第二話 しずかだなあ

 目覚めた時、彼は寝台の上で唇を閉じ、見るともなくあたりを眺めていた。

 窓から射し込む淡々あわあわしい陽光が部屋に広がっていた。家具の少ない空間のため、物陰ものかげはほとんどない。

 身体をようやく動かすことができるようになった頃には、数時間が過ぎていた。

 

 階段を降りる際、なかほどで欄干らんかんに手を滑らせ、木理の毛羽立ちが肌に触れた。その小さな先端を彼は指でつまもうとした。

 爪をつかって剥ごうとするが、器用にはこなせない。

 彼はどうにか剥ごうと立ち止まって指を動かす。すると、突然、手すりに使われている心材のすじが、糸ほどの細かな繊維となって山なりに突出し、静止した。

 しじまをほどくようにして、幅1mの両端から伸びていた繊維のかたまりは、階段の子柱に沿って垂れさがってしまった。

 それはまるで、白銀葭しろがねよしの穂が束になっているかのようだ。

 

 部屋で目を覚ました時と同様、彼はぼう然として動かなかった。一点から瞳をそらさないが、見ているようで見てなどおらず、眼力といったものなく、無心な姿は人形めいている。

くん、と首を動かし、階段を降りてリビングに入った。

 一階にある食卓には銀や硝子の食器類が置かれており、食事が盛られていたが、誰もいない。

 歩みを止めることなく素通りして、彼は裏口を出た。

 肌寒い外気が遍満へんまんするメドウの狭路せばじを道なりに進んで行く。

 

 白い背を通りすぎそうになった時、彼はふっと立ち止まった。

 そうして隣にしゃがみこむと、しばらくのあいだ、相手の手際を眺めていた。

 いま、彼は忘れてしまっているが──その光景は、以前見た幻と重なるものだった。

 厚手のサックジャケットには染みひとつなかった。土仕事をしているにも関わらず、汚れのつかない滑らかな身の動きに、彼はふわりとした快楽を感じ、脱力する。

 置肥おきひをしていた手は止まり、男が彼に顔を向けた。しかし、彼はというと、無言で視線を合わせない。どころか、怯えて身を引き、避けてしまった。

 男は土が付着した手袋を外した。そうして、一度は手元に向きなおりうつむいたのだが、再びさりげなく、そっと隣りを向いた。すると彼はプレッシャーを感じたのだろうか、さらにその身をよじった。

 彼のその、嫌々と拗ねて被害者ぶりをあてつけるように見せる姿は、まるで「お前が悪いのだ」と相手を遠回しに断罪しているかのようだった。

 男は意に介さない様子で、決して無視をせず、ただたたずまいで示すだけであった。

 動きに無駄がなく、こちらの行動に微かにも動揺しないさまに恐れおののいた彼が、パラノイアへと陥りそうになった時、不可視だが確かに優しげな感触が彼の身を包んだ。

 折に触れて霧が漂いだす。

 陽を色濃く遮りながらも、光を透かした純白の粒子密度が明るい。柔らかな細雨が束の間、音をならして注ぐ。

 

 霧は空気に溶け、やがて薄くなった。

 見渡す限りの残滴ざんてき耿々こうこうと反射している。

 その刺激に眼を痛めて、彼はぎゅっと目をつむった。

 

 どれくらいの時間が経っただろうか。

 だしぬけに顔をあげ、変哲もなくそばにいる男とようやく視線を合わせた。彼のまぶたは、疼くような恐怖心を無理やり誘発させたかのように、不自然に震えていた。彼は尋ねた。

 

「名前は」

 

男は間をおいて答えた。

 

「スカイラー」

 

 聞き取りにくい小声ではあったが、淀みない発音であった。その透明度の高い鋭利な声に、彼はとっさに怖気づいた。

 感覚が鋭すぎる黒服の彼が、物事を咄嗟に判別できないことを知っているのか、男は続けた。

 

「お腹は空きませんか」

 

 さきほど植えたばかりの苗を見おろしつつ、男は呟いた。

 彼はダイニングで見た食器を思い出し、俯いた。 男に話しかけたのは、男を見かけたときに理由もなく腑に落ちただけであって、実際はこの男が誰であるのか、名前さえも思い出せずにいることに自信を失くしてしまったのだ。雑然とした罪悪感のなかで活力が絶え、彼は死人のように青ざめ、やつれてしまった。

 こけた頬をほとらせ、乾いた唇を恨みがましく食いしばりながらも、彼のなかにはやみくもに怒鳴り散らしたい狂気が生じていた。それは先刻よりもさらに荒れ狂うものとなっており、憤懣ふんまんする悲しみから、彼は男を睨みつけた。

 それでもやはり、静けさは失われなかった。男は彼の激しい情念を感じるだけにとどめていた。

 立ちあがり狭路を戻っていく。その後ろ姿を渋々と追う影は、やがて庭から消えた。

 

 食卓につくなり、彼はスプーンの柄尻えしりを鷲掴み、具をのせた壺を口につっこんだ。柄を噛む歯をむきだしにし、強情を張っている。

 冷めてしまった食事を、スカイラーが手間をかけて温めてくれたことなど、気に留めてなるものかと言わんばかりの悪態だった。彼は、凍えている罪の意識に抗おうとしたその弾みで、我を押し通すという強がりをみせることを止められなくなっていた。スカイラーは、尚も表情を変えず、靄然あいぜんとしている。

 スカイラーは向かい側に座り、言った。

 

「あなたは私のことが好きです」

 

 取り立てて言うほどのことではない、と諭すような口調であり、そこに自惚れや成心といったものは皆無に思われた。男には、一己と呼べるような個性的な合成波があるかどうかすら曖昧にみえる。なぜなら、スカイラーには感性に訴えかけるような好悪、それを抱くまでには至らない整然とした印象、そこはかとない希薄な情調があったからだ。

 しかし、スカイラーの言葉は大胆で、少なくとも彼は驚いているようだった。

 スカイラーは、男性にしてはやや高い声質である。その声には厚みと涼しさが宿り、聴き手の胸のなかへすとんと落ちて、気分を一新させる何かがあった。

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とある物語 匿名 ※考え中 @kakuyom_user

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