透明なスタートライン
あまくに みか
透明なスタートライン
『スタートしました。第九十九回、箱根駅——』
カタン、と軽い音がしたのは俺がリモコンを落としたから。テレビの電源を切った時、リモコンも同時に手から滑り落ちた。
呆気ないほど、一瞬の出来事だった。
俺は床に落ちたリモコンを見下ろしている。頭では「拾わなければ」と思っているのに、体は「まだ拾うな」と言っている。
「あきら、いる?」
ノックと同時に
「どうしたんですか?」
「あのさー」
河西さんの視線は、俺の手元にある。一方的に気まずくなって、俺は背中を掻くふりをしてリモコンを隠した。
「お前、明日ひま?」
「はい。空いてます」
「車、運転出来る?」
「出来ますけど」
意図がわからず、俺は首を傾げる。
「じゃあ、行こう。箱根」
「えっ! 箱根?」
「うん。今日の夜、出発。早朝、開始」
俺は顔を上げた。久しぶりに、河西さんの顔を正面から見た気がする。
「走るんですか?」
声は震えていなかった、と思う。
驚きと悔しさと、それから嬉しさが同時に湧き上がってきて、俺は必死に瞬きを繰り返した。
「俺が金出すから。あきらはついて来てくれればいいよ」
あとさ、と続けた河西さんの口が「さ」の形のまま固まった。そのまま振り返って背中を見せた河西さんは、部屋から出て行こうとする。
「タイムはとらなくていいから」
ドアが閉まる間際に、河西さんが言った。まるで無抵抗の雪が、地面に消えてなくなったみたいな、そんな声だった。
夜、河西さんと二人で寮を出た。
例年ならば、こんな時期に外出など許されない。
「悪かったなー。明日、せっかくの休みなのに」
「大丈夫ですよ。河西さんの
場の雰囲気を明るくしようと思って言ってみたけれど、助手席の河西さんはずっと外を眺めている。
等間隔に並んだ街灯が、白い光をなびかせて次々に後方へと流れていった。
『まもなく平塚中継場!』
耳元で聞こえるはずのない歓声が湧いた。
ハンドルを握る手に少しだけ力を込める。
『がんばれー!』
誰もいない夜の沿道から声が上がる。
その時、河西さんがポツリと言った。
「ごめんな」
すーっと音が溶けて、消えていく。
歓声も応援の拍手も、一瞬で消えた。
何に対しての「ごめん」なのだろう。休みなのに誘って「ごめん」なのか、それとも——。
俺は奥歯で歯茎をぎゅっと噛み締めていた。そうしないと、情けない自分の姿を河西さんに晒してしまいそうだったから。
車はただ、夜の中を走り続ける。
助手席で外を見つめたままの河西さんと、正面だけを見つめる俺を乗せたまま。
朝の五時。宿の外に出ると河西さんはすでにアップを終えたところだった。大学のサブユニホームを着ている。
「飯くった?」
聞かれて俺は首を横に振った。
「終わったら。なんか奢ってください」
「いいよ」
河西さんがはにかんだ。
俺は車に乗り込む。エンジンをつけると、目覚めたばかりの動物みたいに車が震えた。
タイムをとらなくていいと言われていたけれど、やはり気になった俺は、こっそりスマホのストップウォッチを起動した。
「あきら」
河西さんが振り返った。俺は手をあげて返事を返す。
——始まる。
目の前の河西さんの背中に集中する。
体を横に揺らす。
頭を左右に傾ける。
右手で二回、太ももを叩く。
何度も見てきた、河西さんのルーティーン。
無音の中、河西さんがスタートした。やや遅れて、俺もアクセルを踏む。
第六区。箱根の山下り。
多くの山の神を輩出してきた第五区と違って、第六区はあまり目立たない存在かもしれない。だが、第六区こそ勝負を左右する重要な区間だと俺は思っている。
それに、と河西さんの背中を見る。
「あの時の河西さん。かっこよかったな」
*
一月三日。
三年生だった河西さんは、その年も第六区を任された。俺は箱根ホテル小涌園から少し離れた沿道に立って、河西さんが来るのを待った。
冬の山の中だというのに、沿道にはたくさんの人が応援に集まっている。人が立てない場所でさえ、選手たちを見守るかのように、必ずどこかの大学ののぼり旗が立てられていた。
誰もが浮ついた気持ちを抱えながら、手を無意識に握り合わせて、選手たちが現れるのをじっと待つ。うねる坂道のせいで選手の姿を早々に確認することは難しい。
けれども、聞こえてくる。
山が声をあげている!
歓声が波のように繋がって、ワッと押し寄せる。
山から下りてくる風を真正面から浴びた。
河西さんだ。
ものすごいスピードで走ってくる。
風の中にいる。
それは、一瞬だった。
呼吸の音。
額の汗。
膨らんだユニホーム。
そして、
夢中でストップウォッチを押した。
大声で前を走る選手との差を伝える。
河西さんの背中があっという間に小さくなっていった。
めくれ上がっていた俺の前髪が、元の位置に戻る。胸が高鳴っている。
そして、気がついた。
俺は、河西という選手に憧れていることを。
十月。箱根駅伝予選会。
『わずか五秒差』
メディアは俺たちを、特にエースの河西さんを映して悲劇のチームとして報道した。
まさかの出来事だった。
箱根駅伝の出場権を、その日俺たちは逃した。
「ごめん」
立ち尽くす俺たちに向かって、河西さんは何度も「ごめん」を繰り返した。河西さん一人のせいじゃない。タイムも悪くなかった。
なのに、河西さんは頭を下げ続けた。
*
俺はマネージャーだから、選手みたいに走ることは出来ない。けど、この第六区の恐ろしさは実際にあの場所に立って、そして走る選手たちを見て実感していた。
猛スピードで急勾配を駆け下りる、恐怖。
転げ落ちるように第六区を走る。万が一転けたら大怪我を負うだろう。それでも、スピードは落とせない。
それに加えて、第六区の選手たちを襲うのは痛みだ。山を駆け下りた衝撃は膝にくる。そして、潰れた血まめの激しい痛みが、ラストスパートに襲いかかってくるのだ。
第六区は、まさに地獄のような区間だ。
そんな第六区を河西さんは二回も走った。四年生になっても変わらず、第六区は河西さんが走るのだと誰もが期待していた。
——なのに。
「河西さん、今日はとばしてるな」
ちらりとストップウォッチに目を向けて、俺はわずか数秒の速さに戸惑いを隠せなかった。
箱根駅伝に出場出来ないとわかったから、自暴自棄になっているのだろうか。足が壊れてもいいと思って走っているのだろうか。
いや、河西さんに限ってそんなことはない。
そうだ。やっぱり河西さんは、速いんだ。
「河西さん!」
車の中にいるのに、俺は風を感じていた。
河西さんの呼吸の音が聞こえてくるようだった。
走る音。
あの時の、鼓動。
「速い」
このペースなら——。
「もし」なんて考えてはいけないとわかっているけれど、今日ばかりは「もし」と思わずにはいられなかった。
ハンドルを拳で叩いた。
「このままいけば、区間記録だ!」
俺は叫んだ。そして、唇をギュッと閉じて漏れ出そうな感情を抑え込む。
ふと、河西さんの体が横に揺れた気がした。
「河西さん?」
車のスピードを落とす。
河西さんの足がもつれたように見えた。
ハザードランプをつける。
はっとして、俺は静かにブレーキを踏んだ。
河西さんの背中が、大きく上下に動いていた。
足はもう走ってはいなかった。
一歩、二歩とそれでも前に進む。
俺は口元を押さえた。
「前が……見えていないんだ」
憧れた人の背中が、涙でにじんでいく。
河西さんは止まっていた。
風にのって慟哭が聞こえる。
俺はその声を聞かないように、目を固く閉じて、ハザードランプの規則正しい音に耳を澄ませた。
耳元で歓声が湧き上がる。
のぼり旗のはためく音がする。
『さあ、十秒を切りました』
選手たちは、前傾の姿勢になる。
透明な冬の空に、スターターピストルの音が弾けた。
『スタートしました。第百回、箱根駅伝』
透明なスタートライン あまくに みか @amamika
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