スタートテープ

黒姫小旅

走者、横1列に並びました

「位置に着いて、よーい…………ドンッ!」


 ピストルの音に弾かれるようにして走者たちは一斉に飛び出――せなかった。


 スタートラインの直後、およそ腰の高さに張られたテープに行く手を遮られたのだ。

 テープは頑丈なビニル製で、大の男が渾身の力を振り絞っても切ることができない。歯を食い縛り、顔を真っ赤にして一歩前進しても、テープの弾性に負けて後戻りしてしまう。


 つらい。

 やめたい。


 そんな想いが、あるいは脳裏をよぎっているのではないだろうか。

 切れないテープが腹に食い込んで痛々しい。鉛の足枷でもはめられているかのように、筋肉が苦しげに痙攣している。

 せっかく走り出したというのに、こんなに頑張って苦しんでも、一歩も進むことができないのでは、最初から走らない方がマシではないか。


 しかし、彼らは決して諦めようとはしなかった。


「イケイケ、負けるな!」

「テープを切って向こう側へ!」


 応援団が一矢乱れぬダンスと声援を送り、観客も大地を割らんばかりに応援する。

 凄まじい熱気と期待が、走者たちの背中を押していた。

 必ずや先へ進んでいくと信じてくれている大勢の人々のため。共に同じ道を走ろうしている他の走者のため。そして自分自身の望みのために。

 一度足に込めた力を抜くことなどありえない。


「う」

「オオ」

「オオオオおおおおおぉぉぉぉぉ!!!」


 ピリッ


 雄叫びを上げて踏ん張る走者たちの気魄に、とうとうテープの表面に亀裂が入った。

 小さな亀裂。

 しかしそれだけで、複数の素材を重ねた多層ビニルは強靭さを失う。戻ろうとする力が弱まり、押せば押すだけビニルが伸びて、急激な形状変化が生み出す熱エネルギーによって白色・硬化。限界はたちまちに訪れて……――――バチンッ!


 ピストルもかくやという音を立てて、ぶっちぎれた。


 テープの切れた勢いに乗って駆け出す者。いきなり抵抗がゼロになってたたらを踏む者。各々、形に差はあれど、走者は全員が出発を果たした。

 この先にも、様々な苦難が走者たちを待ち受けていることだろう。彼らの走りが良い悪いと評価するのは、まだまだ後の話だ。

 それでも、最初で最大の難所である『スタートを切る』ことができた者たちへ、人々は惜しみない拍手を送るのだった。

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スタートテープ 黒姫小旅 @kurohime_otabi

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