あなたが奇跡を得るのなら

こう

あなたが奇跡を得るのなら


 古来より、呪いを解く最大の魔法は、愛だと決まっている。

 怪物に姿を変えられた若者も、眠りについたお姫さまも、真実の愛で呪いが解けたのは有名な話だ。

 その多くはお伽噺だが、お伽噺には真実が混じっている。そう、お伽噺のような真実が。

 このフォークテイル王国の人々は、真実の愛を信じている。

 真実の愛は、呪いに打ち勝つと信じている。

 事実は小説より奇なり。


 ――一つの愛が、魔女の呪いに打ち勝った。


「殿下の呪いが解けた!」


 きらきら輝く、粒子が見える。

 チャンル学園の階段の踊り場から身を乗り出したマデリンは、階下で起こった奇跡に呼吸を止めていた。

 フォークテイル王国第一王子のアルバートが魅了の呪いに掛かっているとマデリンが知ったのはつい先刻のこと。

 殿下を呪ったと思われる娘を糾弾したのは数秒前。

 魅了の呪いにかかったアルバート殿下。呪いをかけた魔女以外が呪いを解いたなら、それは真実の愛あってこその奇跡。

 見知らぬ令嬢の口付けで、アルバート殿下の呪が解けた。


 ああ、奇跡だ。


 マデリンの妄想でも見間違いでもない。眼の前に、お伽噺のような現実が広がっている。マデリンは震える手で口元を覆った。

 そうしないと、興奮から笑いだしてしまいそうだった。



 マデリン・エフィンジャーは公爵家のご令嬢。フォークテイル王国宰相の父と穏やかな母、頼りになる兄を持つ。

 公爵家に生まれたからには、相応しい立場の人間と婚姻して血を残すことが求められる。

 年の近い王族がいたので、彼がマデリンの配偶者になるのだと自然と考えていた。それは年の近い王族…アルバート自身も同じだっただろう。


 フォークテイル王国第一王子アルバートと、公爵令嬢マデリン。


 立場的に幼い頃から顔を合わせていた二人は特に仲が悪いわけでも良いわけでもなかった。

 立場的に交流はあったが、それだけ。お互い将来を共にする可能性が高いとわかっていたが、それだけだった。

 マデリンは婚約者候補筆頭などと言われていたが、ほぼ内定しているような物。お互い分かっていたが、情勢によっては破談もあり得るので所詮候補でしかない。お互い一定の距離を置いていたつもりだった。

 それでも夜会でアルバートが一番にダンスを誘うのは公爵令嬢のマデリンだし、マデリンも候補者達の中で調子付いた令嬢が出ないよう調停役を買って出ていた。

 ――お互い、別人に心を預けているとわかっていたけれど。

 立場的に、お互いに、それが最善だと思っていた。


 この奇跡が起こるまでは。


「マデリン! 君と殿下の婚約が無かったことになったって本当かい!?」

(来たわね)


 エフィンジャー公爵家へ軽快なステップを踏みながらやって来たのは、幼い頃から付き合いのある青年。

 食後の一服にティールームで紅茶を嗜んでいたマデリンは、独特の足音を響かせながら現れた青年に微笑み返した。


「本当よウォーレン。だけど間違えないで、わたくしと殿下は婚約していないわ。わたくしは婚約者候補でしかありませんでした」

「候補だけど候補筆頭、ほぼ決まったような物だったじゃないか!」


 彼の両手がキレのよい動きを見せる。この間、足は落ち着かずにステップを踏み続けていた。形のよい長い足が公爵家のティールームにダンスステップを響かせている。


 幼なじみの伯爵子息、ウォーレン・シューズレッドはマデリンの従姉妹に当たる。

 母親同士が姉妹で、姉が公爵家に、妹が伯爵家に嫁いだ。そして生まれたのがマデリンとウォーレンだ。

 二人はそれこそ生まれた時からの付き合いで、身分は違うが勝手知ったる他人の家とばかりに互いの屋敷を行き来してきた。本来は親しき仲にも礼儀ありで訪問の際に連絡を欠かしたことはないのだが、今日は余程驚いたのか何の連絡もなくウォーレンが公爵家にやって来た。


 愛の奇跡が起きてから三日目の夜。先日発表されたアルバート殿下との婚約候補白紙の通達。それはマデリンだけでなく、婚約者候補全員に通達された。予想していたマデリンと違い、婚約白紙はウォーレンにとって寝耳に水だった。

 予想できない話ではなかろうに、考えてもみなかったらしい。


「あんなに、あんなに頑張っていたのに…それなのに君が選ばれないなんて! 天はなんて仕打ちを! ああ! あまりの遣る瀬なさに天に祝福された俺の身体が張り裂けそうだ!」

「別に気にしていないわ。だから落ち着きなさいウォーレン。床に穴が空いてしまいますわ」


 忙しなく踏み鳴らされるステップ。あふれ出る感情を表現しているらしい慌ただしさに、立ち上がったマデリンは忙しない動きを繰り返す彼の手を握った。

 途端にピタリと動きを止める手足。マデリンが碧の目でじっと見上げれば、青年の身体が小刻みに震え出した。

 うねるようなピンクゴールドの髪はまとめて左に流され、精悍な顔立ちを縁取っている。甘やかな印象を与える大地色の垂れ目が彼を少し軽薄にみせていた。

 その甘やかな大地色がどんどん潤んでいく。普段は乾いた土の色をしているのに、じわじわ潤むと目の色が濃くなるのをマデリンは知っていた。


(ああ、可愛い)


 涙目になると水を吸った大地のように瞳の色が濃くなる。その変化を見るのが好きだ。

 幼い頃、同じ場所で同じ土なのに、掘り返すと色が違う大地が不思議だった。水を吸うと色を濃くする土を眺めるのが好きだった。庭師が花に水をやる姿をじっと眺めていたこともある。その所為か、マデリン様はお花がお好き、と誤解を受けて沢山の花を貰った。花は人並みに好きだが、それよりも土が好きだ。


(泣き出しそうな貴方の目と似ていたから、好きだったのよ)


 美しく成長したのに、中身は幼い頃のまま。泣き方が全然変わっていない。あがり症なところもそのままだ。

 マデリンの幼なじみはおバカでナルシストな女たらしと有名な伯爵令息だが…その実態は、手足を動かしていないと緊張してすぐ泣き出してしまう、あがり症だった。

 ナルシストな発言が多いのは自分を鼓舞する為。女性付き合いが多いのは外見ばかりが男らしく成長して、好意を向けられたらすぐ相手を好きになってしまう惚れ安さの所為。好意に好意を返す一途で愛らしい性格をしているのに、見た目が些か軽薄にみえる所為で女性に誤解を与えやすい。何よりあがり症が治らず、常にダンシングな伯爵令息は愛でられてもすぐふられてしまうのが難点だった。


(わたくしとしては嬉しい事だったけれど、ウォーレンからしたら悲しい事実ね)

「マデリン、マデリン、男女で手を握り合うのはよろしくないんだぞ」


 ぷるぷる震えながら涙目で訴える。マデリンの手を振り払わず、握られれば動きを止めるのは男性の方に力があり、女性であるマデリンを傷つけない為。優しいウォーレンは、マデリンに手を握られたらそれを振りほどけない。喩え自分が緊張で泣きそうになっても、マデリンを振り払ったことは一度もない。

 幼い頃からそうだった。マデリンと手を繋ぎながらぽろぽろ涙をこぼし続けた。


(ああ、可愛い)


 今にも泣きそうなウォーレンを見上げながら、マデリンは微笑んだ。


「あら、ダンスの時は握り合う物でしょう?」


 繋いだ手を上げて、相手の手を誘導してホールドさせる。そのままマデリンのリードでステップを踏んだ。

 優秀な侍従がすぐティーテーブルを片付けて場所を確保し、穏やかな音楽を奏で出す。何時でも何処でもダンシングなウォーレンと会話する場合、お互いゆったり踊りながらの方が上手くいく。そうわかっているから、マデリンは彼とよく踊った。むしろ手を取り合って踊った幼い日に、動いていれば緊張しないと気付いた。それから二人はずっと踊っている。

 事情を知っている公爵家の使用人達は音楽に精通している者が多く、公爵家は何処で踊り出しても優秀な使用人達が音楽を奏でるようになっていた。一人が奏で始めれば、すぐに複数人が楽器を手に現れて優秀な使用人があっという間に優秀な音楽団に様変わりだ。

 音楽に合わせて手足を動かすことで、緊張から解放されたウォーレンがほっと息を吐く。しかしダンス中で両手が塞がっているので、涙で滲んだ目元を拭えない。目を潤ませたままマデリンを見下ろした。


「すまないマデリン、些か動揺してしまって…俺にとって君は素晴らしい女性だから、君以外が選ばれるなんて想像出来なかったんだ」

「光栄ね。そう言って頂けるなら自分を磨き続けた甲斐があるわ」

「君は俺に劣らず努力家で、我慢強くて、誰かを導く力に満ちた女性だ。俺も君の決断力と突進力にはいつも助けられているぞ」

「令嬢の突進力を褒めるなんて、貴方くらいよ」

「良い所なのに…」

「相変わらずね」


 ゆったりしたステップを踏みながら身体を揺らす、マデリンにリードを任せたまま、促されるがままに踊るウォーレン。

 何の疑いもなく素直にマデリンに従う彼に、ぞくぞくとした高揚感を覚えて口元が緩む。これだから彼と踊るのはやめられない。

 おバカと言われる彼だけれど、彼の言動にはちゃんと理由がある。人見知りをしてあがってしまい、自分を鼓舞する為ナルシストな発言を繰り返し、外見から好かれても慣れるまで変わらぬ彼の態度に周囲が離れて行ってしまう。周囲に馴染めない、ひとりぼっちのウォーレン。

 さみしがり屋でもある彼は、彼の素を知っているマデリンの前では安心してしまう。すっかり肩の力を抜いてされるがままだ。


「わたくしの突進力は、令嬢として褒められたところではないのよ」


 行動力と言った方が正しい気がするが、ウォーレンとの間ではすっかり突進力と称してしまっている。

 マデリンは幼い頃から物理的にも精神的にも躊躇わなかった。泣き虫な自分が恥ずかしくて隠れるウォーレンを探して、あちこちに突進していった。薔薇の生け垣にだって躊躇わず頭から突っ込んだ。

 その突進力がすっかり板に付き、猪令嬢が出来上がってしまった。生け垣の下に隠れるウォーレンを探して花壇に突っ込んでいった時は泥だらけになり怒られたが、慌てて出てきたウォーレンを捕まえることが出来たので後悔していない。

 あの頃から、ウォーレンはマデリンが手を握れば、絶対振り払わず震えながら隣に居た。


「それでも、マデリンの良い所だと思うぞ。君の力強さに俺は救われている」


 マデリンはいつだって突き進んできた。それを強さと認めて、ウォーレンはちょっと逸脱したマデリンを認めている。

 ウォーレンがマデリンを慰めるようにくるりとターンした。くるくる回るステップに笑いがこぼれる。


「やめてちょうだいウォーレン。わたくし落ち込んでいませんわ。本当に気にしていないのよ。筆頭と言っても我が家が公爵家だったからだし、殿下は素晴らしい殿方だったけれど、わたくしには次期国王になる方への忠誠心しかなかったわ」

「本当に? アルバート殿下は俺と違って堂々としていて素晴らしい人なのに?」

「堂々…」


 ウォーレンの言葉に思わず考え込む。どうも、マデリンの知るアルバートと世間の王子様には齟齬がある。

 周囲が思っている程、あの男は堂々としていない。裏から着々と手を回し、笑顔で相手を懐柔するタイプだ。

 直接その様子を見たことはないが、マデリンは持ち前の直感力で看破していた。アルバートが穏やかなだけの男でないことは、数年一緒にいればわかる。

 今回の呪いは全く警戒していない方向からの攻撃だったから通ったのであって、普段ならばこんな醜態をさらすことはなかっただろう。

 しかしその醜態のおかげで…。


「ウォーレン、わたくしの婚約が白紙になったことをご存じなら、その理由も聞いているわよね」

「聞いた! しかし俺は見ていないから未だ信じられないんだ! 本当にあった話なのか!?」


 ウォーレンの目が光る。キラキラと期待に染まる大地色に、マデリンは噴き出しそうになった。

 恐らく一番聞きたい内容だったが、マデリンが婚約の件で傷ついていることを考えて黙っていたのだろう。その心配がないと分かれば身を乗り出してしまうのも仕方がない。現場にいたマデリンにも信じられない奇跡が起きたのだから。


「ええ、本当の話よ…呪われた殿下を、真実の愛の口付けで救ったご令嬢が居ますの!」

「凄い! 物語みたいだ!」

「ええ! 物語みたいでしたわ!」


 興奮気味のマデリンだが、あの日起きた出来事を一部始終確認出来たわけではない。

 殿下が魅了の呪いに掛かっている…父親の悩みを偶然聞いてしまったマデリンは、持ち前の突進力で殿下を呪った少女…ロレッタを糾弾した。目的がわからぬと足踏みする大人達がもどかしく、魅了の呪いで注目を集める少女の行為が幼稚に思えて叱らねばと思ったのだ。


 しかし彼女は夢見るような目で、マデリンを映さぬ目で呪いを否定し、マデリンに飛びかかってきた。その動作はどこか大げさで、害意はないのにぶつかるように伸びてきた手をマデリンは咄嗟に振り払った。

 突進力があってもマデリンは公爵令嬢で、力はそこまで強くない。だと言うのにロレッタは大きくふらついて階段の踊り場でバランスを崩した。

 自分が振り払ったロレッタが階段から落ちそうになった瞬間、自分が他者を傷つける恐怖に襲われた。振り払った手の指先が痺れるほどの恐怖。群衆から飛び出した少女がロレッタを救出し、代わりに落ちた姿にとうとう悲鳴を上げた。

 階下から大きな音がして、足をもつれさせながら階下を覗き込んで…キラキラ輝く倒れた二人を目視した。


 とろけるように微笑むアルバート殿下を、初めて見た。


 その笑顔が普段とも、呪われていた時とも異なっていて…マデリンは何が起きたのか、そしてこれから起こる全てを理解した。

 あの少女は、アルバートが隠し続けていた、意中の相手である事も。


「殿下は真実の愛に目覚められたの」


 マデリンはアルバートが、不誠実ではない事を知っている。

 候補とは言え婚約者が複数いる中で、候補でも無い令嬢と懇意にするわけがないことをちゃんと分かっていた。周囲が騒ぐような秘密の恋人ではない、確信出来た。

 しかしマデリンにとって、二人の恋物語は気になるが重要ではない。

 殿下のお相手が決まり、それがマデリンでなかったことの方が重要だった。


「呪いを解かれたイヴ様は、とても純粋な方でした。わたくしを殿下の婚約者だと誤解なさっていて…割り込むようなつもりはなかったと、身を引くような事を仰って…呪いを解くほど殿下を愛されていらしたのに。わたくしに気を遣われて…」


 最速で誤解を解きに行ったのは、我ながら良い突進だった。自分のことなど気にせずに結ばれて欲しいとしっかり伝えた。イヴは目を白黒させていたが、マデリン初の恋バナにもしっかり付き合ってくれた。やはり目を白黒させていたがその様子が愛らしく、改めてアルバートと自分は同類だったと確信を深めた。


「わたくし、愛し合う二人を引き裂くような真似をするつもりはありませんわ。是非イヴ様にはこのままアルバート殿下の妃となり、将来は奇跡の夫婦としてこの国を治めて欲しく思います」

「マデリン…自ら障害になる前に身を引くなんて…君はなんて高潔なんだ。奇跡とは言え一言文句を言っても許されるくらいには、将来の為に努力を重ねていたのに」

「ありがとうウォーレン。そうね、わたくしも頑張ったと思いますわ」


 学べる立場に居るのだからと何事にも真剣に取り組んだ。マデリンは公爵令嬢。第一王子に嫁がなくても、他国にだって嫁げる身分の令嬢だ。だからこそマデリンは自分を磨き続けた。

 何処にでも行けるように。いざという時に行き先を自分で決められるように。

 そして運命の時はやって来て、嬉しい事に殿下は政治ではなく愛情で自分の妃を選んだ。政治的部分が全く無いとは言えないが、愛で選んだことに間違いない。

 呪いを解いた、真実の愛を示した令嬢を選んだ。

 彼は愛を選択した。


「だから、わたくしも感情で動いて良いと思わない?」

「え?」


 意図して爪先を変える。規則的だったステップが変わり、ウォーレンが不思議そうな顔をした。あっさりマデリンにリードを許す、そんなウォーレンが素直で愛しい。

 だからこそこんなことになる。


 ドンッ


 ステップを踏みながら壁際へ誘導し、ウォーレンが逃げられないよう両腕を壁に着いて彼を囲う。腕の長さからぎゅっと胸を押しつけ密着したが、優しいウォーレンはマデリンを振り払って逃げられない。

 ウォーレンは勢いよく両手を挙げてホールドアップの体勢になった。すぐ顔が真っ赤に染まる。マデリンは容赦せず、好戦的に言い放った。


「結婚して」


 ゆったりと流れていた音楽が情熱的な音楽に切り替わる。最近オペラで人気な恋の曲。あなたが愛しいと叫ぶ女の曲。最新の曲まで網羅しているなんて、公爵家の使用人達は本当に優秀だ。

 ウォーレンがこれ以上ないほど顔を赤くしながら、涙目で首を振った。


「よくないよくないよくないぞ! 年頃の男女がこの距離はよくないぞ!」

「求愛中の男女ならありえる距離よ」

「よくないよくないよくないぞ! ダンスの時でもここまでくっつかないぞ!」

「あら、ここぞとばかりに押しつけてくる女性もいたでしょう? わたくしみたいに」

「君くらいだ!」


 思いがけぬ即答にほくそ笑む。惚れっぽいが紳士的な彼は、付き合ってきた女性達と程よい距離感を保っていたらしい。いいことだ。ここぞとばかりに身体を押しつける。何処とは言わないが柔らかに形を変えた。


「問題ないわね、堪能しなさい。貴方の妻となる女の肉体よ」

「よくないよくないよくないぞ! 言い方がとってもよくないぞ!」

「言い方を変えても結果は変わらないわ。貴方の妻に、わたくしはなる。ねえ、いいでしょう」


 妖艶さを心がけて見上げれば、ウォーレンの顔は赤く染まり大地色の目はしっかり潤んでいた。美しい男の泣き出しそうな表情。虐めているような背徳感が湧き上がって、こちらから仕掛けたのに妖艶さで負けた気分になる。

 情熱的な曲から成熟した大人の曲へと切り替わる。誰が指揮を執っていますの。


「よよよ、よくないぞ…! お、俺の妻になんて、マデリンがそんな、マデリンがそんな、伯爵夫人!? こんな迫力溢れる伯爵夫人がいるか!?」

「居るわよ」


 多分居る。いないならマデリンが初の大迫力伯爵夫人だ。


「問題ないわ。いいの、受け入れなさい」

「よくないぞマデリン! だって君は本来なら他国の王子にだって嫁げるくらいのご令嬢でっ」


 ホールドアップしたままの腕がキレよく動いている。壁ドンをしているのでその腕を止められないのが悔しい。しっかり握り込んで、マデリンしか感じられないようにしたいのに。

 悔しいから、マデリンは彼の胸元に頬をくっつけた。耳元に一際大きく跳ねた彼の鼓動が聞こえてくる。腕の動きが止まった。目論み通りだ。


「わたくしは貴方に求婚しているの。わたくしが貴方を選んでいるのに、何故他の男に嫁がねばならないの」

「はわ」

「もしかして、わたくしも貴方に愛の口付けをすればこの燃える想いが伝わるのかしら」

「はわわ」

「屈んでちょうだいウォーレン。口付けが届かないわ」

「はわわわ」


 頬をくっつけたまま上目遣いで覗き込めば、とうとうウォーレンの目元から大粒の涙がこぼれ落ちた。ぽろぽろこぼれる滴がマデリンの瞼に落ちて、そのまま流れ落ちる。まるでマデリンも泣いているようだ。


(そうね、拒否されたら流石に泣いてしまうかもしれないわ)


 幼い頃、薔薇の生け垣に突っ込んで傷だらけになったマデリンの手を、先に握ったのはウォーレンだ。マデリンの手を握りしめ、ずっと泣いていたウォーレン。

 本当はマデリンこそが痛くて泣いてしまいたかったが、彼が泣くから仕方がないなと涙を飲み込んだ。彼がマデリンの分まで泣くから、泣いてくれる彼が隣に居るなら、マデリンは淑女らしく屹然と立っていられる気がした。

 薔薇の生け垣に突っ込んだのは自分の判断だったが、幼いながらにそう思っていた。


「屈んでちょうだい、ウォーレン」


 くしゃりと顔を歪ませて、混乱して泣いてしまっているウォーレンを愛しく思う。

 可愛い、わたくしの天使。


 公爵令嬢としての責任から殿下の婚約者に選ばれたけれど、マデリンはずっとウォーレンが好きだった。

 じっとしていることが苦手ですぐ緊張して泣いてしまう、泣き虫な彼が可愛くて仕方がなかった。突き進むマデリンの強引さを長所だと言って、可愛い笑顔で認めてくれた。

 手足を動かせば気が紛れて泣かないと気付いてから、人付き合いの輪を広げマデリンの傍から飛び立ってしまった。寂しかったが、彼はいつだってマデリンを気に掛けてくれていた。

 彼のことは大好きだけど、マデリンは公爵家の娘として殿下に嫁ぐか他国に嫁ぐか、王族と関係を深めることを求められていた。彼のことは大好きだけれど、公爵家の娘としてマデリンは役目を全うしようと邁進し続けた。


 邁進し続けて。突き進んで。

 殿下が呪いを受けて。

 奇跡が起きて。

 殿下が得た真実の愛。


 これは、マデリンにとってもチャンスだった。


 ――貴方が真実の愛を得るのなら、わたくしだって得てもよいのではなくて?


 真実の愛で殿下達が結ばれるなら、婚約を白紙にされた令嬢がそれに肖って秘めていた恋を告げても許される筈。

 身分が違いすぎる訳でなく、家同士の仲が険悪な訳でもなく、相手の為人を家族もわかっているのだから尚更、繋ぎやすい縁だ。多少血が近いが、許容範囲内。

 次の婚約を家が打診する前に、殿下の醜聞を吹き飛ばす手段の一つとして、マデリンも家格ではなく愛情で相手を選んでも許される。

 いや、今この時の勢いだけで許されるように持って行く…!


 殿下、わたくしたち、奇跡が起きなくても仮面を被りながら上手くやれたでしょうね。

 心は他所に置いて国の為に尽くせます。生まれ持った責任を果たす為、最愛になれなくても最適の相棒になれたでしょうね。

 愛する人が誰かの物になっても、その笑顔の為なら耐えられた。互いの傷を舐め合って、共犯者のシンパシーで上手くやれた事でしょう。

 でもその未来はもう存在しない。

 だってわたくしたち、お互いを誤魔化すことを辞めて周囲を誤魔化すことにしたのだもの。

 だからお互い、本当に欲しいものはしっかり捕まえてしまいましょうね。


 壁から手を放して、はわはわと言葉にならない声を上げるウォーレンの首に腕を伸ばし抱きついた。

 ウォーレンは逃げない。逃げられない。マデリンに対して受け身の彼は、逃げるという選択肢がない。

 そもそも逃がしませんわ。


「観念してわたくしの物になって、わたくしの可愛い天使」


 固まっていたウォーレンの腕が、恐る恐るマデリンの背中に回る。温かな手が縋るようにマデリンの身体を抱きしめて、涙に濡れた頬と頬がくっついた。


「お、俺は…面倒くさいぞ…」

「自分で言うなんて、本当に可愛い人ね。全部含めて貴方が欲しいのよ」

「はわわわわ…」

「屈んで、ウォーレン」


 震えながら少しずつ屈んだウォーレンに、マデリンは真っ赤な唇を押し当てた。


「愛しているわ」


 その日公爵家には、恋人達を祝福する幸せな曲が鳴り響き続けた。


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