病んでる初詣

海沈生物

第1話

 日常は平凡だ。同じ時間に起き、同じ仕事をして、同じ時間に寝る。クリスマスも大晦日も同様である。この変化に乏しい日常を過ごす事は生き地獄である。今の幸せは偶然の下で成り立っているものでしかない。


 例えば大病を患えば、一瞬にして今の幸せは崩壊する。妹以外の家族とは不仲から絶縁してしまったし、その妹も来年には結婚すると連絡が来た。孤独なのはただ一人、私だけである。いつか不幸が来るかもしれないという閉塞感が常に心に巣食っている。妹の結婚することを知ってからは、その気持ちはより深まった。それはまるで、何もない無限の暗闇を一人で歩いているようなものだ。


 いっそ、破滅できたらどれほど楽だろうか。企業からの採用連絡を待っている時のような、もう「不採用」の文字を見て楽になりたいような。そんなブルーな気持ちに浸っていた。


 だから、結婚報告ぶりに妹の真から「初詣に行かない?」と誘われた時、そんな日常を変える「何か」があると期待した。道徳の教科書に載っていそうな「輝かしい未来のスタート」を切れる気がした。


 真夜中の神社は、数年前に大学のゼミ仲間と来た時と変わらずに混んでいた。それにしても、無神論者が大量に押しかけている光景は何度見ても異様である。これが世界で最も愚かな人民が住む国か、とSNSで妙な境地に至った人間のように思う。


「はぁ」


 吐き出した白い息が真っ暗な冬空に溶けていく。早く「輝かしい未来のスタート」を切りたい。閉塞感しかない人生を変えてくれる人物に出会いたい。手首にあるほくろを眺めながら期待していると、不意に丁寧なネイルが施された爪を持つ手が私を掴んだ。まさか、ついに来たのか。私の日常を変える「何か」が。心拍数が跳ね上がり、ヒートショックで死ぬのではないかと思った。


 だが、三秒後に冷静になった。違う、このネイルのある手は。


「秋姉ちゃんさぁ。今絶対に”涼宮ハルヒみたいな、自分の人生をめちゃくちゃにかき乱してくれる相手が来た!”とか思っていたでしょ」


「……お、思ってないが!?」


「嘘ついても無駄だよ。さっきから自分の口で全部言っていたから」


「えっ、えっ、えっ。嘘だよね? そ、そんなことは……」


「もちろん嘘だよ。嘘であることが嘘であり、嘘だよっ」


 一体嘘なのか真実なのか、どっちなんだ。「嘘であることが嘘で、それがまた噓だから……」と頭をこんがらがらせていると、真は以前会った時と変わらない、悪意の籠った笑みを見せた。ほんまこいつ。


 けれど、彼女はもう来年には「既婚者」である。世間一般の「普通」を手に入れる彼女の笑みの奥には、なんだか「お前とは違う」という侮蔑があるように思えて仕方なかった。……これ、鬱の初期症状だろうか。早めに精神科の受診をした方が良いのではないか。いやしかし、それで「鬱」と診断されて仕事を失ったのなら。それこそ、今の束の間の幸せすら失うのではないか。


 心に浮かぶよしなしことに頭を抱えていると、真が掴んでいた手をギュッと握り絞めてきた。


「はいはい、ブルーにならブルーにならない。秋姉ちゃんはどうでもいいことを拡大解釈してすぐ自分を思い詰めるんだから。ほらほら、さっさと行くよ?」


 「どこへ?」という質問をする前に真は前を向くと、私の手を引っ張って、参拝のために訪れた人々の列の隙間を駆け抜けていく。普段デスクワークばかりで体力が学生時代の半分もない私は、推定百段はある神社の階段を猛スピードで駆け上がらせられていく。こんなきららアニメみたいな展開、現実にあることあるんだ。問題は目の前の妹は近親者であるし、そこに恋愛的な文脈を持ち込むとインモラルすぎることだが。まぁでも、恋愛だけが関係性の全てではないし。云々。


 階段の上まで着く頃には、そんなネガティブ思考などしている暇がない程にボロボロだった。息を、酸素を、酸素注入器が切実に欲しい。死ぬ。周囲の人々による喧噪のやかましさに軽く舌打ちをしながら肩で息をしていると、真は「あ!」と言って突然手を振り払った。喧噪に紛れて「ト…………くる! ……で…………て!」と叫ぶと、そのまま姉を置いて、人だかりの中に消えていった。


 一人取り残された私は一旦、人気のないヒノキの木陰に避難する。幼い頃に真と二人で両親とはぐれた時も、このヒノキの木の下で縮こまっていたっけ。けれど、今は名実共に一人である。


 ……本当に。良い歳をした大人が結婚もせずに一人でこんな場所に座り込んで、一体何をしているのだろう。散々嫌っていたはずの時代錯誤なことを考えながら、神社のライトアップに照らし出された人々に目を細める。


 都合の良い「輝かしい未来のスタート」など、大晦日に参拝しに来るだけ手に入るわけがない。きららアニメの主人公どころかモブにすらなれない。自分の手を引っ張って日常の閉塞感の外に連れ出してくれる相手など、いるわけがない。胸に詰まった鬱屈とした空気を吐き出すようにして、肺の奥から「はぁ」と白い息を漏らす。


「「タバコ、吸いたいなー……」」


「「……え?」」


 背後から聞こえてきた声にピクリと背中を震わせる。恐る恐る背後を見ると、金髪の女が座り込んでいた。鼻から舌までびっしりと金色のピアスを付けていて、テンプレートで作ったようなヤンキー顔をしている。いかにも「やさぐれています!」というタイプだ。幼い頃からヤンキーとあまり縁がなかった私の心に緊張が走る。


「あ、あの……」


「なに?」


「……なんでもないです」


「なんにもないなら、声かけないだろ。何か用事あるんじゃないのか? 何?」


 今すぐに帰りたい。真に「お姉ちゃん、先帰るわ」とラインだけして、今すぐに帰宅したい。「変なこと言ってすいませんでした!」と言って逃げ出したい。だが、逃げ出すことはできない。恐怖から足がすくんで動くことができないのだ。


 私は迫り来る現実に息の仕方すら忘れそうになる。もう無理だ。私はライオンを前にして死を覚悟したシマウマのように、目を瞑った。絶対胸ぐら掴まれて、奥歯をガタガタされるまでボコボコにされるんだ。


 だが、そんな覚悟をした瞬間のことだ。周囲から「ハッピーニューイヤー!」と叫ぶ声が聞こえてきた。喧噪が周囲の空気を明るく包み込み、私とヤンキー女はその光景を暗い木の陰から恍惚とした目で見つめていた。その時、確信した。私と彼女は「同じ」であると。彼女も私と同じ、暗闇の中を一人で歩く人間であると。


 私はふっと息を漏らすと、彼女の赤いアイコンタクトが入った目を見る。


「あの……一緒に、おみくじ引きにいきませんか?」


 深い意味はなかった。ただ、同じ彼女と一緒に話す理由が欲しかっただけだった。ヤンキー女は突然の誘いに少し困惑した顔をしていたが、私がプルプルと身体を震わせているのを見ると、不意に柔らかい表情を見せた。


「いいぜ。その……今日会う予定だった”ダチ”とはぐれて暇だし、良い暇つぶしになると思うからな」


 ヤンキー女はひょいっと立ち上がると、私に手を伸ばすことなく、とぼとぼとおみくじを売っている場所へと歩いていく。それはきららアニメのようにロマンティックではないが、その素っ気なさがかえって良かった。私もひょいっと立ち上がると、その背中を追いかける。


 おみくじ売り場に来ると、さっさと三百円を払っておみくじを引く。以前引いた時はシャカシャカと鳴る筒から出た棒の番号によっておみくじをもらっていたが、コロナの関係なのか、板の上にある折り畳まれたおみくじを一枚取り上げるだけの質素なものとなっていた。少し寂しさを感じながら木の陰に戻ると、一息ついた。


「久しぶりに初詣ってやつに来たんだが、今はこんなに変わっているんだな」


「感染対策っていうのもあると思うけど、いちいち筒から番号を引いてもらうより、ああやってお客さんに手で取って貰う方が無駄な労力が減るからだと思いますね」


「それは……どこも人手不足だからか?」


「多分そうですね。それと、巫女自体が不人気なのではないかと。こんな夜遅くから寒い中で、あんなぺらっぺらの装束で接客しないといけませんし。ヒートテックを下に着ても寒そうですからね。だからこそ、少しでも労力を減らすことで、学生バイトに来てもらいやすくしたいんじゃないですかね」


「あー……そうかもなぁ」


 彼女のぼんやりとした声を聞きながら、紙を破らないように細心の注意を払い、二人同時におみくじを開く。前にゼミ仲間と来た時は「吉」だったが、如何に。


 だが、期待に反してそこに書かれていたのは「凶」という一文字だった。仕事運もゴミ、恋愛運もゴミ、何から何まで上手くいかない年であると書かれていた。「トホホ……」という顔で落ち込んでいると、隣のヤンキー女から溜息が聞こえてきた。


「どうでした、おみくじの結果?」


 彼女は無言で開いたおみくじを見せてくる。そこに書かれていたのは「凶」という一文字であった。それも、私のものと番号まで同じである。その瞬間、つい破顔してしまった。なぜツボに入ったのか分からない。けれど、ピアスをバチバチに開けているヤンキー女が、「凶」を持っているシュールさが妙に刺さったのだ。


 こんなに笑ったのなんて何年ぶりだろうか、と思うぐらい笑った。笑って笑って、周囲の人間から「えっ、怖……」とドン引きされるぐらいに笑った。喧噪や明るさなんて気にならなくなっていた。


 彼女は私がツボにハマった姿に少し不服そうにしながら、私のおみくじの結果をチラ見して「なるほど」と苦笑いを浮かべた。小一時間笑った末、なんとかツボから抜け出すと、彼女は呆れた顔で私を見下ろしていた。


「お前、思っていたより笑うんだな」


「ふひひ……逆に笑わない人間だと思っていたんですか?」


「いやだって、ケヤキの木の陰で今すぐにロープを首にかけて死にそうな顔をしてた人間が、壊れたおもちゃみたいにゲラゲラ笑うなんて普通思うか?」


 あまりそんな顔をしていた気はしないのだが、どうやらそういう顔になっていたらしい。スマホに自分の顔を映して「そうかなぁ」と見ていると、不意に黒い画面に見覚えのある顔が映った。次の瞬間、背後から「いたぁ!」と叫ぶ声がする。振り返ると、そこには息をぜぇはぁと吐く真の姿があった。


「トイレ行くから待ってて言ったのに、なんでこんな変な所に来ているの!?」


「言ってた?」


「言ってたよ! もう!」


 真はパシパシと背中を叩いてくるのに「痛い痛い」と痛がっていると、目の前のヤンキー女は苦笑いした。


「もしかして、ま……妹さんか?」


「あー……うん。一緒に初詣に来た相手。妹なんだ」


 ヤンキー女は私と真の顔を交互に見ると、ふむふむと「何か」を得心したように首を上下に揺らした。そうして鳴ってもいないスマホを一瞥すると、のっそりと立ち上がる。


「おっと。こっちも”ダチ”から”今どこにいる?”って連絡が来たみたいだ。……それじゃあ


 あれ。名前、教えたっけ。私が小首を傾げながら彼女を見送っていると、真は「あっかんべー!」と子どものようなことをしていた。もしかして、彼女と「友達」なのだろうか。それで知っていた、とかなのか。疑問に思いながらも、多分今聞くとキレられそうなのでやめておいた。代わりに真の手をギュッと握ってあげると、彼女はニコニコと満足げな笑みを見せる。自分の妹ながら、本当にちょろいなと思う。


「……真、一緒におみくじ引きに行こっか」


「えー! 寒いしもう帰ろうよー」


「文句言わない。真の分も社会人権限で奢ってあげるから……ね?」


 真は不服そうにしながらも「……分かった」と返事をしてくれる。その姿にニコニコと笑みを浮かべると、こっそり手の中にある「凶」のおみくじをポケットの奥に押し込んだ。これは「同じ」者がいることの証だ。私と同じ、暗闇の中を歩くことに苦悩する人間がいることの印だ。それだけで、私はもう十分だった。


 今度は私が真を先導すると、もう一度おみくじを引きに向かった。

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