死のスタート

庵字

死のスタート

 数日前、ある陸上大会でのリレー競技中に、選手のひとりが殺害されるという事件が起きた。“競技中”というのは正確な表現ではないかもしれない。事件は、リレー競技が開始された直後に発生した。


「被害者が倒れたのは、スタートしてすぐのことだった。死因は……背中への銃撃だ」

「銃撃?」


 警部の説明を聞くと、探偵は意外そうな顔をして、口元に運びかけていたコーヒーカップを止めた。


「そうだ」と、もとの味が分からなくなるほどにミルクをたっぷりと注いだコーヒーをひと口飲んでから、警部は、「背中のど真ん中を撃たれていた。ほぼ即死だ」

「背中を銃撃されたのなら、犯人は被害者の背後方向にいたということになりますね」

「ああ。だが、事はそう簡単に運ばなかった。その被害者の背後には、校舎建物に挟まれた狭い路地のようになっている場所があった。犯人が潜むには絶好の位置で、銃撃後、すぐに逃げ出しても誰にも目撃されずに済んだだろう。実際、犯人らしき人物の目撃情報はまだ得られていない」

「警部、今、『校舎』とおっしゃいました?」

「ああ――おっと、そうだったな。すまん、言い忘れていた。事件が起きた陸上大会が行われたのは、ある学校のグラウンドだ。公式な大会ではなく、大手スポーツ用品店が主催したものなんだ。公式な大会でこそないが、そのスポーツ用品店がコマーシャルに起用している有名選手がゲストに来たり、豪華な賞品が出たりするということで、結構な盛り上がりを見せていたそうだ。企画当初は、きちんとした陸上競技場で開催するつもりだったそうなんだが、予算の都合と、開催日が日曜だということもあって、学校のグラウンドを借りて行うことになったらしい」

「そういうことだったんですか」納得した探偵は、改めて自慢のブレンドコーヒーに口を付けると、「しかし、銃で撃たれるなんて、尋常な殺され方ではありませんね。被害者というのは何者なんです?」

「二十七歳。独身。いたって普通の家庭に育ち、いたって普通の会社勤めをしていた男だ。当然、怨恨の線も洗ったが、容疑者らしい人物がまったく浮かんでこない。病気と事故以外で死ぬ、なんてことは人生に起こりえないはずだった、と断言してもいいくらいの、いたって普通の男だ」

「しかし、実際、他殺という剣呑な死に方をしている。しかも、銃で撃たれるという……」

「ちなみに、弾丸の線条痕に“前”はなかった。いちおう、組対(組織犯罪対策課。暴力団を取り締まる部署)の協力も得て、それらしい組にも当たっているが、状況は芳しくない」

「そうですか」

「正直に言う。捜査は行き詰まっている。だからこそ、こうして君の事務所を訪れたというわけだ」

「力になりたいのは山々ですが……」

「君なら出来るさ。とりあえず、映像を見てくれ。被害者が撃たれる瞬間が見事に映っている」

「そんなものがあるんですか」

「ああ。観客のひとりが撮影していた。被害者ではなく、別のリレーチーム走者の家族が撮っていたものだが、画角に被害者も何とか入っている」


 言いながら立ち上がった警部は、懐から撮りだした記録メモリを、探偵のデスクに置いてあるノートパソコンに挿した。探偵も警部の横に立ち、二人でディスプレイを見つめる。

 映像が再生された。カメラは選手たちを真横から捉えている。レーンは四本が使用されている。このリレー競技には四チームが出場したということだ。各々ストレッチをしていた第一走者たちが、ゆっくりと屈み込み、スターティングブロックに足を載せ、両手をトラック上に突き、腰を上げ、クラウチングスタートの体勢になる。


「被害者は一番内側のレーンの選手だ」


 警部の言葉で、探偵は画面隅に視線を送った。撮影者の被写体は内側から二番目のレーンの選手であるらしく、そのため、これから被害者となる男性の姿は、カメラの画角の隅にかろうじて入っている程度だった。スターターがスターターピストルを頭上に掲げる。公式の競技であれば歓声が止む場面だが、この大会はトラック内側のグラウンドで、子供たちを対象にした玉入れなどが同時に行われているため、観客や競技参加者たちの声が止むことはなかった。ピストルが鳴る。同時に選手たちがスターティングブロックを蹴り、クラウチングスタートから疾走へと体勢を変え――その直後だった。


「ここだ」


 警部の声と同時に、一番内側レーンを走っていた――正確には、走り出そうとしていた選手が、倒れた。歓声の中に悲鳴が混じる。他の選手たちも異変を察知し、走るのを止めた。撮影者の被写体も被害者に変わっていた。が、駆け寄った救護班たちに囲まれたことにより、倒れた選手はすぐに姿が見えなくなった。


「ここまでだ」


 警部は映像を止めた。探偵は、ふう、と息を吐き出して、


「確かに、スタートした、まさに直後に撃たれたようですね……狙っていたのでしょうか?」

「何とも言えんな。被害者の背後から狙ったのであれば、当然、レースが開始されたら標的は遠ざかっていく一方なので、スタート直後が一番命中させやすいというのは事実だろうが」

「それはあるかもしれませんね。競技が始まる前は、ストレッチなどしていて動いていますから、狙いが定まらないでしょうし」

「スタート直前も、両手を地面に付ける体勢を取っているから、犯人から見える標的の面積は小さくなるしな。そもそも、その体勢の人間を背後から狙うとしたら、犯人は標的の脚かケツを撃つしかない。一発で仕留められるかは微妙だ」

「“クラウチングスタート”って言うんですよ」

「ともかく、だから、犯人からしてみれば、スタート直後を狙うというのは理に適っていることになる」

「理に適うというか……そもそも、どうして犯人は、そんな状況で被害者を殺そうと思ったんでしょう?」

「そこしか機会がなかったとかじゃないか?」

「うーん……それにしたって……」

「なあ、スタートの合図をする人間は、事件に無関係だと思うか?」

「スターターのことですか?」

「そう呼ぶのか。ほら、拳銃も使っているだろ」

「まあ、確かに“スターターピストル”を使ってはいますけれど、あれは紙火薬を破裂させて音を出すだけのもので、実弾は撃てませんよ」

「分かってる。訊いてみただけだよ。そもそも、そのスターターが持っている銃は上を向いているわけだからな。仮にあれが実銃だったとしたって、被害者の背中を撃てるわけがない。発射された弾丸は空に向かって飛んでいくだけだ」

「ええ……」


 と、コーヒーカップの置いてある応接セットに戻りかけた探偵だったが、考え込むような顔をすると足を止め、すぐにパソコンの前に取って返してきた。


「警部、映像をもう一度見せて下さい」

「お、おう」


 警部は一度閉じたフォルダを再び開き、映像を再生させた。食い入るように画面に視線を注いでいた探偵は、


「……警部、確認してほしいことが」

「何でも言ってくれ」

「この被害者となった男性、もしかしたら……本来は第一走者を務める予定ではなかったのかもしれません」

「はあ? どういうことだ? まあ、とにかく調べてみよう」


 警部は懐からスマートフォンを取りだした。



「……君の言っていたとおりだった」通話を終えた警部は、「被害者は、第二走者として出場する予定だったそうだ。が、第一走者として出るはずだった選手が直前に体調を崩して棄権してしまい、その代わりとして第一走者になったということだ。なんでも、補欠として準備していた選手は、陸上競技の経験がほとんどなく、あの独特のクラウチングスタートを決める自信がないということで、急遽、走る順番を代わってもらったそうだ」

「やはり、そういうことでしたか」

「で、この情報から、何か分かったのか?」

「警部、その、体調を崩して棄権した選手のことを洗ってみて下さい」

「まさか、そいつが犯人だと?」

「いえ、被害者です」

「はあ?」

「正確には、“被害者になるはずだった”ですね」

「なるはずだった、って……」

「犯人の本来の標的は……その棄権した選手だったということです」



 後日、警部は改めて事務所を訪れ、事件が解決したことを探偵に報告した。


「棄権した男を洗ってみたら、すぐに殺したいほど憎んでいるというやつが浮かんできた。君の推理をそのままぶつけてやったら、観念したのか、すぐに白状したよ」

「それは良かったですね」

「ああ。まさか……凶器がドローンだったとはな。正確には、ドローンに仕込んだ銃か。そんなものを“商売道具”にしている殺し屋がいるなんて、思ってもいなかったよ」

「現場の状況も犯行には有利に働きましたね。ドローンは稼働中はプロペラ音を立てていますが、現場は常に歓声が飛び交っていたから、その稼働音も掻き消されてしまっていたんですね」

「加えて、殺し屋が使っていたドローンは、空の色に溶け込むような迷彩塗装がされていたからな。よほど注意して見ないと、そこにドローンが飛んでいるということを視認するのも難しい。しかし、こんな殺し方を、よく見破ったな」

「警部がヒントをくれたんですよ。スターターのピストルが実銃だったとしても、発射された弾丸は空へ飛んでいくだけだ、って言ってたじゃないですか。その言葉と、リレーの第一走者が取るクラウチングスタートが組み合わさって、ピンときたんです」

「被害者は、犯人が操作するドローンによって真上から撃たれた、というわけだな。クラウチングスタートの姿勢を取っているときに。だから、発射された弾丸は背中に命中した」

「背中に銃弾が命中するのと、被害者がスタートしたのが、まったく同じタイミングだったんでしょうね。撃たれてしまったとはいえ、その一瞬前にはスターティングブロックを蹴っていたから、被害者の体はその勢いを持って、わずかな間だけとはいえ、実際に走り出す体勢に移行した」

「しかし、さすがに直後に倒れてしまった。だから、あたかも、“被害者はスタートした直後に撃たれた”ように見えたわけだ」

「“仕事”を請け負った殺し屋は、“標的は一番内側のレーンの第一走者”という情報しか得ていなかったんですね」

「ああ。もちろん、殺し屋のほうも逮捕できた。“過度に標的のパーソナルな情報を得ると余計な邪念が入り込むから”とか、もっともらしいことを抜かしていたよ」

「だから、直前に標的が第二走者に代わっていたことに気付くはずもなかった」

「そういうことだ。依頼主は、殺し屋が犯行に及ぶ時間に遠く離れた場所にいて、アリバイを作っていたんだが、報道で目にした被害者の名前が全然別人だったことに驚いたそうだ。無理もないな。殺し屋の線から、その裏にいる反社にも捜査の手を伸ばすことが出来そうで、組対の連中も喜んでいたよ。また君に借りが出来たな。感謝する」

「僕を警部の仲じゃないですか。水くさいこと言わないで下さいよ。そうだ、ようやく新しいブレンドが完成したんです。ぜひ味わっていって下さい。この深い苦みを出すのに苦労ましたよ」


 ほくほく顔でコーヒーメーカーに駆け寄った探偵だったが、


「いや、まだ聴取が残ってるんでね。残念だが、また今度にするよ」


 言葉とは裏腹に、さほど残念そうな顔も見せず、警部は事務所を辞した。

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死のスタート 庵字 @jjmac

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