巧妙な駆け引きと0の僕
環月紅人
本編
「じゃあ……何も覚えていないの?」
「うん……。君が誰だかも、さっぱり分からない」
どうやら僕は過度のストレスから記憶喪失になったらしい。目の前には美しい女性がいて、僕が率直に口にすると彼女は悲しそうな反応を見せた。
生唾を呑む。
この人が僕の恋人、なのだろうか……。
「そっか……。でも、仕方ないか、きっと大丈夫だよ」
彼女は笑顔を作り、僕の手を優しく取ってくれる。肌柔く、繊細な手だ。落ち着くような気さえしてくれる。
「お医者さんが言うには記憶は戻らないかも知れない……って。過度なストレス性のものだから、忘れるっていうことは自分を守るためなの。私もそのままでいいと思うよ」
「僕にはいったい何があったんですか」
「あはは、敬語なんてやめてよ。辛いから。……あのね、君には熱心なストーカーがいたんだよ。それで心の優しい君は、心を病めてしまったの」
そんなことが……。僕は俯く。信じられない。
そんな僕を気遣うように、彼女は僕の目をまっすぐ見つめながら口にする。
「でも、大丈夫。例え忘れてしまったままでも、私がいるから。ここからまた、関係をスタートしようよ」
「う、うん……。えっと、僕と君の関係は……」
ああ、そうだね、と彼女は言いそびれていたことを謝罪するようにくすくすと笑う。その仕草すらかわいい人だな、と思う。
「私たちは恋人、だよ」
「――騙されないで!!」
バンッと病室のスライド扉を強引に開けた女性が、肩で息をしながら現れた。手前の彼女の表情は一瞬で感情を失い、僕は二人を見比べるように目をチカチカとさせる。
「その女は貴方を追い詰めたストーカーよ!」
「……わあ、ひどーい。なんでそんな酷い嘘が付けるの? 貴女がこの人を苦しめたんじゃない。ストーカーさん」
「ちがっ……あんたって女は最低ね! 人の彼氏をそこまでして奪い取りたいの!?」
「何を言ってるの? ああもう……」
手前の彼女は後から現れた女性との対話を諦め、僕のほうを振り向いて語りかけてくる。
「あのストーカーさんは精神がおかしくなっちゃってるから、変なことを言ってるだけだよ。安心して。君の彼女は昔から私だから」
「う、うん……」
有無を言わさぬような圧力に僕は首を縦に振るしかなくなる。そうすると、そんな僕ら二人を見咎めたような女性がズンズンとこちらに接近し、彼女を僕から引き剥がす。
「ねえ!? 信じるつもりじゃないでしょうね! お願い、騙されないで、貴方を苦しめたのはコイツなの。コイツを信じたら、貴方は負けることになる……!」
僕の目を覚まさせようとするような勢いで、乱雑に肩を揺すってくる女性に説得される。
僕には何が何やら分からない。
「わあ……。そんなこと言うんだ? ひどいね」
「酷いのはあんたでしょ! 彼が優しいから刑事事件にしなかっただけで、接近禁止命令が出てるわよ、今頃! というか出しておくべきだった! こんなことになっちゃうくらいなら……!」
「ちょっと、自分のことを他人事のように話すのうますぎない? 丁寧に自己紹介してくれたの?」
「っ……この女……!!」
あわわとしか言えない。目の前で二人の女性がいがみ合っている。僕は何も知らない状態なのに。
「だって本当の恋人なら一番に来ない? 出遅れたこの人はストーカーだから。だから、私が君の彼女だよ」
あわわ……。
「ねえ、お願い。もうこの女にメチャクチャにされたくないの。騙されないで、貴方の味方は私しかいない……!」
あわわ……。
「「どっちを信じるの??」」
目の前で修羅場がスタートした。
巧妙な駆け引きと0の僕 環月紅人 @SoLuna0617
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます