瓶山甲之助百番勝負 ~壱ノ巻 駆け出し初め~
賽藤点野
瓶山甲之助百番勝負 ~壱ノ巻 駆け出し初め~
どのような偉人にも「駆け出し」の頃というのはございまして、それは我らが英雄、
甲之助様、
今では幕府お抱えのインフルエンサーとして名を馳せる甲之助様ですが、御生家は代々酒屋を営む商家であり、甲之助様の御生まれになる数年前には、御父上である
寺子屋が休みの日は御父上の商いを手伝う甲之助様でしたが、時間に空きができると店を抜け出し、家の裏にある山の中で肉体の鍛練をしておりました。この山は代々受け継いできた先祖所縁の土地でございましたが、リーマンショックの煽りを受け、翌年には保険金と引き換えに幕府へ譲り渡すことが決まっておりました。甲之助様は世の無情をお嘆きになりながらも、御父上からいずれ受け継がれる家と店を守るため、心身を限界まで鍛えると己に固く誓っておられました。
ある日のことでございます。
甲之助様がいつものように山で鍛練をしておられると、甲之助様の肩を何者かが叩きました。
振り向くと、そこには好敵手、
後に老婆殺しの大悪党、
「甲之助。おお、甲之助よ」
へらへらと笑いながら話し掛ける跳太の息を嗅ぎ、甲之助様は鼻を摘まみました。
「おぬし、家の裏に置いてあった酒を飲みおったな」
甲之助様がそう言うと、跳太はぶはぁ、と息を吐きながら仄かに赤い顔を歪めました。
「店の中の物でもあるまいに、外に放置してある物を
「おぬしという者は。大体あの酒は……」
「酒の話はどうでもよかろう」
甲之助様が話している途中で跳太がぴしゃりと言いました。
「おぬし、毎日飽きもせず山に籠っているようだが、一体何をしておるのだ」
跳太の問いがあまりも馬鹿馬鹿しかったため、甲之助様は口を尖らせました。
「見れば分かるだろう。身体を鍛えておる」
「それは可笑しな話ではないか」
「何が可笑しいのだ」
「おぬし、大層足が遅いそうだのう」
それを聞くと、甲之助様は跳太をぎろりと睨み付けました。
「……誰がそのようなことを申した」
「皆が言っておることだ。甲之助の奴は肥えた牛のように足が遅いとな」
「聞いたことがないな」
「そんなわけはあるまい。昨日だってグループLINEで話題になっておったわ」
「LINEは見ておらん。義理で登録こそはしたが、普段は通知を切っておる」
相も変わらず人嫌いだのうと跳太が吐き捨てました。
「まあ、周りの連中に何と言われようが、そう肩を落とすことはない」
跳太は気持ちの悪い手つきで、甲之助様の背を撫でて言いました。
「いくら足が遅かろうと……酒屋の倅には関係のないこと故、な」
そう告げると、跳太はかっはっはっと大声で笑いながらその場を去ろうとしました。
「待て」
勿論、跳太に一方的に言われっぱなしの甲之助様ではありません。
「おぬしは二つ、勘違いをしておるぞ」
甲之助様の呼びかけに、跳太は足を止めました。
「一つ。我が家は酒屋ではなくコンビニエンスストアだ。コウコウマートという店名に覚えはあるだろう」
「少なくとも江戸では聞いたことすらないな……」
「そして二つ──拙者は己の足が遅いと、一度も認めてはおらぬ」
甲之助様はそう告げて、おもむろに足元に落ちている木の枝を拾いました。
それを持ち、地面にずずずいと線を引いていきます。5.5ヤード程の線が地面に引かれると、甲之助様は枝を投げ捨て、跳太に向き直りました。
「拙者の足が本当に牛のように遅いかどうか、それをこれから証明しようではないか」
「……して、どのように証明するつもりだ」
跳太がにやにや笑いながらわざとらしく尋ねると、甲之助様は堂々と返されました。
「今より拙者と競走をせよ。この線を起点とし、山の頂上へどちらが先に辿り着けるか、競い合うのだ」
甲之助様の御言葉に跳太は顔を歪めました。驚きの表情ではありません。「その言葉を待っていた」と言わんばかりの、悪党の顔でありました。
しかしすぐに表情を変え、「くだらんのう」と肩をすくめます。
「山の中で駆けっこ勝負など、童のやることではないか。儂になんの旨味がある。走っている様子を動画投稿して広告費でも受け取れば良いのか」
「ここだけの話だが」甲之助様がお返しになられます。「情けなきことに、この山はいずれ幕府への譲り渡しが決まっておる」
「知っておるぞ。それもLINEで話題になっておったわ」
「……人の口に戸は立てられぬな」
まあそれならば話が早いと、甲之助様は続けられます。
「譲り渡しの際に幕府から多額の保険金が下りる約束になっておる。江戸の遊び人が一年は働かずとも食っていける金だ」
甲之助様は跳太の目を真っ直ぐ見据えて言われました。
「拙者が負ければ、その金をそっくりそのまま、おぬしにくれてやろう」
「……かっかっかっはっはっ、それでこそ甲之助よ」
跳太は喜色満面になり、甲之助様の引かれた5.5ヤードの線の前に立ちました。勝負に乗ったということでしょう。
「ところで、万が一儂が負けた場合、何を払えばよい。自慢ではないが金はないぞ」
「本当に自慢じゃないやつがあるか……ならばこうしよう」
甲之助様はぴっと跳太の喉元を指差しました。
「おぬしが負けた場合は、今後一切、酒を飲むことを禁ずる」
「それはそれはきつい仕置きを考えられる」
跳太は再び大笑いしました。
一方の甲之助様は真剣な表情を崩さず、跳太の隣に立ちました。起点となる線の前に、二人が並んだ形でございます。
「では、駆け出しの合図は儂がやるぞ。異存ないな」
跳太の言葉に甲之助様は頷かれます。ここで跳太も表情から笑みを消し、服の袖を捲りました。上腕二頭筋の立派なバルクが甲之助様の方からも確認できます。
「では、位置に着いて────よーい」
「ちょっと待った」
「おっ おっおっおっ」
駆け出し直前で甲之助様が待ったを掛けたため、勢いづいた跳太は前のめりに倒れそうになりました。
「なんじゃっ、なんで急にとめた。ええっ」
跳太が怒鳴ると、甲之助様はその場にしゃがみ込みました。
「あいすまぬ。スニーカーの紐が緩んでいてな。先日買ったばかりだからまだ大きさに慣れぬのよ」
「なんだ驚かせおって。あと山に登るならちゃんと登山靴を買え」
お待たせしたと言いながら甲之助様は立ち上がられます。跳太は息を整えると、再び線の前に足を置きました。
「では改めて────よー」
「ああそういえば」
「をっ をっをっをっ」
再び甲之助様が待ったを掛けたため、跳太は再び体勢を崩しました。今度は転びました。
「今度はなんじゃぁっ」
「いや駆け出しの合図の『よーいどん』の『ん』で始めるのかそれとも『ど』で始めるのか気になって……」
「どーぉでぇーもよいわーっ 『ん』で始めじゃ『ん』でっ」
そうか、済まぬなと甲之助様は申し訳なさそうに頭を掻き、再び線の前に立たれました。
跳太も鼻息荒く、甲之助様の隣に立ちます。
「本当にこれが最後だぞっ」
「分かっておる分かっておる」
「いくぞっ 位置に着いてっ────よーいど、ん」
跳太の「ん」を聴いて甲之助様は勢いよく走り出しました。
しかし、どういうことでしょう。跳太は走り出すどころか、5.5ヤードの線の上でうずくまっております。
「は……え……なに……どゆこと……」
跳太は腹を押さえながら、口から微かな声を零すばかりです。お得意の大声も出せません。
そこで跳太ははっと気付きました。先に走り出したはずの甲之助様が、わずか10ヤード先の所でその場ジョギングをしながら、己のことを見ているのです。
「……跳太。いかがした。急に具合が悪くなったようだが」
そこで甲之助様は、初めて笑顔をお見せになられました。
「何か悪い物でも食ろうたのではないか。例えば……賞味期限のとうに過ぎた酒、などな」
「は……っ……まさかっ、さっき飲んだあの酒はぁーっ」
跳太は目を剥いて叫びました。その様子を見て甲之助様がほほほほほと上品に笑われます。
「盗み飲みなどするおぬしが悪いのだ跳太よ。あれは家の蔵の隅にずっと放置されていた酒でな。拙者も父上も始末に困っておったのだ。おぬしが平らげてくれて大助かりよ」
「甲之助貴様……っ それを分かっていてわざと駆け出しの合図を遅らせたなっ 儂が腹痛で苦しむのを見計らっておったのだなぁっ」
「ほっほっほっ。跳太よ、さらにもう一つ教えてやろう」
鬼のような形相で叫ぶ跳太を見ながら、甲之助様は軽快に足を動かしてこう申されました。
「人の口に戸は立てられぬ……この山を譲り渡すことは真であったろう。つまり、拙者も真に足が遅いのだよ。だが、工夫を凝らせばこのように足が遅くとも競走で勝つことが出来る。肉体が勝利する場を整える頭脳あってこその鍛錬よ。覚えておくのだな」
かくして、甲之助様は宿敵、宇佐桐跳太に快勝したのでありました。
そしてこれが、その後百回にも渡って続く名勝負の、輝かしき駆け出しであったのであります。
さて、余談ではありますが、宇佐桐跳太はその後、アルコール類を一滴たりとも飲むことはなくなりました。
甲之助様との約束を守った、ということではなく、あの名勝負の後、一週間は腹痛に苦しんだため、すっかり酒がトラウマになったのでありました。
瓶山甲之助百番勝負 ~壱ノ巻 駆け出し初め~ 賽藤点野 @Dice-Daisuki
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