四葉 六華

 窓の外を思った。

 初夏の眩しい日差しに、それを受けて緑に光る木々。桜はとうに散って、葉桜が散った花びらを名残惜しんでいた。梅雨の前の澄んだ空気が風となって教室に入り、俺の髪の毛を揺らす。教師の声は、さわさわと揺れる葉っぱの音にかき消された。

 まだ初夏だというのに、雲ひとつない空は真夏を思い起こさせる。


 授業中だけれど、内容は何一つ頭に入ってこない。国語は得意だし良いか、とまた、窓の外に目をやった。

 雲の消えた空は、好きな天気の一つだ。


 ……俺も、雲のように存在を消せたら良いのに。


 そうしたら、何も気にすることはないから。

 授業だって、人間関係だって、彼女のことだって──

 全てを気にすることなく、一人、蜃気楼のように消えられる。

 世界中の人の記憶の中から消えられる。あぁ、どんなに魅力的なのだろう。


「......い! 蒼依あおい!」


 教師に呼ばれ、窓の外から教室の黒板へ視線を移す。これは……現代語訳すれば良いのか。確認を取ると、教師はしかめっ面をしながらそうだと言った。頭の中の辞典を広げ、すらすらと訳していく。最後の文まで言い終えて、俺は視線を机の上にむけた。取る気もないノートが真っ白に輝いているのを見ながら、また思う。


 彼女の声と、むせ返るようなあの日の空を。


 ◆


 それを自覚したのは、三年前のこと。

 うだるように暑い、あの夏の日。


 その日は今日と同じような快晴で、今日と同じように空気が澄んでいた。

 透明度の高い青色の絵の具を塗ったような空の下、彼女の美しい声が、俺を呼ぶ。


『あっくん!こっちこっち!』

 

 その細くしなやかな腕を大きくふって、風に緑の黒髪をなびかせ、彼女は楽しくてたまらないというふうに微笑む。

 風に煽られ、彼女のスカートがひらりと舞った。


『見て見て、こーんなにおっきなステージ、私初めて見た!』


 その日、彼女は初めての野外ライブを予定していた。ステージの下、観客席付近で両手を広げその大きさを体で表す彼女に苦笑して、俺は彼女を急かした。


『あぁ、俺も初めてだよ。こんなにでっかいステージの上で歌うんだから、いっぱい準備が必要なんじゃないのか?』

『大丈夫、まだ始まるまでいっぱい時間があるもの。それよりも私、あっくんにお願いがあるの』

『お願い?』


 彼女がそんなことを言うのは珍しくて、俺は彼女の言葉を待った。

 彼女は言いづらそうにしていたが、やがて意を決したように言う。


 『ライブのときは、私が見えるところにいてほしいの。緊張しちゃうときも、あっくんのためなら頑張れるから、お願い』


 両手を組み合わせ、その黒くて大きな瞳を一心に俺に向ける。

 その動作に、心臓がドキンと跳ねた。

 なんて答えたのかわからない。けれど、彼女が笑顔だったから、イエスを返したのだろう。

 覚えているのは、その日、ステージの上で彼女が俺に向けた、とびきりの笑顔だった。


 その日。彼女に……恋をした。


 ◆


 授業も、部活も、何もかもが退屈でつまらない。


 それでも、学校に行かなきゃいけない。


 親が、そう言うから。

 父親は高校生の時不登校だったらしい。学がなくて就職に苦労したなんて話は、耳にたこができるほど聞かされていた。

 母親の同級生はイジメが原因で自殺したらしい。だから、自殺するなんて駄目だと口を酸っぱくして言う。


 せめて彼女が隣にいれば、世界に希望が持てたかもしれない。

 だけど彼女は引っ越して、テレビの中と手紙だけの存在になった。ライブの度送られてくるチケットだけが、俺と彼女を繋いでいた。会って話そうにも彼女の連絡先は知らないし、ライブの後に行くのも迷惑だろうし。何より、彼女に迷惑をかけることになるかもしれないのが、立ち止まっている理由だった。


 「……俺もいつか、」


 有名になれるだろうか。


 そんな儚く子供っぽい夢は現実に打ち砕かれた。勉強、部活、受験、特技を磨く時間は無くなった。どんどん腕は衰えて、たぶんもう素人と遜色ない。


 「何呟いてんの」


 その声に、現実に引き戻される。

 周りを見れば、箒を手にしているのは一人だけだった。ごめん、なんでもないとクラスメイトに言い、箒をロッカーに入れる。そんなことも気にせず、他の人たちは教室を出ていった。残ったのは、俺と目の前の彼女だけ。


 「あんた、これから部活?」

 「や、違うけど」


 何やってんの。帰宅部……。高校で帰宅部ってマ? う、うん。

 彼女の視線が俺を刺す。変なの、なんて、自分でもわかっている。わざわざ言われるまでもない。それでも無所属なのは、やっぱり彼女を忘れられないから。


 「変なの。……ま、良いけど」


 そう言った彼女の口角はほんの少し上がっていて、まるで俺を嗤っているように見えた。

 そんなこと無い、なんて自分に言い聞かせてみるけれど、一度浮かんだ考えは簡単に消えてくれない。 


 ひらひらと手を振り、彼女も教室を出ていった。一人教室に残され、空虚感を覚える。


 がらんとした教室。電気は点いているが、椅子は上げられたまま。チッ、チッ……と秒針が規則正しく動く音が、やけに大きく響く。

 誰も居ないのに、誰かの視線を感じる様だ。それは良いものでは無く、むしろ「死んだら良い」なんて言われている様。

 見ているのは神か悪魔か。誰だって良かったが、ただひとつ言えるのは、


 俺は嫌われているようだ、ということ。


 鞄を持ち、教室を出る。一度自分の席に目をやってから、俺は教室を離れた。

 朝に見かけた猫の鳴き声が、脳内でいつまでも鳴り響いていた。



 帰り道。

 バスを待っている間、ポケットのイヤホンを耳にねじ込む。そこから聞こえてくるのは、彼女の歌声。昔と変わらない、きれいで澄んだ声。

 あの頃は、言葉なんてぐちゃぐちゃで、文法なんてわからなくて、それでも必死に、何かを伝えようとしていた。

 耳に残るこの音だって、昔と同じで、何かを伝えたがっている。

 それがなんなのかはわからないけれど、でもそれは、五線譜と言語じゃ伝わらない気がする。


 「空に惑わされて……」


 ぽつりと歌った歌詞は、一人しか居ないバス停に染み込んで消える。

 満員のバスに乗ったのに誰も居ないように感じる矛盾に説明がつけられないまま、俺は終点で吐き出された。周りの学生の話し声よりも鮮明な彼女の歌を聞きながら改札にICカードをかざす。鼓膜を震わせる愛の言葉が、栄養剤みたいに僕の心に流れていく。たとえそれが、偽りであろうとも。

 ゴミの落ちている線路を見て、またため息をついた。






 気づいたらそこは、公園だった。

 彼女が、隣に座っていて。

 あどけない表情で、俺を見ていた。


『懐かしいな』


 それを聞いた彼女はふわりと微笑み、白く細い手をそっと俺の手の甲に重ねる。

 昔はよく二人で昼寝をしていた。紛れもない、この公園で。ベンチに寝転がって、親の話が終わるまで。

 歳を重ねて、二人一緒に寝転がれなくなってしまってからも。

 決まって快晴の日は、この公園で他愛無い話をしていた。


 薄い黄緑色のワンピースを着た彼女は、身体をこちらに向けて、にこりと笑う。


『懐かしいけど、もう時間だよ』


 暗転。







〈次は──、──。お降りになるお客様は、お忘れ物の無いようご注意ください〉


 そんなアナウンスが聞こえて、意識が持ち上がる。降りる駅だ。

 どうやら眠ってしまっていたらしい。乗り過ごさなくてよかった。そう思いながらドアの前に立つ。

 電車が停まり、駅に降りると、色々な人の話し声が聞こえてきた。耳に手をやるが、どうやら充電が切れているようだった。仕方なくそれを鞄にしまい、有線のをつける。流れたのは知らない曲だった。何やら有名な曲らしいが、俺は知らなかった。

 陰口を聞くよりはマシだから、その耳栓を抜かずに改札を通り抜けた。


 矛盾する感情を、突きつけられながら。



「ストップ、音程がブレています。……少し休憩しましょうか、リセットの意味合いも込めて」

「ごめんなさい……」

「謝る必要はありませんよ。最近は忙しいでしょうから、無理もありません」


 初めて、ドラマの主題歌を任されて。一生懸命考えて。少しずつ前に進んで。今日が、その仕上げの日だった。けれど、なかなかうまく行かない。

 体調は悪くない。原因は、心。

 恋愛ドラマの主題歌だから、どうしても恋や愛が歌詞に入る。そして思い出す。初恋の彼のことを。


 音楽を仕事にすると決めた時、それは諦めたはずだった。あの街に置いてきたはずだった。けれどその重りは密かに鎖を伸ばし、私の足に絡みついてきた。

 恋を歌うたびに思い出す。愛を描く度に思いを馳せる。想いを閉じ込めて作った曲は、話題を呼んだもののすぐに空っぽになって戻ってきた。

 水筒の水を飲んで一息つく。ガラスの外に広がる澄み渡る快晴は、まるで今の自分のようだった。こんなにも夏の色をしているのに、歪んで見える。


「何か、思い悩むことでもあるのですか?」


 後ろから声をかけられ、振り返る。レコーディングエンジニアさんは、優しく私に微笑みかけていた。


「今流行りの”風歌”と言えど、女子高生ですからね。何かに悩むこともあるでしょう。話を聞くくらいならできますよ?」

「いえ……もう、終わったことです」


 そう返して、手の中の水筒を置いた。再開しましょう、と私は言った。彼は深くは聞かなかった。わかりました、と答えて、ヘッドホンを耳につけた。

 ……そう、もう終わったこと。

 私の初恋も、私たちの関係も。

 全部、終わったことなんだ。


 心に鍵をかけて、私情を全部閉じ込める。お願いします、と一言告げた。

 流れるイントロの外側に鍵を放り投げて、最初の一音を声に出した。






「お疲れ様でした」

「お疲れ様でした。出来上がりましたら、ご連絡しますね」

「はい、よろしくお願いします」


 このレコーディングが終われば、しばらくの間仕事はない。というのも、そろそろ夏休み前のテスト期間に入るからだ。今回ミックスを外部に委託したのも、勉強時間を確保するためだった。

 タクシーに揺られながら英単語帳を開く。既にテスト範囲は公開されているのだから、暗記で点を稼げるところは稼いでおかなければ。

 十ページほど進めたところでタクシーが止まる。顔を上げると、見慣れたマンションが目に入った。私は運転手さんにお礼を言って料金を払い、タクシーを降りた。

 時刻は四時になろうとしているが、外はまだ明るい。空はまだまだ蒼色で、時間を勘違いしそうだ。紫外線が肌を刺す前に、マンションに入った。

 自分の家に帰れば、静かな世界が広がっている。高校に通うにあたって、そこそこいい感じのマンションを借りて暮らしている。支払いの金は全て自分のものだ。知名度が上がってからは、そこまで苦になるような金額でもない。


 この生活が楽しいか、と聞かれたら別にそうでもなかった。

 もちろん、歌ったり曲を作ったり、といったことは楽しいけれど。取材にライブに依頼、自分が好きな曲を作る機会なんて年に一度あるかないか。ファンには、いい人もいるけれど悪い人もいる。アイドルが口を揃えて言うような、ファンが大好き、なんていうことにはならなかった。


 だって、私の一番のファンはきっとあの人だ。私が送ったチケットをちゃんと使っていて、コメント欄を覗けば必ずそこにいる。

 だから忘れられない。昔にした約束を守ってくれている彼を。

 遠く離れたあの街にいる彼を。

 思う。


 ……あぁ。やっぱり、間違いだったのだろうか。

 選んだ道の何もかもが。

 彼が、隣にいてくれたなら。

 きっと、私が”風歌”である意味はどこにもない。

 

 蒼い朝陽が差し込む夢は、どんな歌にも載せられないから。


 こころを殺して、歌い上げるのだ。

 この現実を。



 午後六時。夏といえど日が暮れ、夕焼けが空に広がる頃。

 平日に出かけることにしたのは、夏休みだからだった。混雑した電車に乗りたい人はいないだろう。

 この時間まで帰らなかったのは、色々なCDショップをハシゴしていたからだった。そのおかげで、お目当てのものを見つけることができた。

 ”風歌”の新シングル。この八月に放送開始のドラマの主題歌であるそれは、既にカラオケでの配信が決定しているヒット曲だった。CDを手に入れるのも容易ではなく、何件か回ってやっとゲットした。しかも、最後の一枚を。


 バス停の時刻表と、今の時刻を見比べる。駅から徒歩十分ほどでここまで来たが、どうやらあと三分後にバスが来るようだった。正直に行って歩くのも疲れてきた。ここはバスにすることにして列に並ぶことにした。陰キャの体力は少ないのだ。


 そして二分くらい経った頃。くい、と腕を引かれてスマホから顔を上げた。

 声を出さなかったことを褒め称えたい気分だった。


 眼前で人差し指を唇に当て、にこりと笑う少女。腰くらいに切りそろえられた緑の黒髪と濡れ羽色の瞳を持つ、彼方に消えたはずのあの人。

 彼女はもう一度俺の服の袖をくい、と引っ張ると、身を翻して歩き出した。

 着いてきて、ということだろう。

 俺はスマホをポケットに突っ込み、彼女の後ろを歩いた。







「久しぶり、蒼依 朝陽あさひくん」


 人通りの少ない路地裏を歩きながら、彼女は言った。俺は彼女の隣を歩いている。フルネーム呼びは、確認のつもりか。


「……ああ、久しぶり。こころ風夏ふうかちゃん 」


 自分の声は、沈んでいないだろうか。会いたくなかったんじゃないかと疑われたくない。

 しかしその心配は杞憂に終わったようだった。

 疲れてるの?

 彼女の質問に、俺はさっき買ったばかりのCDを取り出して答えた。


「これ、どこに行っても売り切れてて。探してたんだ」

「わぁ、発売したばっかなのに。買ってくれたの?」

「そりゃ、一番好きなアーティストのCDだからね」


 好きな人、とは言えなかった。幼馴染だろうと、人気アーティストの一人だ。しかも女性。そう言い訳を並べたところで、自分の心を否定することはできなかった。

 それでも彼女は喜んだようだった。


「まだ、私を一番にしてくれているのね」

「当たり前だよ」


 即答した。それだけは、何が起こっても変わらないものだと断言できた。

 色々な人を好きになれる。恋ができる。でも、「初めて」好きになる人は、たった一人しかいないんだ。


「俺にとって、『フーカ』以上に好みの歌を作る人はいないから」


 昔から、ずっとそうだった。

 彼女が選ぶ言葉が好きだった。言葉の組み合わせが好きだった。どんなに暗い曲調でも、歌詞は澄んでいた。そのセンスが好きだった。


「……それだったら、私は、あっくん以上に言葉を載せやすい音を作れる人を知らないよ」


 彼女は立ち止まった。その後ろには、高いマンションがあった。躊躇いなくそこに入っていく彼女を追いかける。

 エレベーターの中は静寂に包まれていた。

 俺はスマホを取り出し、親に帰りが遅れる旨の連絡をした。

 エレベーターが止まる。

 箱の中から吐き出された俺たちは、廊下の端にある部屋の前で立ち止まった。


「ここが、私の部屋」


 彼女はガチャリと鍵を開ける。入って。淡々と告げる彼女の姿は、自分が知らない少女のように見えた。

 断る理由はない。


「おじゃまします」


 一言告げて、中に入る。

 物が少ない部屋だった。特徴といえば、四人がけのテーブルが区切られていることくらいか。片方には教科書やノートが立てられている。もう片方には何もない。彼女は冷房を入れた後、机にティーカップを並べた。


「麦茶しか無いけどいい?」

「いいよ」


 音を立てて麦茶が注がれる。

 俺と彼女は対面に座った。窓から西日が差し込み、カップの水面がキラキラと輝く。

 彼女は口を開けた。


「……ねぇ、お願いがあるの」

「お願い?」

「うん。……私の隣に、いてほしいの」

「それは、」


 ──無理だよ。

 そう言いかけて、飲み込んだ。

 彼女が、あまりにも悲愴な顔をしていたから。


「だって、曲作るの、やめてないんでしょう」

「……ッ」


 図星だった。

 ピアノもギターもやめたけれど、音を打ち込むことだけはやめられなかった。彼女とのつながりが、完全に立たれてしまう気がしたから。スマホの中には、歌のない曲がいくつも詰め込まれていた。


「…………どうして、」

「知ってるのかって? だって、あっくんのことだもの。よく知っているわ」


 彼女はそんなに俺の顔が面白かったのかくすくすと笑うと、その手を俺に伸ばした。


「歌わせてほしいの。朝陽の波を」


 俺がいっとう好きな、彼女の視線がこちらを見据える。

 ……あぁ、どうして。

 どうしてお前は、そんな目をするのだろう?

 死地に向かうようなその目を。今生の別れのような、その目を。

 俺の答えなんて、一つに決まっているというのに。


「プロには遠く及ばないと思うけど」

「そんなこと無いわよ、あっくんのだもの。それとも、前の曲を見返してみる?」


 にこりと笑われれば、返す言葉はない。


「……わかった」

「ありがとう! それじゃ、これからよろしくね」

「うん……よろしく」


 誰に何を言われようと。

 俺は君の隣にいたい。


 たとえ、隣で君が寝てるだけだったとしても。

 そこが、俺の居場所だから。




 死ななくてよかったな、なんて思ったのが、

 俺だけでありますように。

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四葉 六華 @Liriy-Clover

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