たいやきは大和西大寺にしか売ってない

粘菌

たいやきは大和西大寺にしか売ってない

 その日、俺は仕事から帰ってきてずっとベッドの上で寝て過ごした。

 飯を食べる気もしないし、水を飲む気もしない。

 全てが味気ない。

 ただ、ひたすらに音楽を聴いていた。


 音楽はいいんだ。

 いろんなものを忘れさせてくれるからだ。


 でも、やっぱり音楽は最低でもある。

 俺の記憶が、音楽と紐づいているからだ。


 スピッツの楓を聴くと思い出す。高校生のときの下校時の思い出、夏の女友達、その髪の匂いが香る。甲本ヒロトの声は中学の青臭い失敗、俺が傷つけた人を想起させる。そうして俺はどうしようもなく恥ずかしくなって、死にたくなるのだ。


 ひとしきり悶えて苦しんだあと、トッド・ラングレンが流れた。『Does Anybody Love You?』、『貴様を愛する人なんてこの世の中にゃいないだろ』って曲だ。


 ああ、この曲はいい。


 マシだ。


 この曲はいい。

 この曲は、俺の嫌な思い出とリンクしていない稀有な曲だから。


 せめて、思い出せるのは、環状線。大学時代にずっと通学しているときの雰囲気、大阪鶴橋から梅田にかけての匂いだろう。電車の匂い。俺はこの曲も擦り切れるまで聴いた。

 ほら、ここで雰囲気が変わる――。


 ぷつん。


「え? あれ?」


 思わず声を出してしまった。いま、何か聞こえた。カセットテープの間延びしたような、一瞬なにかが途切れたような音。スマートフォンのアプリで10秒巻き戻す。


「あれ? こんなところに、ノイズ?」


 自慢じゃないが、このアルバムは馬鹿みたいにききこんでいる。そらで全曲脳内再生できるぐらいだ。だから、どこに何がのかぐらいわかる。


 ぷつん。


 ……あ、ほんとだ。ここ。雰囲気が切り替わる瞬間のところ、たしかにポップ音のようなものが聞こえる。こんなの、全く気づかなかった。


 ぷつん。


 何度再生しても聞こえる。認識したからかもしれないが、メロディよりはっきり聞こえるかもしれない。


 ぷつん。


 ぷつん。


 何度も聞いているうちに、俺はそのぷつん、という何かを切り取ったような音、その音が気になって、気になって、しまいには耳にこびりついて、どうにも離れなくなってしまった。


 ぷつん。


 ぷつん。


 これは何だろう?


 巻き戻す。

 再生する。


 巻き戻す。

 再生する。


 レコーディングの何かだろうか? 逡巡するけれど、答えは出ない。うんうん唸っても、出てくるのは今朝の上司の言葉だ。同僚の言葉だ。

 先日の同窓会での同級生の目だ。


「……ちくしょう」


 スマートフォンでXを開く。広告のポスト、上下にスワイプして、あるアカウントを見つける。

 歯に衣着せぬ言動を繰り返すアカウント。

 言葉にどこか知性や優しさの感じられる人だと思っていた。俺は、そのアカウントが好きだった。


 好き?


 違和感がちりちりする。好きなのかはいまいちわからない。俺は、彼の言うことが正しいと思う。政治家の汚職についても間違ったことは言っていないと思う。弱い人間は守るべきだと思う。彼の言う通りだと思う。厳しい言動の中に情念を感じる。


 彼は一種の派閥を形成している。彼を中心としたうねりの中にいると、俺は正しいことをしていると安心する。


 ぷつん。


 画面の奥で、さっきの音がした。


「あれ……?」


 ぷつん。


 さっきの音。

 トッドラングレンの曲のポップ音。


 確かに、スマートフォンの画面の奥から鳴った気がする。


 スマートフォンの音量はゼロだった。ミュートボタンをかちかちしても、機械的にもきちんとミュートされていることが分かっただけだった。

 かちかち、かちかち。

 鳴らしているうちに、俺は、彼のアカウントの返信欄をじっと眺めている自分に気づいた。


 返信欄。リポスト。


 正しい言葉。正しい認識。

 多数派の理屈。

 正しい侮蔑。


「……あれ?」


 同じような意見。同じような理解。同じような楽しみ。

 

 ぷつん。


 俺は、奇妙な居心地の悪さを感じた。返信欄、リポスト、それらの項目が、変な色、灰色のような、何と言っていいかわからないが、色彩を極端に欠いたような奇妙な色に、塗りつぶされているように見えたのだ。


 ぷつん。


 そのうちに、俺は、返信欄の言葉が、日本語として認識しづらくなっていることに気づいた。これも、これも。あれ? 読点がない文章みたいに、全然頭の中に入らない。そのうちに、返信欄の言葉がゲシュタルト崩壊し、どんどん奇妙なかたちに見えはじめた。


 なんだ、これ?

 

 めまいを覚えた。

 眼精疲労かな? 目を酷使した翌日みたいに左目を瞑りながら、上にスワイプして好きだったアカウントのポストを見る。意図的に切り貼りした画像。残す言葉を取捨選択した言葉。何故か、その人の投稿はきちんと言葉として理解できた。


「これは読めるのか。よくわからんな」


 独りごちた。


 スワイプする。Xのタイムライン、おすすめ欄をざっと見て通す。昔の人が、新聞の見出しを朝起きてからざっと見て通すように。


 ぷつん。


 また音がした。どう説明していいのかわからないが――もはや、俺はタイムラインの7割以上のポストが読めなくなっていた。本当にどう言えばいいんだろう。エクセルの印刷範囲外にあるみたいに、意識の外にグレーアウトしているような感じなのだ。


 なにかの病気なのかもしれない。


 さっきのアカウントのポストをザッピングする。彼は芸能人のスキャンダルの話をしていた。こりゃぁ叩きがいのある人だ。こんなのでもなけりゃ、叩けないような人だ。俺はXのタイムラインをまた眺めたけれど、内容よりも、投稿が、日本語がどんどん読めなくなっていってしまう自分の目に驚いてしまった。


 あっというまに、もうほとんどのポストが読めなくなってしまった。


 ぷつん。


 それでも俺はタイムラインをスワイプした。それは俺の習慣だった。黒い画面をずっとスワイプする。好きだったアカウントのポストももう読めない。

 しかし、そのまま二十分ぐらいスワイプしていて、ついに俺はひとつのコメントを見つけた。

 それは、なんの変哲もない投稿だった。


 


「たいやきみっつ食べてしまった」



 

 ……読めた。


 俺はびっくりして、目を凝らしてもう一度、その投稿を眺めてみた。


「たいやきみっつ食べてしまった」


 あああ! ちゃんと、日本語として読めた。あああああ、俺、ちゃんと読めたよ!

 投稿には、写真が添付されていた。大きな紙袋の中に、ひとつだけたいやきが残っている。もともとは、何個か入っていたんだろう。汚れたテーブル、田舎の実家っぽい物に溢れたリビング、その上におかれた、その紙袋。


 そいつの他のポストを見に行く。


 食べもののポスト。職場の愚痴。朝起きれないポスト。コーンポタージュスープへの愛情。マイクポップコーンへの偏愛。同居しているお祖母ちゃんの可愛いエピソード。


「なんだ、これ??」


 どうでもいいポスト。どうでもいい内容。おばあちゃんはボケ始めているらしい。何故か、こいつのポストは全て読める。読んでも意味がないような内容なんだ。何故、俺はこいつのポストだけ読めるんだろう?? それでも、俺は、貪るようにそいつのポストを読んだ。


 全くどうでも良い内容ばかりだった。

 だが、俺は読むのをやめられなかった。


 投稿を遡る。


 遡るに連れ、おばあちゃんはどんどん若返っていった。数ヶ月でこんなにふけるものなのかな? ふと疑問を覚えたが、写真を繰る中で腑に落ちた。おばあちゃんは、最近とみにぼけ始めたらしかった。


 スワイプ。スワイプ。過去へと戻る。おばあちゃんの目がまともになっていく。社会への愚痴が少なくなっていく。大学を諦めた話。友達とUSJに遊びに行った話。よりによってUSJで、水道から水を止める連絡が来て、慌てて帰った話。

 もう少し遊びたかった。


 もう少し、遊び、たかった。


 俺はここで気づいた。読み始めた投稿、最新の投稿には、友達の話がひとつもないことに。俺は嫌な想像をした。ポストを上にスワイプする。上にスワイプするにつれて、どんどん、おばあちゃんの目が狂っていく。

 黒目の焦点が合わなくなる。すこしづつ、飛んで、いく。


 動悸がした。


 何故胸が痛んだのかは俺はまったくわからない。

 ただ、おばあちゃんの目が、少しづつ狂っていく、その様が怖かったのかもしれない。自分がいつかそうなるのか考えたのか? いや、別にどうでもいい。どうでもいいんだ、俺のことなんて。誰だって、俺のことなんかどうでもいいんだ。インターネットの中にある泡沫、社会の中にある泡沫、きっと、それでいいんだ。狂ったって、意味はないんだ。


 怖いのは、このアカウントの視点なのかもしれない。傍観者のような視点。当事者意識を、どこかで鍵をかけてコンクリートで埋めたような、そういう視点。プロフィール画像をクリックした。画像も、ヘッダー画像も、ちいかわだった。アカウント名は、おもち だった。


 俺は反射的におもちをフォローした。通知にも入れた。俺はおもちが気に入ったのかもしれなかった。


 ぷつん。


 スマートフォンをポケットに入れた瞬間、音がした。早速通知がなった音だった。

 フォローを返してくれたのかと思ったが、画面を見てみると、おもちの投稿だった。


「たいやき、もうひとつ食べたかった」

「おばあちゃんが食べちゃった。最後に、もうひとつだけ、食べたかったな。」


 写真が添付されていた。

 時刻は、もう夜だった。


 夜の駅、人のいない駅。


 おばあちゃんの写真だった。

 おばあちゃんは、画面の外の何かに怒っているようだった。


 おもちと手を繋いでいる。

 だが、おばあちゃんは今にもおもちの手を離そうとしているように俺には見えた。


 


 俺は嫌な想像をした。おもちにクソリプをしようとした。震えたせいで、返信ボタンを押せずに、スマホを落としそうになった。だが、そのおかげで気づいた。

 

 画面にある、既視感の正体。


「……おい」

 

 おい。おい、おい。

 向こうの看板。

 赤からのネオン。

 おい……これ……新大宮じゃね??


 近鉄奈良行きのホーム。

 

 夜。

 

 くそ、おもち、ちょっと待て。近鉄奈良に今から買えるたいやきなんか、どこにもないじゃねえか。

 どこにいく気なんだよ、お前。


 俺は、コートをひっつかみ、急いで外に出た。

 外に出ながら、震える手でおもちにDMを送った。


 「初めまして。もしかして、おもちさん、いまもしかして新大宮におられますか? 前からあなたの投稿が好きでよく見ていました。わたし、高の原に住んでるんですが、今日の帰り、たい焼きを買いすぎてしまったんです。食べれないので、良かったら今からお持ちしようと思うんですが、近鉄奈良の……」


 俺が、XでDMを送ったのは、これが初めてだった。

 クソ長文だ。きっしょ。でも、そんなこと言ってられない。


 ぷつん。


 通知が鳴る音。


 ぷつん。


 握り込んだスマホ、走る俺。


 ぷつん。


 おもちが返事をくれたのかもしれない。公団の階段を駆け下り、高の原イオンの方へ、駅に向かって走る。

 

 俺は、走りながら、あのノイズのことを考えた。

 いや、考えたわけじゃない。閃いたんだ。もっと正確に言えば、思い出したんだ。あの音は、そうだ、確か、録音再生中に、マスターの録音テープをはさみで切って、ふたつをひとつに繋ぎなおした音なんだ。昔、昔。あのころ、そうだ! 彼だ! あいつだよ! よく、一緒に遊んでいた友達が言っていた気がする。

 

「……失敗すれば、ふたつの録音が、全部ダメになっちゃうんだよ? それを、トッドラングレンや、ブライアンウィルソンは喜んでトライしたってさ。ほら、トッドは、ああいうコードを弾くでしょう、どこか偏執狂じみたところがあるから……」


 友達だったあいつの声。

 いい声をしていた、いい友達だった。

 今、あいつはどうしているだろうか。


 今度、あいつの嫁に聞いてみようか。あいつとは縁を切っちゃったけど、まだ、俺嫁さんの電話番号は持ってたと思うんだよな。

 

 俺は、彼の声を、あのころの思い出を、テスト明けの高校の昼下りを、仲違いした大学時代の深夜のことを、冬の夜、公団の寂れた街灯のそばに置き去りにするべく、駅のホームに向かってがむしゃらに走った。


 駅は、もうすぐだ。

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