スタートライン

下東 良雄

スタートライン

 暗闇。

 大きな金属の箱。

 俺ひとり。


 狭く暗い箱の中に入り、椅子に座っていた。

 箱には窓がついている。

 しかし、窓の外も真っ暗闇。

 まるであの時の俺の心のようだ。

 俺はゆっくりとまぶたを閉じた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


『令和の韋駄天』


 そんな風に呼ばれていた高校生時代。短距離走者としてインターハイでも好成績を残し、陸上競技の強豪大学への推薦入学も決まっていた。周囲からは「オリンピック間違いなし」なんて言われて、鼻高々だった。


翔琉かけるより速いひとなんてごまんといるんだからね! ほら、練習サボらないの! さっさとスタートラインに戻る!」


 勘違いして調子に乗る前に、俺の天狗の鼻をいつも折ってくれたのは、幼馴染みの佳代かよだった。

 小さな頃からずっと一緒の佳代。同じ小学校、同じ中学校、高校まで同じ学校に進学。陸上部に入った俺をサポートするために、陸上部のマネージャーになってくれた。俺が陸上を頑張ってこれたのは、佳代が二人三脚でサポートし続けてくれたおかげだ。


翔琉かけるだけのマネージャーにはなるなよ」

「先生、無理無理。このふたりはもう夫婦だから」


 顧問の先生や先輩たちにも散々からかわれたが、別に付き合っているわけではない。お互いに意識はしていたが、今のゆるい関係が心地良かったのだ。


翔琉かけるって、まるで飛ぶように走るんだよね。全力疾走する翔琉かける、ホントにカッコイイよ!」


 俺も単純だから、佳代にもっとカッコイイって言ってほしくて、毎日スタートラインから何度も全力疾走していたな。それで最後のインターハイ、一〇〇メートル走で表彰台に上がることができたら、思い切って告白しようなんて、そんな青臭いことを考えていた。


 そんな機会は訪れないのに――


 ある日、俺は信号無視してきた車に跳ねられた。

 幸い命に別状はなかったが、俺は死ななかったことを悔やんだ。


 脊髄損傷による下半身不随。


 俺は二度とスタートラインに立つことができなくなった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 まぶたを開いても、そこは暗闇。金属の箱の中だ。

 あの頃の自分を思い出すと、心臓の鼓動が激しくなる。

 闇が身体にまとわりつくような感覚に陥りながら、俺はもう一度まぶたを閉じた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 毎日続く地獄のリハビリ。しかし、どんなに頑張っても足の機能はほとんど戻らず、移動は車椅子を頼ることになってしまう。


 一方、俺を轢いた車は電柱に激突し、運転手は死亡。後でわかったことだが、飲酒運転の末の事故だった。おまけに任意保険未加入。結果、被疑者死亡のまま書類送検、俺には微々たる賠償金が支払われ、この事故は幕引きとなり、納得いかない気持ちだけが心の中に渦巻いた。

 さらに悪いことは続き、大学の推薦入学も取り消されることになる。


 どこまで行っても光が見えない永遠に続くトンネル。

 どんなにもがいても、闇の沼の中に沈んでいくようだった。


 そんな中、俺に暖かな笑顔を向けてくれたのが佳代だ。


 俺の部屋によく遊びに来てくれた。

 障がい者でも参加できるイベントに誘ってくれた。

 車椅子スポーツを調べて、一緒に見に行ったり、体験したりした。


 ありがたかった。

 本当にありがたかった。


 でも、それは俺にとって、とても大きなプレッシャーになっていた。


 車椅子を押してくれる佳代。

 時には俺を背負うことまでしてくれた佳代。

 排泄のコントロールがうまくいかず、粗相してしまった時でさえ、佳代は嫌な顔ひとつせず対応してくれた。


 好きな女の子にこんなことをさせている罪悪感と、自分ひとりでは何も出来ない情けなさ。そして何よりも、自分が佳代を縛り付けてしまっていることに、俺の心は破裂寸前だった。


 ――クリスマスイブの夜


 クリスマスプレゼントを持って俺の家へ遊びに来た佳代に、俺は真剣な面持ちで言った。


「もうウチには来ないでくれ」


 佳代は驚きの表情を浮かべる。


「え、なんで……」

「その押し付けがましい親切、もうやめてくれ」

「……今まで……ホントは迷惑だった?」


 俺は言ってしまう。


「はっきり言って迷惑だった」


 うつむいてしまった佳代。


「大学で楽しくやれ」


 顔を上げた佳代は泣いていた。

 見たこともないほどの哀しい表情を浮かべながら、佳代は静かに俺の部屋から出ていった。


 いつまでも俺の世話をさせられない。佳代は可愛いし、性格も良い。俺という縛りがなくなれば、きっとカッコイイ彼氏が出来て、楽しい大学生活が送れるだろう。佳代が幸せになってくれれば、それ以上の喜びはない。

 それ以上の喜びはないのに。

 それ以上の喜びはないのに、涙が止まらなかった。


『全力疾走する翔琉かける、ホントにカッコイイよ!』


 二度と言ってもらうことのできない佳代の言葉が頭の中をリフレインする。

 さよなら、佳代。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 改めてまぶたを開き、窓の向こうの暗闇を見つめる。

 よく見ると、ポツリポツリと小さな光をいくつも見つけた。

 まるで星が瞬く夜空のようだ。

 そう、あの時も星が綺麗に瞬いていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 あれから半年。

 佳代とのつながりも切れ、ひとりぼっちだ。

 一歩を踏み出す勇気もなく、生きる意味を見出せないまま、俺は自分の部屋に引きこもっていた。

 もうスタートラインに立つことは完全に諦めたのだ。


 ある日の夜、俺宛の郵便物じゃないかと、母親から大きめの茶封筒を渡された。

 郵便受けに入っていたらしいが、切手や消印もなく、直接郵便受けに入れられたものらしい。

 その怪しい茶封筒の中には、透明のCDケースが入っており、真っ白なラベルにマジックで『DVD』と書かれたディスクが収められていた。ラベルには他にも『AXCR2023』と書かれている。


 俺はその字に見覚えがあった。

 佳代の字だ。


 おそらくDVDビデオであろうと、再生できるゲーム機にディスクを入れ、再生ボタンを押した。確かにDVDビデオではあったのだが……


「……なんで佳代はこんなビデオを送ってきたんだ? そもそも、佳代ってこういうのが好きだったのかな?」


 映像を見る限りでは、どうやら動画のデータをDVDに焼いたものらしかった。佳代が撮影したわけではないが、佳代が編集した手作りのDVDビデオということだ。


 ビデオを見続ける俺。

 十五分ほど経過し、ビデオの最後は表彰台のシーンだった。

 テレビに映し出されたのは――


「……えっ……あっ……あーっ!……これって!」


 俺は最後の映像を目にした瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。

 そして、その映像に佳代からのメッセージを感じ取る。

 佳代とのつながりは切れていない。

 佳代は、ずっと俺のことを心配してくれていたのだ。


 俺は慌ててスマートフォンを手にして、佳代にメッセージを送った。


『会いたい』


 メッセージはすぐに既読となり、返信が来た。


『公園で待ってる』


 俺は車椅子を走らせ、急いで夜の公園に向かう。

 そこには、背を向けた佳代が待っていた。


「佳代、ビデオありがとう」

「…………」


 背を向けたままの佳代。


「……ねぇ、翔琉かける。私、本当に迷惑だった?」

「……いや」

「私のこと、嫌いだった?」

「そんなわけ……」

「じゃあ、何であんなこと言ったの?」

「……佳代に……俺の世話をさせるのが……申し訳なくて……」

「……翔琉かける、私の気持ち、知ってるよね?」

「…………」


 俯いて何も言えない俺に、振り向いた佳代は涙をこぼしながら叫んだ。


「私の『好き』を馬鹿にしないで!」

「佳代……」

「ねぇ、翔琉かけるはどうしたい? どう生きたい?」

「俺は……走りたい」


 俺は佳代の眼を見つめながら答えた。そして――


「その姿を佳代に近くで見ていてほしい」


 目に涙を溜めたまま、にっこり微笑む佳代。


言質げんち取ったからね! もう離れないわよ!」

「俺、全力で走るよ!」

「全力疾走する翔琉かける、ホントにカッコイイもんね!」


 佳代は俺に抱きついてきた。

 俺もそれに答えるように、佳代を強く強く抱きしめる。


 もうすぐ夏だというのに、この日の夜は涼しく、空には星が綺麗に瞬いていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 コン コン


 まぶたを開けると、暗闇の中、右側の窓を外から見知った男がノックしている。俺は窓を開け、そいつに顔を向けた。


翔琉かける、時間だ。準備はいいか?」

「あぁ、大丈夫だ」

「よし、いくぞ」


 視線を前に戻すと、目の前の暗闇が切り裂かれるように晴れていく。

 艶めかしい真紅の体躯。

 俺を高みへ導く鋼鉄はがねの獣。

 外から射す光を浴び、金属の箱の真の姿が浮かび上がる。


 さぁ、俺の時間だ。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ――信州中央テレビ 生中継


 テレビには、ふたりの男性が映し出されている。


「解説の山下さん、今回日本では珍しいコース設定ですね」

「そうですね、クローズドコースであることはこれまで通りですが、今回は一般の生活道路までコースに加えています」

「海外ではよくあるようですが、日本では珍しいですね」

「はい、今回は地元の方々の協力がなければ実現しませんでしたね」

「やはり日本人選手が出場するというのも大きいでしょうか」

「その通りですね。しかも、海外で大活躍している選手ですし、今回もクラス優勝を狙っているようです」


 テレビ中継のマイクが観衆の大きな歓声をとらえる。


「おぉっと、この盛り上がりは!」

「丁度今、話があがっていた翔琉かける選手ですね」


 広場に設置された大きな黒いテントをカメラが映し出した。

 そのテントの入口がゆっくりとめくり上げられていく。

 野獣の咆哮のようなエキゾーストノートが響き渡り、アンチラグシステムによるバックファイアが信州の山々にこだまする。

 赤いボディがゆっくりと道路へと進み出し、観客の歓声がさらに大きなものになっていく。


 エアロパーツで武装した真紅の三菱ランサーエボリューション6。

 ドライバーズシートには翔琉かけるの姿があった。


 アナウンサーも興奮した様子だ。


「さぁ、ついに『令和の韋駄天』の登場です! 日本の誇る車椅子の最速ヒルクライマー! 毎回凄まじい走りを見せる佐々木ささき翔琉かける選手! 出場するのは『クラスS』ですから、ほぼ改造無制限のクラスですよね」

「はい、このクラスはライバルであるスウェーデンのビョルン選手がいますからね。そう簡単に優勝はできないと思いますよ」

「ビョルン選手は先程凄いタイムを出しましたが……」

翔琉かける選手のランエボ(ランサーエボリューションの略称)も足回りの熟成が進み、エンジンの方も700馬力近くを叩き出すモンスターマシンです」

「700馬力! まさしくモンスターですね……」

翔琉かける選手の走りに注目しましょう」


 カメラが翔琉かけるをアップで映し出す。


「ところで山下さん、翔琉かける選手は元々陸上の短距離走者だったらしいですが」

「はい、交通事故で障がいを負い、車椅子を使うようになったそうです」

「そんな彼がなぜヒルクライム(公道を使った主に上り坂でコース構成されたレース)の世界に……」

「あるビデオを見たことがきっかけになったらしいです」

「ビデオ?」

「『AXCR2023』、笠原アナならこれで分かるんじゃないですか?」

「あぁ! なるほど『アジアクロスカントリーラリー』ですね! 総行程二千キロを超える国際ラリー!」

「はい、その通りです。そして2023年と言えば……」

「青木拓磨選手が優勝した年ですね! 青木選手も……」

「さすが笠原アナですね。青木選手も車椅子のレーサーです」

「ハンデ無しで戦ったレースとしては、車椅子のレーサーが優勝した世界初のレースだったとか」

「青木選手は、障がいというハンデがあっても、対等に他のレーサーと戦えることを証明しました。翔琉かける選手もそこに惹かれたようです」

「ただ、『アジアクロスカントリーラリー』は、パリ・ダカールラリーと同じくラリーレイド(過酷な自然環境の中、超長距離を数日間かけて走破するラリー)ですから、このヒルクライムとはかなりレースとしての色が違いますよね」

翔琉かける選手は、元々短距離走の選手とのことですから、短い距離をスピード勝負で駆け抜けるというのがピッタリはまったのかもしれませんね。また、テクニカルなコースが多いですから、腕と車のセッティング次第で上位に食い込めるところも魅力だったのでしょう」

「なるほど、なるほど、そういうことでしたか。さぁ、翔琉かける選手がスタートラインにつきました。まもなくスタートです!」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 俺はまたスタートラインに立つことができた。

 資金の調達、パーツの開発、海外遠征……とにかく大変なことが多かったが、佳代がサポートしてくれたし、何よりも佳代の笑顔が見たくて、がむしゃらに頑張ってきた。

 海外ではそれなりに実績も残せて、賞金も得られるようになった。おかげでスポンサーやパーツ開発の協力企業もつきやすくなり、今は本当に良いサイクルが回り始めている。


 そして、ここ日本でのヒルクライム。

 俺にはどうしても負けられない理由がある。

 ビョルン? あんなヤツ、どうでもいい。


 俺はレース前に佳代へプロポーズした。

 佳代はこう答えた。


「ゴールで返事する。だから、誰よりも早く私のところに来て」


 俺は笑顔で了承し、それを約束した。

 マシンは絶好調。ビョルンのタイムから3秒は縮めてやる。


 スターターがマシンの前に来て、スタートラインまで進むように合図を出した。

 スタートラインに車を止めると、陸上をやっていた頃のあの緊張感が蘇ってくる。


 人生はスタートとゴールの連続だ。

 ゴールは新たなスタートラインとも言える。

 俺は誰よりも早くゴールを駆け抜け、佳代とのスタートラインに立つ。

 そこから新しいゴールまでの道のりは長く、きっとトラブルだって沢山抱えることになるだろう。

 それでも佳代となら乗り切っていける。

 俺が佳代を幸せにするんだ。

 佳代を幸せにできるのは俺だけだ。


 マシンの前で、スターターが右側に設置されたスタートシグナルを指差す。

 今は赤だが、青がスタートの合図だ。

 俺が軽く頷くと、スターターは脇に避けた。

 スタート直前、コントロールグリップを手前にゆっくりと引いていく。

 タコメーターの針が徐々に上がり、エンジンが唸りを上げる。


『全力疾走する翔琉かける、ホントにカッコイイよ!』


 佳代、オマエに一番カッコイイ俺を見せてやるよ。


 スタートシグナルが青に変わる。

 咆哮を上げる真紅のランサーエボリューション6。


 佳代とのスタートラインを目指し、俺はヒルクライムのスタートラインを切った。






−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

<作者注>


ヒルクライムと言っても想像しずらいかもしれませんね。

参考までにレバノンで開催されたヒルクライムの動画をご紹介します。

生活道路をコースへ大胆に組み入れている大迫力のレースです。

日本国内ですと、峠道を封鎖したコースで行われることが多いようですね。

ちなみに、下記の動画で登場する車が「三菱ランサーエボリューション6」です。

https://www.youtube.com/watch?v=iSI7Uau3dd0

https://www.youtube.com/watch?v=hw0KCSZ_ORw


AXCR(アジアクロスカントリーラリー)のくだりは、実話です。

二輪の事故による下半身不随、四輪への転向、障がい者への理解に乏しかったレース界での苦悩……それでもスタートラインに立つことを諦めなかった青木拓磨選手は、14回目の挑戦でAXCRの総合優勝を手にしました。まさしく不屈の精神の賜物と言えるでしょう。

青木拓磨選手の活躍にご興味のある方は、コチラの動画をご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=BtASuT1rup8



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スタートライン 下東 良雄 @Helianthus

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画