額から血を流したお婆ちゃんが倒れている

紫陽_凛

全てのスタート

 もう10年以上も前の話になる。大学生の時分、当時の彼氏とデートした帰り道のこと。

 先に書いた通り10年以上前だからもうほとんど記憶にないんだけど、わたしはゲーセンで獲得したぬいぐるみをビニール袋に入れて背負っていたし、お気に入りの白いスカートを履いていた。で、徒歩でほぼ同棲していた彼氏の家に帰るところだった。


 虫が大の苦手な彼だ。そんでもって、家が雨漏りしているのにもどうしようもなく耐えられない彼だ。好き嫌いも多いし(自認しているらしい)まるで胡蝶蘭みたいな男だと思っていた。手がかかるし、外部からの刺激に弱すぎる。


 だから、血まみれのお婆ちゃんを見た時に咄嗟に「こいつにだけは見せちゃなんねえ」と思った。


 血まみれのお婆ちゃんはたまたま居合わせた生協のおばちゃんに助け起こされていた。額が文字通りえぐれていた。降った雨が災いして滑って転んで……打ちどころが悪かったらしく見えちゃいけないものが見えていた。柔らかくいうと顔が血まみれだ。


「助けて! 救急車呼んで!」


 おばちゃんはめちゃくちゃ助けを求めていたし、彼氏もわたしもそれを無視するような性分ではなかった。私は彼氏が何かをいうより先に指示した。


「救急車呼んで」


 その日、運が悪いことに私は携帯を忘れていた。


 住所がわからないという彼に電柱の住所を指し示し、これを目安に呼んでくれ頼むと言った。ここで自分より背の高い男にぶっ倒れられても困る。支えられない。血まみれのお婆ちゃんを支えることはできても彼氏まで支えることはできない。



 頭の中はそれでいっぱいだった。生協のおばちゃんはお婆ちゃんと知り合いらしかったのでお婆ちゃんの家族に連絡をとっていた。彼氏は初めての119番に夢中でこっちをみない。

 私はお婆ちゃんが傷口に触れないようにさりげなく手を押さえていた。

 血まみれお婆ちゃんは自分が血まみれだということはわかるけれど額がえぐれていることまではわからないので(鏡なんか見せられないし)、顔を拭いたい拭わせてくれとしきりに私に頼んだが、そんなことしたら額がアレしてしまう、私はありとあらゆる言葉をつかってお婆ちゃんを止めた。


 今救急車来るからね〜、触らない方がいいよ〜。


 内心白いスカートが汚れなきゃいいけど、とか、見えてるもんとスカートの色が同じなんだけど、とか考えてたら(そこはよく覚えている)、よりにもよって彼氏が寄ってきた。(今思えば、119番で傷口の具合を聞かれていたんだと思う)

 うわやめろこっちくんな。


 私の心配通りというか──見にきた「胡蝶蘭みたいな」彼氏はさあっと青くなって目をぐるんと回した。人の顔色があんなに面白いくらい変わる瞬間を私は知らないし初めて見た気がする。顔色が変わるってこういうことなんだ。小説に出そう。……なんてことは後になってから思うことであって。

「ウッ」

 反射でデカい声が出た。


「だから見るなって言ったべ!?!?!?」


 いや言ってないし。言ってないけど。心の中では何回も見るな見るな倒れるなって言ってたから許してほしい。

 彼氏は倒れる寸前の人になって通報を続けた。お婆ちゃんはきょとんとしていた。


 彼氏の奮闘で無事救急車が呼ばれ、適切な処置を受けたお婆ちゃんは病院に搬送されて行った。残されたのはふらっふらの彼氏と、くったくたのおばちゃんと、同じく精神的にめっちゃ疲れた私だけである。


 災難だね、無事だといいね、と言いながら帰り道に戻る私たち。私の頭の中には確信めいた考えが浮かんでいた。


──この人、私が支えなきゃほんとにダメなんじゃないか……?


 私が彼氏との将来を本気で考えたのは多分この時で、この日こそが全てのはじまりだったんだと思う。



 後日。家族にその話をしたらしい彼氏に「その彼女、手放すなって言われたよ」と言われ、やっぱりなぁと思いながら……。


 10年後、彼氏は旦那になって今も私の隣にいる。

 やっぱり胡蝶蘭みたいに、扱いのむずかしい男として。



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