5.伍號事案顛末
会議の開催場所が多くの通行人の行き交う耀桂園の中にある伏ヶ原家の邸宅であることは枡原にとって都合がよかった。設営中の遊戯場の天幕を装って映画館の脇にしつらえた作戦本部へ半人狼の群れを詰めさせてある。
匡守と分家の人間が本家の要求にどういう返答をしようと、本家当主から現地指揮官半干に合図があれば、席上にねじ込ませた叛逆軍の小隊と人狼兵士とで議題は承認させる手はずになっていた。耀桂園の所有権委譲への協力を餌に本家側は抱き込んである。話し合いなど形ばかりだ。
斯様な非常態勢下にわが一族の領地をまるごと歓楽に耽るために与えているとは何事か。当然、時局優先で人心の弛みを引き起こす施設は次々閉鎖せよ。
本家当主は出席者たちに主張をがなり立てる。会議室の末席に連なる保宅はそっと隣の幾彌の表情を見た。近ごろ父からたびたび会議に関する相談をされていたようだが、いったいどんな話をしていたのだろう。
匡守と幾彌が、もしや人獣事件に関して何か大変な問題でも抱えているのではと、昨日も耀桂園からの帰路で二人きりになってから尋ねてはみたのだ。保宅くんは何も気にすることはない。柔らかな口調だったが詮索を拒まれたのはわかった。
おのれごときの意見は聞かぬ、と匡守は提案を一蹴した。所有地に関する無用の要求が止まぬ場合、本家との対立を照ル藤財閥に報告し、園の役員に就任している本家側の者の免職も辞さない。睨み合いがしばし続いたが、やがて本家当主は小さくため息を吐くと会議室を出ていった。
本家からの出席者がそれに倣い、室内を沈黙が充たした。
保宅は内心首をひねった。おとなしく引き下がったにしては、どこか空気がおかしい。席を立って窓から外を見ると、邸宅を離れる本家の人間たちと入れ違いにやってきた男たちがここを包囲しつつある光景があった。中の数人は人ならぬ巨躯だ。
残りの出席者が邸宅から走り出ると、幾彌と匡守の護衛が敵兵と半人狼を迎え撃って耀桂園への道を開けた。半干が状況を聞き幾彌の捕獲へ半人狼のほとんどを差し向ける。伍號事案と同型の不完全な絨波兵士の群れ。
獣人たちの呆けた目と尖った爪に応戦するうち、狼の霊魂を呼び醒まされた幾彌の獣化は加速していった。顔と手足がぐにゃりと変形し皮膚の下から灰色の毛が生える。
幾彌はさらに大神へ自分の肉体のすべてを彼の依代とするように訴えた。
傷の痛みと半人狼の咆哮。
憤怒を遮る余計な感情を締め出し、血に飢えた獣の神を放ちきる。
どちらも狼になった後から幾彌と半人狼は彼我の隔絶が消え、絨波の感応により互いの意識は溶け合った。
強力な催眠術による被験体の記憶の抹消。
度重なる改造手術に耐えられず訓練中に血飛沫を散らし崩壊する不適格個体の肉体。
全身に刺した針による電気信号の刺激で、絨波の発現を促進する処置をされている最中の半人狼の群れ。
幾彌は思い出した。これはぼく自身が体験したことだ。
狼憑の血筋だというのは、最初から伏ヶ原一族に思い込まされていたのに過ぎなかった。
ヒトですらなかったのだ———。このぼくは———
肉を切り裂き返り血を浴びせられているのは自分のきょうだい。この世を憎もうと、運命を罵ろうと、この窮屈な牢獄から生涯出られず、うんざりな己自身との殺し合いしか許されない。
世界を統べるあなた、ぼくには名すらもわからないあなたは、どうしてこんなにもぼくを責めぬくのですか。
ぼくの痛み、ぼくの痛み、ぼくの————……
どんなに吼えても泣き叫んでもそれ以外のものが何も、ない。
感応により研ぎ澄まされた感覚は斃れる敵の断末魔の苦しみさえ己のものとして復奏する。
何体敵を倒したところで、生命を断たれる瞬間の絶望感と、踏みにじられる屈辱感しか返らなかった。
狼男の意識を外へ引き戻したのは、肩を掠めた弾丸のもたらした鋭い痛みだった。瞳を向けた場所にいたのは———、白桜。
狼男は女諜報員に何も言えなかった。
いまさら情けない申し開きの言葉など相手の記憶に刻みつけたくなかったし、いちばん言いたかった台詞は、もう一生涯言えずに封じ込めるしかないのがわかった後だ。
ぼくとこの女とは何も始まらない。
俯いたとき、警官隊の一群に包囲され、狼男は捕らえられた。
耀桂園の半獣兵士の事件に関しては報道統制が敷かれた。
半干は警察の取り調べにも枡原と叛逆軍について口を割らず、伍號事案は首謀者不明で調査継続となった。
伏ヶ原家の狼男の存在が、欧州を中心に匪賊の人脈による組織網を通じて行われている絨波研究とつながる件は、陸軍の命令により機密として扱われることになった。
病院の特別室でこんこんと眠る叔父の手を取り、保宅は目を醒ましてくれるよう懇願する。おじさんは狼男なんかじゃありません。ぼくにとっては大事で大好きなおじさんなんですから。
枕元でどんなに言葉を尽くして呼びかけようと、深い眠りから叔父が目覚める気配はなかった。
耀桂園は所有権を巡る伏ヶ原家のいざこざにもかかわらず、その後も娯楽施設として人気を博した。
伏ヶ原保宅は、ほどなく小間物屋の店主になり、邸宅と店舗の普請に明け暮れるようになったが、叔父が病院で亡くなった後、店に小さな画廊を併設した。
昭和を通じて耀桂園は伏ヶ原家の所有だったが、園が閉鎖した後に土地と邸宅は人手にわたり、平成の再開発で街はがらりと景観を変えた。
跡地を訪れても往時を偲ぶ標示などはなく、画廊付き雑貨店になった店がいまでも街の一画でひっそりと耀桂園の事績をいまに伝えている。
伏ヶ原家の狼憑 水主どどめ @kakododome
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