とある物語

匿名 ※考え中

第一話 こころをこめて

 この土地は霧が深い。視界を遮るほどの迷霧が沈む森林の奥には、一軒の家が建っている。

 コロニアル様式と呼ばれる、植民地時代のアメリカ式で、外壁には下見板が張られている。建築面積は広大で、館ほどの大きさがある。


 外壁は暗緑色で塗装されており、つた繁殖はんしょくしていた。

 蔦は毎年、季節が巡るたびに鮮明となり、秋には紅葉が濃淡を折り重ね、みごとなしげりが映えるようになる。


 家の周りには石材でしきられた花壇があり、様々な植物が繁茂はんもしていた。

 総じてどの草花も湿り気をおびていて色彩は濃い。

 絨毯のように敷き詰められたグランドカバーのなかで、アネモネの青い花弁が、小暗い印象を与えていた。




 石盤色の雲翳うんえいが空を覆い、はるか遠くの果てまで続いている。


 遠くに、ひとつの人影があった。

 服装は黒く、景色に溶け込んでいる。彼は素足だった。

 足はやがて地表を滑り出す。移動するスピードは次第に駆け足へと変わっていく。


 突然、彼の身に離人感が起こり、前方に、花壇の前で座りながら苗を植えている誰かの背が現れた。


 彼の目に映っているのは幻である。


 幻のなかでは、今しがたまでの空模様は突然その色を大きく変容させ、真白い薄曇りの天候となった。立ち込めた雲の色を映したような上衣を着た男が、手袋をはめて覆土ふくどをしている。

 その錯視を信じた黒い服装の彼の意識は、ここに至ってとうとう途切れた。すると、爪先が浮きあがり始めた。


 濡れて黒ずんだ土のうえに凍みる霧が降り、浅い足跡に薄氷のような澄んだ水が溜まっていく。


 黒服の彼は引力から離れ、空中でうずくまる。解かれた手脚は姿勢に沿って力なく垂直にさがった。


 空気抵抗はなかった。浮揚による勢いは消えていた。裾は彼の後を追うようにゆるやかになびいている。

 不自然なほど無風の空間を、非合理な遠心力によって滑空していた。


 幻を見続けながらも、眠りに落ちた彼の身体は、目指していた目的の場所へと向かっていた。


 不意に生じた幻覚、その渦中にある彼の視界に広がる光景の明度は高く、彩度は抑えられていた。

 ぼんやりとした無音の淡い世界。水が揺れた時のような重い感覚と、遠のく心音が鳴っている感覚だけがあった。

 彼の皮膚感覚はかりそめの暖かな外気と溶けあっており、脅かす刺激となるものは何ひとつない。




 浮揚する彼の夢の中で、彼は花壇の男のそばへと歩み寄った。しゃがみこむと、彼は何かを話しかけるつもりで口を開いたが、言葉を発したつもりでも、耳に自身の声は聞こえなかった。


 振り向いた男は、いまにも閉じそうな薄目だった。それはまるで、微睡みつつ微笑んでいるようで、彼は表情を緩めた。理由のない安心感を覚えているようだった。




 いつの間にか彼は玄関先にたどり着いていた。はめ殺し窓のトランザムやサイドライトが室内の光を透かし、ステンドガラスに描かれている絵が、ひさし下のポーチに薄らかな影を落としている。


 玄関扉が軋みながら開き、扉の隙間から溢れた明かりが、花壇に座っていた男の身に纏っていた白い衣服の肩を照らし出した。


 穏やかで、くしびな予感は息をひそめていた。黒い服の彼は、正体の分からない秘密のなかへと、足を踏み入れていく。


 この場所を知る存在は、ふたりだけだ。

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