僕が死ぬまで

神月 葵

第1話

暗い部屋に男が1人、床にだらしなく座っていた。

目は虚ろ、無精髭が生え、服は薄汚れている。何日も風呂に入っていないらしい。

完全に男は生ける屍と化していた。

けれど、それも仕方の無いことであった。何故ならば、男が溺愛していた妻が死んでしまったからである。

交通事故だった。

男は大切な存在を失い、最早現実などどうでも良くなっていた。


あるとき、男の目の前に女が現れた。それは美しい女だった。男はそちらに目をやった。そしてその女を見て、声を上げた。

「美優……!」

男の前に現れたのは亡くなったはずの妻だった。

名前を呼ばれた女は嬉しそうに笑った。そのまま男の手を取って、扉の方へ歩き出す。

半ば引っ張られるようにして踏み出した、その瞬間。男の視界は薄暗い部屋から光の射す花畑へと変化した。

目を見開く男を見て、女はくすくすと笑った。

「貴明さんってば、驚きすぎよ。……ねえ、わたくし、貴方を連れて行きたい場所があるの。良いかしら」

「ああ、ああ。勿論だ。お前が連れて行ってくれるのなら何処へでも行ってやる」

男は握られている手を強く握り返し、そう言った。

それを聞いた女は柔らかく目を細め、上機嫌で花畑を歩み始めた。

しばらくして、女が口を開いた。

「わたくしね、貴明さんのことがずっと心配だったのよ」

「僕のことが?」

「ええ。だって、わたくしのことをあんなにも愛してくれたから。気が滅入ってないかって不安だったのよ」

「まあ確かにこんな有様だが。今はお前が隣にいるんだ。大丈夫さ」

安心させるように男は笑う。女はそうかしら、とまだ心配そうに眉間に皺を寄せた。


そうしてまたしばらくすると、今度は男から話しかけた。

「おや、向こうの方に川があるじゃあないか。お前が言っていたのはこれかい?」

女は首を振った。

「いいえ、ここじゃあないわ。でもね、あの川を渡った先にあるのよ」

そう言って女は駆け出した。男がそれにびっくりしている間に女は向こう岸へ渡ってしまった。

「貴明さん、こっちよ。その飛石を使って渡ってきて」

「わかった、今行くよ」

女の元へ向かおうと1つ目の飛石に足を置いた途端、何かに突き飛ばされ後ろへと倒れた。

何だと顔をあげると、先程男が足を置いた飛石のところに、さっきまで向こう岸にいたはずの女がいた。瓜二つの女が向こう岸と飛石のところに立っている。

混乱する男に女は声を掛けた。

「突き飛ばしてごめんなさい。でも、貴方はまだこっちに来ては駄目なの」

「こっちとは何のことだ?それに、何故お前が2人いる?」

女は申し訳無さそうに目を伏せた。

「この川はね、所謂三途の川なの。貴明さんはまだ生きているのに、ここを渡ったら死んでしまうわ」

死ぬと聞かされた男は、思わず自分は救われたのだ、と考えてしまった。

元気な妻の姿を見たとき、これは幻だと男は悟っていた。いくら此処で幸せな時を過ごしたとしても、現実に戻ればただ辛いだけだ。川を渡るだけでその辛さから逃れられる死というものは、男にとって救済であった。

けれど、女はそれを良しとはしなかった。

「貴明さん。お辛いんでしょう。わたくしだって、逆の立場だったらもう死んでしまいたいと思っていたと思います」

「ならそこを――」

「なりません!」

突然大声を出され、反射的に男は黙ってしまった。

女は言葉を続ける。

「良いですか、貴方はもっと生きることが出来ます。だから、わたくしの分まで生きてください。きちんと生きて、天寿を全うしたら、今度こそ此方に来て、わたくしに沢山お話をしてください。……最初で最後の我儘、聞いていただけますか」

女は目尻に涙を貯めながらも笑った。男の記憶に残る姿が笑顔であるようにと、必死で涙を堪えていた。

後ろにいたもう1人の女はぐにゃりと歪んで消えていってしまった。あれはタチの悪い霊か何かなのだろうと男は解釈した。

そうして、同じように涙を堪えながら笑って言った。

「お前が滅多に言わない我儘だ。聞かないわけにはいかないな。……愛しているよ」

「ええ、わたくしも……愛しております」

その言葉を最後に男の記憶は途切れた。

次に目が覚めると元の部屋に戻っていた。

部屋を見渡して男は自嘲気味に呟いた。


「全く、酷い部屋だな」

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