Never Starting Story

澤田慎梧

Never Starting Story

 ある朝、澤田●梧が寝苦しさから目覚めると、自分がバランスチェアに座ったまま眠っていたことに気付いた。


「……うわ。我ながら、よくひっくり返らなかったな」


 バランスチェアは「ニーリングチェア」とも呼ばれ、膝立ちに近い姿勢で座る椅子だ。背もたれがない物も多く、バランスを取りながら座る必要があるので姿勢が良くなる……とされている。

 必然、座りながら眠れるような代物ではない。眠っている間に転倒しなかったのは、ただ単に運が良かっただけだろう。


「昨夜はカクヨムコンの原稿書いて、そのまま寝落ちしたんだっけ?」


 ぶつぶつと独り言を言いながら、デスクの上のパソコンを見やる。どうやら数時間ほど操作していなかったらしく、愛用のノートパソコンは待機モードになっていた。


「原稿を完成させたところまでは覚えてるんだけどな」


 昨晩は夜更かしして、カクヨムコン向けの短編を執筆していた。カクヨム運営から出された「スタート」というお題に沿った小説だ。

 「こんな短い期間で書けるか!」等とぼやきながらも、パソコンと向かい合ってからは何かに導かれるように指がタイピングを始め、気付けば傑作の予感さえ漂っていた。

 俗にいう「ゾーン」に入っていたのかもしれない。


「これで保存されてなかったら憤死ものだなぁ」


 ポチリと電源ボタンを押して、待機モードを解除する。

 澤田の使っているテキストエディターは自動保存機能も付いているので、「保存されていない」等という悲劇はまず起こらない。

 寝ぼけて「元に戻す」を連打して原稿を白紙にしてしまっても、編集履歴から復元が可能だ。


 原稿の保存場所もクラウド連携しているフォルダなので、まさかの時のバックアップも万全。まさに隙のない執筆環境というやつだった。

 だが――。


「ほ、ほえ?」


 復帰した画面を見て、澤田の口から情けない鳴き声が漏れる。

 果たして、画面上にテキストエディターは起動したままだった。だが、エディターの画面は真っ白。編集履歴を辿ろうとしても、履歴は空。

 つまり、完全なる「新しいテキスト ドキュメント.txt」状態だった。


「え、ええーっ!? 昨晩執筆した世紀の名作はいずこに!? Where?どこ? ¿Donde?どこ?


 錯乱して言語中枢をバグらせながら、パソコン内のファイルを検索する。何かのきっかけでファイルが破損してゴミファイル扱いになっている可能性も考え、作成日時順でパソコン内のファイルを一覧してみるが――無い。

 ない、ない、ない。昨晩作成したはずのファイルは、どこにも見当たらなかった。


「嘘、だろ? あんなに頑張って書いたのに。どこにも保存されてないなんて……あり得ない」


 念の為、クラウド上のファイルも漁ってみるが、当然見当たらない。

 「世紀の名作」は「幻の名作」になってしまったようだ。


「あれ? なんかファイルの日付がおかしいぞ? 最新のファイルの更新日が、昨日のままだ」


 現在は一夜明けて二〇二四年一月十二日のはずだった。

 だが、パソコン内のものもクラウド上のものも、最新のファイルの日付は十一日のままだ。原稿のファイル以外にも、日付が変わってから更新したものがあったはずなので、これはおかしい。

  ――と。


「……パソコンの日付が十一日のままだぞ? これ、丸一日ロールバックでもしちゃったか?」


 誤作動か何かでパソコンの状態が昨日の朝まで戻っていたとしたら、もうお手上げだ。ファイル復元ソフトを使っても、原稿をサルベージできない可能性が高い。


「マジかぁ……」


 絶望で頭が真っ白になる。

 今までも、ファイルが破損したり間違えて上書きしたりで、原稿の一部を消してしまったことはあった。

 だが、今回は丸ごとだ。痕跡すらもない。もう、どうしようもなかった。


「いや、待て。内容は頭の中にあるはずなんだ。落ち着いて思い出して、書き直せばいいんだ……」


 そう自分に言い聞かせながら、気を紛らわせる為に傍らのテレビの電源を入れる。

 ちょうど、公共放送の朝のニュースが始まる時間だった。


『おはようございます。、朝のニュースです』

「……え?」


 テレビから流れてきた男性アナウンサーの言葉にギョッとする。

 「まさか」と思いながら、デスクに伏せてあったスマホの画面をオンにすると――。


「マ、マジか!?」


 そこに表示されていた日付は、「二〇二四年一月十一日」だった。


「時を遡った? ……いやいや」


 一人寂しいツッコミをしながら、テレビのチャンネルを変えていく。だが、どのチャンネルを見ても日付は十一日のままだ。


「まさか、本当に……?」


 独り言ちるが、確信は持てない。

 何故ならば、実は先ほどから十一日、即ち。力を入れて執筆したはずの「名作」の内容さえ、薄いベールの向こう側にあるかのようにはっきりしない。

 テレビから流れてくるニュースにも奇妙な既視感は覚えるものの、はっきりとしたものではない。


「夢でも、見てたのかな?」


 結局その日は、モヤモヤとした気持ちを抱えたままで何も手につかず、やがて夜が来た――。


「……さて」


 再びパソコンと向き合い、テキストエディターを開く。

 最早ほとんど思い出せなくなった「昨晩の記憶」では、パソコンと向かい合った途端、何かに導かれるように指がタイピングを始め、傑作の予感さえ漂う作品を書き上げたはずだった。


 ――果たして、指は記憶をなぞるように滑らかなタイピングを始め、テキストエディターの空白を埋め始めた。

 頭の中には「スタート」をお題にした短編小説のプロットが、始まりから終わりまで鮮やかに浮かび、それを形にする為の文章が紡がれていく。


「よし。ここからが本当のスタートだ」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 きっと今朝の出来事は勘違いなのだと、澤田は自分に言い聞かせ始めていた。

 思えば今までにも、原稿に追われ睡眠不足が続いた際には、似たような出来事がよくあったはずだった。夢の中でも原稿を書き続け、朝起きた時に「昨晩書いた原稿がない!」と大騒ぎしたこともあったではないか。


 恐らく、今回もその類の現象だったのだろう。


「全く。こんなに自分を追い込まなきゃ書けないんだから、情けないよね」


 独り自嘲しながらも、タイピングの手は止まらない。

 やがて澤田は、「近年まれにみる傑作」を無事に書き上げていた――。


   ***


 そして翌朝。

 澤田●梧が寝苦しさから目覚めると、自分がバランスチェアに座ったまま眠っていたことに気付いた。


「……うわ。我ながら、よくひっくり返らなかったな――」



(Never Starting)



※所々、実話です


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