失ってしまった在りし日のリビングで、ピアノを習っていた優希が楽しそうに弾いていたことを不意に思い出した。美也子も一緒に座って、母娘二人で楽しそうに弾くのを僕は笑いながら眺めていた。

 イベントの最後には楽器体験のようなものがあり、つい立ち寄った僕は、いつの間にか入会することになっていた。そしてそれ以来、カノンはいつか弾いてみたい曲になったのだ。

 そんなきっかけで始めたバイオリンだったが、なにかに夢中になるのはとても楽しかった。こんなことは久しく忘れていた感覚だった。少しずつ練習を繰り返し、昨日出来なかった事がいつの間にか出来るようになっている。

 なんとか楽譜通りに音を出せるようにはなったが、曲として聴けるまでにはまだまだ練習が必要そうだ。特に中盤の十六分音符と三十二分音符が連なっているところは難所だった。

 ――タンタタ タンタタ タタタタタ、タ、タタ

 この曲の一番の盛り上がり。ゆっくり弾いているのに指が転んでしまう。

 一小節ずつ、一音ずつ音程を確かめながら繰り返す。そうしていくと、今日の練習始めよりは、幾分滑らかに弾けているような気がするのだった。

 細かい音符に少し疲れて来たので、冒頭から。四分音符が音階のように下降するフレーズを弾いて、少し違和感を覚えた。

 A線を開放弦で鳴らす。AとDの重音。

「低いか?」

 どうやら弾いている間に、音程が下がってしまったようだった。弦を張った張力で音程が決まるので、演奏している間にチューニングが狂うことはよくあることだ。

 僕はチューナーのスイッチを入れて音程を確かめると、やはりA線が少し下がっていた。

 もう一度調弦を行う。重音の響き。うねるようなノイズの混じった音から、次第に二つの音が寄り添っていく。

 バイオリンで和音を弾く時は、弓の毛を均等に二本の弦に当たるようにする。どちらかに偏ってもいけない。

 やがて混じり合った和音は、心地よく響き、僕の胸の中にストンと落ちてくる。

 数日前の結婚式のことを思い出した。

 あの日、チャペルに入場する優希をエスコートしたのは僕ではなかった。美也子と一緒にバージンロードを歩いてくる優希を、僕は参列者の席から見ていた。

 新しい生活に大きな不満があるわけではない。けれど、どこかでしっかりと耳を済ませていれば。折に触れて響きを合わすことができていたら、なにかが変わっていたのだろうか。

 

 美しく響き合うA線とD線の和音を聞きながら、心が落ち着いていくのを感じていた。


 完

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GDAE - ソレラミ 島本 葉 @shimapon

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