おはよう

こう

おはよう


 あの子が消えた。


 私の隣から、このクラスから、学校から。

 ――町内から、日本から、世界から。

 人々、の記憶の中から。


 あの子が消えた。

 あの子が消えたことを、私だけが知っていた。


「誰の話?」「そんな子いた?」「誰かと勘違いしてない?」

 戸惑う私に返ってくるありきたりな「知らない人の話をされた」ときのリアクション。

 盛大なドッキリか、突然いじめでも始まったのかと戦々恐々としながら向かったあの子の家でも似たような反応。いや、もっと酷かった。

 だってあの家にあの子が居ないなら、私はあの家と接点がない。突然知らない学生が訪ねてきて居もしない娘の話をされて、あの子の両親は怪訝な表情に恐怖を滲ませていた。


(そんな顔しないでよ。したいのは私の方なのに)


 誰もあの子を知らない事実に恐怖を感じて、私は適当なビルの非常階段付近に逃げ込んだ。

 携帯を取り出しアプリで写真を確認する。ラインはアカウントからして存在せず、あの子とのやりとりも消えてしまっていた。


「…やっぱりいない」


 見間違いじゃなくて、写真にもあの子は写っていない。

 不自然に一人分空白のある、私だけの写真。画面の半分に寄った自撮りの数々。そこに居たはずのあの子がどこにも居ない。


 技術が進化した昨今。トリミング機能が充実したとしてもこれだけの数を持ち主の私に気付かれず、あの子の部分だけ消せるわけがない。


 原理はわからない。

 確かなのは、あの子が消えたという事実だけ。


(それともあの子の存在は私の妄想で、頭がおかしいのは私の方なの?)


 今日一日、あの子を探して沢山の人に声を掛け、そのたび怪訝な目を向けられた。自分の記憶なのに、自分自身を信じられなくなってくる。

 だって誰の記憶にも、どの記録にも、あの子の存在が残っていない。

 あの子は居たのに。

 昨日まで隣に居たのに。

 今日だって教室で、おはようと挨拶する筈だったのに。


「どこにいるの…」

「誰かお探しで?」


 自分しかいないと思っていたのに背後から声を掛けられて、私は声も出せず飛び上がった。

 慌てて振り返った先。非常階段の踊り場に、古くさい探偵のような格好をした男が腰掛けていた。


 探偵と言われて誰もが一度は想像するシャーロックホームズに酷似した格好。茶色のベレー帽にケープのついたトレンチコート。目元を隠す大きな丸眼鏡にくるくる癖のある茶色い天パ。パイプでも加えていれば完璧だったが、彼が咥えているのはペロペロキャンディ。

 シャーロックホームズのコスプレと言われたらそれまでだ。だけど今はハロウィン期間中じゃないし、コスプレ男が非常階段にいるなんて考えたくもない。


 とにかく怪しい男の登場に、私は学生鞄を抱きしめて後退った。


「いやいや逃げないでお嬢さん。わたくし怪しい者ではございません! あいやしまった怪しい人は皆そう言いますねぇ。ですが本当に怪しい者ではないのです。わたくしはただ、このような場所でうら若き女性が悩ましげな表情をしていたので、好奇心から声を掛けただけなのです!」

(堂々と好奇心って言い切った)


 彼はひょいと立ち上がり、両手を挙げて無害をアピールした。右手にはペロペロキャンディが握られていて緊張感がない。信用する要素も一切ない。


「それで、学生さんがこんな平日の真っ昼間に、こんな人気のないビルの裏手に回り込んで、一体誰をお捜しで? 不肖未熟な身ではありますが、探偵を自称するわたくしめにかるーく相談しては如何でしょう」


 いいながら階段を下りてくる相手に底知れぬ恐怖を感じて、身を翻す。「あ、ちょっとぉー」なんて気の抜ける声が聞こえたが、足を止めず走った。


「無視は酷いですよお嬢さん!」

「ひぃ…っ!?」


 だというのに、ビルの表に回るより先に相手が回り込んできた。

 その素早さに悲鳴が漏れる。

 だってさっきまで階段に居たのに、数歩で追いつかれるような距離じゃなかったのに!


 あまりの速さに明確な恐怖を感じてビルの壁に背中をくっつけた。見るからに警戒しているのに、怪しい探偵もどきは顎に手を当ててふむふむと頷いている。


「見たところ、上岩笑うわがんじょう駅から徒歩十五分の南埜川みなみのがわ高等学校の生徒さん。制服のリボンが紺色なところから二年生。逃げるときの反射神経から運動部。全体のバランスから見て…うーん、テニス部ですかね!」


 ぞっとした。

 当たっている。


「制服は綺麗に着熟しスカートもソックスも規定の範囲内。脱色もなしの綺麗な黒髪。カラコンも黒目矯正もしていない愛らしい鳶色だ。今時の学生に珍しく化粧っけもなく…と思えばかるーくしてますねぇ、近付かなきゃわからない程度に! 品行方正、優等生ってだけではなさそうだ!」


 ずずいと身を寄せてくる相手から逃げるように壁を離れ、距離をとる。とてもじゃないが背中を見せることができなくて、心臓が不気味に脈打っていた。


「な、なに、いきなりあんた、なんなの」

「ああっといけない! 人に聞くばかりで自分のことを少しも話していなかった! これはお嬢さんが怖がって当然だ。大変申し訳ない、わたくしコーイウ者です」


 くるりと綺麗にターンを決めて、けれど丁寧に両手で差し出された長方形の紙。所詮名刺には簡素に「自称探偵 曲利右助まがりゆうすけ」と書いてあった。

 名刺に自称って書いてあるの初めて見た。名刺を目にする機会が少ないけど。


「失せ物のお猫様逃げた妻消えた夫気になるあの子の調査まで。勿論ご近所のちょっとした噂から難事件までぜーんぶ解決未解決。誰が呼んだか曲利右助曲がりなりにも探偵です!」


 全部あやふやだ。

 目の前に差し出された名刺を受け取ることもできず、コメントに困る。握りしめた携帯で110番を考えた。


「まあとにかくわたくしは怪しい者ではございません。ちょっと事件の香りに誘われてふらふらクラクラ現れた探偵です。そう、事件の香り。とても香ばしい焼きたてのパンみたいないい匂い。まさしく貴方から香る香る! 実に芳醇で魅力的!」

「は?」

「学校をサボったりしなさそうな女学生が真っ昼間からこんな場所に居るなんてまさしく事件! ええ、事件です。これぞまさしく若者が非行に走る瞬間の目撃。ここが現場。事件は現場で起きている!」


 恐怖を覚えたことが恥ずかしくなってきた。

 自称探偵は身振り手振りを繰り返し熱弁している。改めて見れば意外と背が高く、ひょろりと長い。筋肉質に見えないが、反応速度が異常に早い。壁に背中をくっつけたまま、どうやって逃げようか考えた。


「わたくしには貴方がどうしてここに居るのかわからない! こっそり化粧こそしていますが化粧は女性の嗜み。年々日差しが強くなる昨今肌を守るためにも化粧は必須。だからその程度なんてことはないのです! しかししかししかしです、貴方は白昼堂々学校を抜け出して授業をサボるような学生さんではないはずです。もしかしなくてもこれが初めて初体験。ドキドキ夏の大冒険ではありませんか?」


 ぐるりと首を巡らせて此方を見た自称探偵に震える。フクロウのように百八十度とは言わないが、近い角度で首が回ったように見えた。

 私の引きつった顔と沈黙を肯定と受け取った彼は、ええそうでしょうともと大仰に頷く。身体も此方を向いて、正面から向き合った。

 背の高い彼は腰を屈めて、学生鞄を盾のように抱える私と視線を合わせた。


「貴方は誘い込まれたんですよ」

「――え?」

「だってそうでしょう。そうとしか考えられない。たとえ学校を飛び出して確かめたいほど重要な何かがあったのだとしても、その最中にこんなところに迷い込むはずがない」

「こんなところって…」


 ただのビル裏…そこまで考えて、血の気が引いた。


 なんで私、そんなところに来たの。


 あの子の記録を確認したかったなら、道端に寄るだけでよかった。腰を落ち着かせて確認したいなら喫茶店でもよかった。平日の昼間に制服で店に入りたくなかったとしても、人気のない場所が女学生にとってどれだけ危険かなんてちょっと考えたらすぐわかる。今までそういった場所、路地裏とかは避けて生きてきたのに。

 なのになんで、当たり前みたいにここまで来たの。


 というかここ、どこだっけ。


「嗚呼…やはり貴方からは、芳醇な香りがする」


 陶然とした呟き。丸い眼鏡の向こう側で、彼の黒い目が溶けている。


「その香りに誘われて、大物まで釣れてしまったようです」

「え」


 べしゃりと、粘着質な音が響いた。

 水音に近いが違う。柔らかな何かが叩き付けられた音。耳に障る音。

 思わず視線を向けて…違和感に震えた。

 手足があり二足法で、目鼻のあるものを人と称するのなら、それは人だった。


 ゆらゆらと非常階段の踊り場に現れたそれは、不格好に上体を揺らしていた。

 歪に曲がった手足は足が短く手が長い。関節の位置が左右で異なり、手首を引きずっている。

 首はきゅっと細長く、頭部も長い。鼻と思わしき位置がへこんでいて、目と思われる場所には渦を巻くような闇が広がっている。


 一歩、それが階段に足を降ろす。

 べしゃり、柔らかい何かが叩き付けられる音がした。

 ミチミチ、ミチミチと肉がこねくり回されるような音がして…それの腹が縦に裂ける。

 鋭く並んだ白い犬歯。生々しい肉の色。先端が二つに裂けた長い舌が、悪臭を放つ涎と一緒に非常階段を叩いた。


「ひ、ぎ、あああああああああああ!」


 呆然とそれを見上げていた私は、やっと悲鳴を上げて逃げ出した。

 ビル裏を抜けて大通りへ。足を止めず更に遠くへ。

 校則を守ってローファーで過ごしていたのが煩わしく走りにくい。気付いたときには両方脱げて紺のソックスだけになっていた。白じゃないだけマシだ。


「いやはやまさかいきなりあんなのが現れるとは!」

「いやぁああああああ!」


 全速力で走っているのに余裕の顔で怪しい男が並走してくる!


「来ないで来ないで来ないでよぉ!!」

「あいや落ち着いてくださいお嬢さん! わたくし怪しい者ではございません!」

「怪しさしかないのよついてこないで!」

「そんなこと言われましてもわたくしめもあれから逃げているんですよね!」

「なんでアンタも逃げるの!?」

「いやぁだってあれわたくしのことも呑み込もうとしてますし!」

「あれってアンタが呼んだ化け物じゃないの!?」

「そんな奇想天外なことしませんよ~」


 言動とタイミングが合致しすぎてこの人が呼んだのかと思ったのに!


 こんな怪しい人物の証言を信じるのは馬鹿がすることだ。だけど自称探偵はベレー帽を押えて軽快に笑いながら走っている。それだけで、私を捕まえようとはしなかった。


「ですがお嬢さん、どこまで走るんです? もうどこにも逃げられませんよ」


 大通りを爆走していた私は、その言葉に足を止めた。

 短い距離を全力疾走して息が上がっている。汗がこめかみから頬を伝った。全身が心臓になったみたいに鼓動の音がうるさい。


 平日の昼間、大通りをローファーが脱げても構わず全力疾走する女生徒。

 どうしても注目を浴びる行動なのに。

 大通りには、私を見ている人は一人も居なかった。

 一人も居ない。

 誰も、居ない。

 人通りが多いはずの通りには、人っ子一人存在しなかった。


「なんでっ」


 咄嗟にショーウィンドウの向こう側。道に面した店の中を確認する。

 そこに人影はなく、飾られたマネキンだけがポーズを取って此方を見ていた。


「ここはもう彼らの空間。貴方があの非常階段に誘い込まれたときから、表の世界から切り離されていたんですよ」

「なんのこと、どういう…そんな漫画じゃあるまいし」

「ええ! そう! 漫画のように奇想天外、奇々怪々、奇怪千万! しかし事実は小説より奇なり!」


 彼は大仰に手を叩きながら私の基点にぐるりと回り、私の正面で両手を天に掲げた。


「世の中には独特で現実味のない変則的で理に適わない珍しくも奇妙な珍談が溢れているのです!」


 堂々とあやふやなことを叫ぶ男から逃げたい。

 だけどおかしなことは続いていて、後ろを確認すれば先ほどの何かが路地裏から顔を出すところだった。

 遠く離れたつもりだったのに、まだこんなに近い。


 それは長い腕を伸ばし、私が落としたローファーを拾い上げた。

 細い棒きれみたいな指。器用に引っかけ高く高く持ち上げて、大きく開いた口の中にゆっくり落とした。

 不自然なほど大袈裟に、咀嚼するように歪な身体が揺れる。距離があるのにゴクリと嚥下する音が聞こえた気がした。

 べろりと口回りを舐める舌。

 縦長の口が笑う。


「――――……っ!」

「いやはや実にわかりやすい挑発行為!」


 捕食に対する本能的な恐怖に震える私に対し、彼は愉快愉快と笑っていた。ちっとも愉快じゃない。


「逃げ、逃げなきゃ」

「いいえ逃げ場はありやしません。ここは奴らの世界。奴らが生きる世界の裏側。現実と表裏一体、本来なら交わらない境界の先」


 走り出そうとした足が彼の言葉で止まる。彼はふーやれやれと、大きな動作で肩を竦めた。


「わかりやすく言えばこちらからは死んでも出られない部屋です」

「全然わかりやすくない!」


 なんでこいつはこんなに余裕ぶっているのか。やっぱり怪しい。

 獲物を甚振るようにゆっくり近付いてくる存在から逃げたいのに、逃げても無駄など言われてどうしたらいいのかわからなくなる。


「なのに時々こうして裏と表が混ざるときがあります。誰かが不用意に趣味の悪い儀式を通して裏の世界に干渉したりしたときです。今まさにこれがそう。貴方は巻き添え」

「えっ」

「あちらの方は表から熱烈にアピールを受けて、召喚されるかされないかの瀬戸際に居る邪悪なる神(笑)です」

「どこのオカルト宗教組織よ!」


 この科学が発達した社会で邪悪なる神を召喚しようと目論むとか意味が分からない。しかも巻き添えで私がここに居るってどういうこと。彼の証言を信じてはいけないと思いつつ、理不尽な状況に怒鳴り散らしたくて仕方がない。


「オカルト組織もオカルト組織。一代二代三代と、親から子供に役目を繋げる小さいながらに根深い粘着質な信仰を持った選民意識の強いオカルト組織です」

「親から子供に…」

「ええ、彼らは家族ではなく組織! 親が上司で子供が部下! 社員は会社を運営するための歯車であり駒。上に立つものはときに非情な判断をするものです。そう、人件費削減の口減らし。効率化を図って風習を抹消。準備は整わずとも結果を出したいからこそ無理矢理進める突貫工事…勿論結果は伴わず、中途半端で不格好なそれっぽいものだけが出来上がる」


 何の話をしている。


「そう、できるはずがなかった。できるはずがなかったんですよ境界線の向こう側を越えた召喚なんて。彼らはただ信仰を深めていればそれで満足だったはずなのに。だというのに使えない上司が結果を残そうと大奮闘! 結果部下が馬車馬の如く使われて、とうとう手段を選ばなくなり…人身御供、生贄を差し出したわけです」

「まさかそれが私とか言わないわよね?」

「いいえ貴方ではございません!」


 断言されて安堵すればいいのに、いやな予感で手が震える。

 だって、関係のない話をしているようで彼は、今の話をしているはずで。


「生贄は神のもの。存在全てが神のもの。捧げられたら世界から生贄の存在は消失します。貴方はここに存在していますので、生贄ではありません」

「今なんて言った?」

「貴方は生贄ではありません!」

「そこじゃない! ――存在が」

「消失します! 神のモノになりましたので!」


 あの子。

 あの子はどこ。


 ゲラゲラと、それが笑った。


「おーっと何をなさるおつもりで?」


 駆け出そうとした身体は彼に止められる。怒りに似た焦燥で目眩がした。


「放して!」

「いやはや先程まで逃げ一択でしたのに。どうなさいました?」

「皆あの子を忘れてた!」


 どこにもあの子が居ない。

 誰の記憶にも、なんの記録にも残っていない。

 あり得ない。そんなことできるわけがない。

 だけどあの化け物が本当に邪神で、生贄なんてあったのなら。


「あの子が生贄にされたってことでしょう!」


 オカルト宗教組織。

 彼の言葉を信じるなら――親に。

 何も知らない顔をしていたあの子の母親。生贄にした本人ですら、そのことを忘れるというのか。


「やっぱりお知り合いでしたか」

「昨日まで居たのよ。まだ間に合うかもしれな」

「いいえ間に合いません。あの子はもう食べられました」


 喰い気味の断言に、喉が引きつる。

 ゆらゆら揺れる人の形をした化け物は、私を誘うように細長い手を手招いている。


「何を根拠に」

「だってあれは貴方を誘い込んでいますから」


 手招く手招く。

 こっちへおいでと手招く。


「あなたはあの子の最後の一欠片。かの邪神が求める完成へ繋がる最後のピース」


 手招いた手が地面に落ちて。

 それは、不格好な四つん這いになった。


 それが動くより早く、彼は私の手を引いて走り出した。

 先ほどより早い粘着質な音が、私達を追いかけてくる。


「ちなみにあれは倒せません! 曲がりなりにも神なので! 曲がりなりにも神なので! 貴方が近付いた瞬間美味しく一口で丸呑みです!」

「じゃあどうしろって言うのよ!」

「簡単です! 貴方は表の人間なので、表の人間が呼べば出られます。それまで走り回ればよろしい!」

「呼ぶって…」

「遅かれ早かれ出られます。だって貴方学校サボっていますから! 学校からお家の方に連絡が行って、お家の方から連絡が来るでしょう!」


 その言葉とほぼ同時に、無料通話の呼び出し音が響いた。

 だけどそれは私の携帯からではなく、少し遠いところから。咄嗟に携帯を確認すれば通話の画面になっている。だけど音は別の場所から聞こえた。


「ほらほらお呼び出しお呼び出し! 音の鳴る方へ、音の鳴る方へ!」


 目隠し鬼のテンポで歌い出す。電子音の方向へ、走り出す。

 背後から迫ってくる音は遠い。不格好な姿をしたあれは、動きが遅い。

 だけど。


「あの子は」

「あの子はもう間に合いません」

「あの子は、」

「あの子はもう食べられました」

「あの子は!」

「あの子はもう死にました」


 明言されて、足がもつれて転びそうになる。

 それなのに私の手を引く彼は容赦なく走るから、私も走るしかない。


「しんだ」

「消失は死です。生まれたことすら消える悪質な死。いやはや人間はどうしてこうも生贄大好きですかねぇ。古くから近代まで続く因習。探偵が人里離れた村に行けばだいたい因習村。オカルトサイコサスペンス。神を隠れ蓑に事件を起こす人間のなんと多いこと! 神に我が子を捧げるのとどちらが多いですかねぇ無慈悲!」


 我が子を捧げる。

 おぞましさに吐き気がした。


「なんでそんな、宗教だから? 我が子より信仰が大事なの!?」

「いえいえ順番が逆です。生贄にするために産んだのです! 丁度良い生贄が欲しかっただけですね!」

「なによそれ…」

「生まれは誰にも選べません。その子は生まれた場所が悪かったと諦めるしかありません。人はいつだって無理矢理スタート地点に立たされて、親がせっせと整備した道を歩まされるものです。それが楽ですから。それ以外の道がないと洗脳されれば逆らわない。ええその子も逆らわなかった! 生まれてきた役目を全うしたのです!」

「馬鹿げてる!」


 何が生まれてきた役目だ。そんなの勝手な決めつけだ。

 私達は親の為に生まれてきたわけじゃない!


「いえいえ愛だったのかもしれませんね。何せ信者なので。本気で神の花嫁になれば我が子が幸せと思ったかもしれません! 知りませんけど!」

「そんなわけない! 消えることが幸せ!? 消えたら何も残らないのに!」

「ええその通り! 本来なら欠片一つ残さず消滅するはずの神の生贄! 裏と表を繋ぐ禁忌の儀式! 生贄を残らず平らげて、邪神は表に顕現する筈でした! 生贄を残さず平らげたのならば!」


 やけに繰り返された言葉に呆然とする。


「だけど貴方は! 覚えている!」


 彼は声高らかに、心底愉快に謳うように声を張る。


「素晴らしい! これぞ生き物の生存本能! 生贄として育った娘が! 消えたくないとお友達の中で叫んでいる!」


 走っていなければ踊り出しそうな声だった。


「嗚呼素晴らしき哉、思春期の友情! 親兄弟よりも遠いのに肉親より影響されやすい剥き出しの感情が、魂が響き合った青春の日々!」


 携帯を握る手に力が籠もる。電子音はまだ鳴り響いている。


「お喜びなさいお嬢さん! 貴方のお友達は間違いなく生きたいと願った! 消えたくないと叫んだ! そう! 貴方が未練!」


 私に残ったあの子の記憶はあの子の未練。

 友達と明日も笑い合いたいあの子の未練。

 神が取りこぼした。あの子が消えたくないと逃れた欠片。

 神は生贄を残らず食べてないと、表世界に顕現できない。


「貴方があの子を忘れない限り、完全なる消失とは言えません。だから貴方があの子を忘れなければ、邪神は顕現されないのです」

「無理よ!」


 立ち止まる。

 息を切らして、歯を食いしばって、目元を赤く腫らしながら叫んだ。


「だってもう、あの子の顔も名前も思い出せない…!」


 あの子が居ない。

 私の中からも、あの子が消えていく。


「邪神の影響ですねぇ。その為に貴方はここまで誘われた」


 おいでおいでと背後で手招く気配がする。

 もう忘れたあの子の声が聞こえる気がする。


「あれは、貴方から『贄』の記録を吸い取っているんです。貴方に残った最後の欠片。それを吸いきれば『贄』は完全に捧げられ、あれは表世界に顕現できるから」


 そうすりゃ好き放題できるからあれは貴方を追いかけているんだと彼が言う。呆れたように、大仰に肩を竦めて。


「そうしたら、その子は完全に消滅です。貴方のお友達は跡形もなくさようなら。最後の消えたくないという叫びも無駄無駄。なんて小さな断末魔。仔猫の方が激しく鳴きます」

「無駄って言うな!」

「無駄にしたくないなら貴方は表に帰らねば。そう、居ない子を探して誘われぬよう。だけど居た子を忘れぬよう」


 繋いだ手を引っ張られたたらを踏む。つんのめった背中を、彼がぽんと押した。


「邪神に嫌がらせをするためにも、その一欠片を世界に刻んでくださいね!」


 振り返る。


 黄昏れ。

 振り返った先には黄昏が広がり、町中らしい喧噪に溢れていた。

 私は呆然と、茜色に染まった空を見上げる。無料通話の呼び出し音が、握りしめた携帯から響いた。

「お母さん」

『あんた今どこにいるの』

「おかあさん」

『学校から連絡があったのよ。学校を抜け出すなんて何があったの』

「おか、さ」

『…なに? どうしたの?』

「うぁ、」


 私は携帯を握りしめたまま、その場で泣き崩れた。

 何が起きたか説明できず、泣き喚いた。


 それから。

 あの子の家は、借金苦から夜逃げしたらしい。怪しげな宗教に嵌まっていて、その宗教団体に大金を貢いでいたらしいと風の噂で聞いた。


 あの子はやっぱり居なかった。

 もう、私の記憶にしか居なかった。

 顔も名前もわからない。だけど私の友達はこの世界に、日本に、町内に、学校に、クラスに…私の隣に、確かに居た。


 あの怪しげな男と化け物染みた邪神の存在は時間が経てば現実味を失う。今でも時々、全てが私の妄想かもしれないと恐ろしくなるときがある。

 そんなときは曲がり角から、路地裏から、背後から。細長い手が此方へおいでと手招いている様な錯覚を覚える。

 何かが私を誘っている。

 弱い私を笑っている。


 だから、私は描いた。

 拙い絵を。あの子の絵を描き続けた。

 顔の見えないあの子を描き続けた。

 あの子を残す方法が、それしか思いつかなくて。

 あの子を消し去った世界に訴える方法が、それしか思いつかなくて。


 あの子は居たのだ。

 居たのだ。

 居たのだ!


「君、その子ばかり描くね」

「うん」

「テニスをやめて絵を描き出すから何事かと思ったけど…顔わからないけど、同じ子だよね」

「そうよ」

「モデルいるの?」

「ええ…私の、お友達」


 描いて、描いて、描き続けた。


 それから数年。日常を繰り返し、結婚して…。


 おぎゃあ。おぎゃあ。


「奥さん、奥さん…頑張ったね。わかる? 我が子だよ」


 おぎゃあ。おぎゃあ。


「わかる…わかるよ」


 力強く産声を上げる我が子に…生まれてきたあの子に、涙がこぼれた。


「わかる…」


 わかる。あの子だ。

 あの子だ。

 私の中に居た一欠片。

 怪しげな男の、最後の言葉を思い出す。


『その一欠片を世界に刻んでくださいね!』


 ああ、そういうこと…。

 消えたくないと叫んだあの子の未練が。邪神が食べ損ねた生贄の欠片が。私の中で生き続けたあの子が。


 私の中で育って、再び世界に産み落とされた。


 消えてしまったあの子の代わりに、この子が沢山の人に出会って成長して、たくさんの記憶と記録を残していく。

 私が描いた絵より強い影響力で、世界に自分を刻んでいく。

 そうすれば。

 もう、あの邪神は顕現する機会を失う。


 でもそんなことはどうでもいい。


 あの子じゃなくても。あの子だとしても。

 愛したい。この子は何より愛したい、私の子だ。


「うまれてきてくれてありがとう」


 万感の想いを込めて、私と夫は生まれたばかりの我が子の小さな手に触れた。

 今日というこの日、貴方が世界に生まれた始まりの日の幸福を、忘れないように。


(おはよう)


 あの日言えなかったあの子への挨拶を、こっそり胸中で呟いた。



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おはよう こう @kaerunokou

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