あたらしい旅立ち

「それで、トラバント。あなた、これからどうするの?」

 毎日、青い薔薇を維持するための研究を続ける中、サテリットがそう聞いた。マリアのいる図書館の一角で、本を読んでいた時のことだった。

「どう、って?」

「青い薔薇は咲いた。お父さんとも、最近はたまに会っている。でも、あなた、この村にいたままでいいの?」

「べ、別に僕は、今のままでも…」

「でも、山をよく見ては、ため息をついているじゃない。あの山を越えていきたい、と言わんばかりに」

 トラバントは何も言えなくなってしまった。サテリットは、じっとトラバントの言葉を待っている。ついに観念して、ぽつぽつと喋り始めた。

「村を出るなんて、おじいちゃんのような才能のある人しか許されないし…」

「許されるかどうか、じゃなくて、やるか、どうかじゃない?」

「でも、この村を出た後も、青い薔薇を咲かせ続けられるか自信がないし」

「そりゃ、そうよ。まだ、やってないんだもの。自信のつきようがないわ」

「うう…」

 言い訳を全部つぶされてしまい、トラバントは頭を抱えてしまった。怖かったのだ。一度、成功したからこそ、次で失敗するのも怖かった。次に失敗したら、サテリットが離れていくのじゃないか、と不安がよぎってしまった。

「トラバント、あなたの手は、奇跡の手よ」

 サテリットが、トラバントの手を握って、そう言った。

「青い薔薇を作ったのは、僕ら二人だよ。僕の手が奇跡の手なら、サテリットの手も、奇跡の手だ」

「そうじゃないの。あなたのこの手はね、私の体を気遣ってくれる手。そして、新しい世界に連れ出してくれる手…。私に、新しい世界を見せてくれてありがとう」

「サテリット……」

「私の体はもう、どこに行っても大丈夫。庭仕事で鍛えたし、毎日、家からトラバントの家まで通っていたんだから、旅行だって平気なのよ」

サテリットがにっこりと笑う。その顔は、前よりずいぶん日焼けしていた。

「だから…。ねえ? 私に何か、言うことがあるんじゃない?」

 サテリットはずっと、トラバントの手を握り続けている。まるで、結婚のプロポーズをするみたいに。トラバントは、ついに観念した。この機会を逃したら、もう勇気すら出ないようにも感じたのだ。

「サテリット……」

 手を握り返して、そう囁く。

「僕は、これから、君の故郷に行きたいんです。隕石が落ちて、雪が降る土地へ」

「ええ。そうね」

「だから、サテリット。僕についてきてくれませんか? 案内をしてくれませんか? そして僕とずっと一緒に…」

トラバントの話は、一旦、止まった。どう続けたらよいか分からなかったわけではない。顔が真っ赤になってしまって、言葉が出てこなかったのだ。サテリットは、次の言葉をただ待っている。何とか、トラバントは言葉をひねり出した。

「ぼ、僕と。ず、ずっと一緒に…いてくれませんか?」

「青い薔薇のために?」

「いや…。サテリットが好きだから、ずっと一緒にいたい、んです」

 つっかえながら告白したトラバントの前で、サテリットは、いたずらっぽく笑った。そうして、図書館の机を乗り越えて、突然、トラバントを抱きしめたのだ。

「わあ! サテリット!?」

「ずっと待っていたのよ、その言葉。もう、トラバントったら、遅いんだから!」

「ご、ごめんよ。僕なんかが言っていいのか分からなくて」

「なんか、って言わないで。私の世界一、好きな人なんですからね」

「す、好きって…」

 顔を真っ赤にしたトラバントと、抱き着いたままのサテリットを、図書館に来ていた村の人たちは、微笑みながら見ていた。いや、赤面しながら「わ、私もああなりたい」「俺も、早く彼女にプロポーズしなきゃ」と言い出す者たちもいたほどだ。

「おめでとう! 二人とも!」

トラバントとサテリットの隣に、マリアがやってきた。

「マリアおねえちゃん!」

「ずっと、やきもきしていたのよ。いつ、二人がくっつくかな、って」

「マリアさん…。あの、サテリットのことを…」

「大丈夫。二人なら、きっとうまくいくわ」

マリアは励ますように、トラバントとサテリットの手をあたたかく握るのだった。

「サテリットの故郷は、とても寒いところよ。ちゃんと、準備して行ってらっしゃい。そして…たまには、手紙を書いてね」

 その瞳に、涙がにじんでいることに、二人も気づいた。マリアにとって、妹の旅立ち。そして、弟のように思っていたトラバントの旅立ちなのだから。二人は大きく頷いて、マリアのことを抱擁するのだった。


 そうして、旅立ちの日がやってきた。村の人々が集まって、トラバントとサテリットを見送ることになった。青い薔薇を見て感動した子供たち、夢を抱くことを忘れていた大人たち、それぞれが思い思いに声をかけた。

「私も、お姉ちゃんみたいな、けんきゅうしゃになりたい!」

「俺も、トラバントさんみたいに、目標を持ち、叶えたいです!」

手を振って見送る村の人々の間から、隣の家の老婆が、進み出てきた。

「トラバントや。これを渡しておこう」

それは、トラバントの亡き祖父が書いたとおぼしきノートだった。青い薔薇作りの秘訣が書かれたものとはずいぶん違って、かなり分厚いものだった。

「お前のおじいさんから頼まれていたんだよ。トラバントは、いつか村を旅立つだろうから、そのときには、渡してやってくれ、とね」

「中身は、一体…」

「さあ。分からないよ。でも、旅の間に困ったことがあったら、開けてごらん。きっと、役に立つよ」

 トラバントは、そのノートを受け取った。黒革で出来た、とても重厚なものだった。祖父が都会で庭師をしていた頃に作ったものかもしれない。

「サテリット。あとで一緒に見てみよう」

「ええ、そうね。トラバント」

二人は顔を見合せ、歩みだす。

「行ってきます!」と大きな声が、村中に響く。


 風が吹く。十八歳のトラバントの住む小さな村に、山から流れ落ちてくる美しい風が吹き渡る。トラバントは、栗色の巻き毛と空色の瞳を輝かせ、銀色の山へと走っていく。隣には、銀色の髪を、長く風になびかせるサテリットを伴って。

 二人は微笑みながら、白い雪の残る大きな山を、越えていくのだった。これからも、二人の前には困難が、立ちはだかるだろう。でもそれを、二人なら超えていくはずだ。何しろ、あの青い薔薇を、育てた二人なのだから。


(完)

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『「青い薔薇」の咲くころに』 Yo1ko2 @Yo1ko2

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