第3話

 それは夏休みの初日、7月25日、月曜日のことだった。


 いつものように旧校舎の門へと向かった。

 わずかに頬の流れる汗を拭って、ボクは新校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下を歩いた。それから、旧校舎の古い下駄箱を通り抜けて、今はすでに使われていない古びた門が見えてくる。

 

 すると、真面目腐った表情で佇む彼女の姿があった。


 ボクの足音に気がついたのだろう。


 彼女はチラッとボクのことを見てから、そしてすぐに足元に視線を落とした。


「ねえ、ハルキくん。私、そろそろ行かないといけないみたい」

「そうなんだ」

「うん……それに、もうキミに私の存在は必要ないみたいだから」

「どういうこと?」

「それはキミが一番、よくわかっているんじゃない?」

「初めに会った頃から比べると、今のキミは随分と吹っ切れた顔をしているもの」

「……何を?」


 一体全体に何を吹っ切れたというのだろうか。

 いや、実際、何ひとつも吹っ切れてはいない。


 ボクの問いかけにさくらは何も答えなかった。


 ただ少しだけ……ほんの少しだけ、さくらは口元に笑みを浮かべた。

 ボクたちの間は、わずかに静寂に包まれたような気がした。


 もちろん、そんなことは決してない。

 蝉の鳴き声だとか、遠くの校庭から聞こえる部活動をしている生徒の声だとか、吹奏楽部の生徒たちが練習している不揃いな楽器の音だとかが混じり合っていることは明らかなのに……。


 それにもかかわらず、ボクには、彼女の息遣いが聞こえたような気がした。


 だから、ボクはその音をかき消したくて彼女に言った。


「ありがとう。春乃さくらさん。ボクは君に会えてよかった」


 さくらは、ボクの言葉を聞いた瞬間、口元に笑みを浮かべた。


 そして彼女は少し甘い声で——


「これからは、ずぶ濡れにならないわね」


 と言った気がした。


 なぜかその言葉が、ぐるぐるとボクの脳内に反響し続けた。

 

 気がついた時には、すでにさくらの姿が消えていた。


 生暖かい空気が頬を掠めた。



 なんて事のない話だ。

 彼女——春乃さくらは、幽霊だったのだろう。

 馬鹿馬鹿しいにも程があるが、実際そうだった。


 なんでも、10年前にこの旧校舎から飛び降りて死んだのだと言う。


 自殺の原因は同級生によるイジメだったそうだ。

 図書館で過去の地元新聞のバックナンバーを探すと、簡単に記事がヒットした。

 

 名前こそ載っていなかったが、当時は、進学校での自殺ということもあり意外と大きく取り上げられていたらしい。


 それから、数年後の20XX年の週刊誌の電子記事もヒットした。


 そこには面白おかしく、生徒Sがその美貌により虐められ、その結果自殺したことが書かれていた。どこで入手したのかわからないが、目元にモザイクがかけられた生徒手帳の顔写真付きの記事だ。


 そして奇妙な噂のことも載っていた。

 春乃さくらが旧校舎の門に現れるというのは、噂の全てではない。

 それは噂の一部に過ぎなかったのだ。


 と言うよりも、条件の一つと表現した方が良いのだろう。


 もう一つの条件。

 特定の人の前にしかその姿を現さないという条件だ。


 特定の人というのは——


「なあ、ハルキくーん。ちゃーんと、ジュース買ってきてくれたかなー」

「……」

「おい!聞いてんのかよ!」

「返事しろって!」


 見ればわかるのに、わざわざ聞くなよって言いたい。

 でもその一言が面と向かって言えない。


 ボクは弱い人間だ。

 きっかけはなんだったのだろうかと時々思った。

 けれども、その理由をボクは知らない。

 ……いや、分かりたくもない。


 でも、今はもうそんなことどうでもいい。

 

「はい、これ……」

「っち、とろいんだよっ!」

 

 長髪の彼……名前も言うのもおぞましい。

 市議会議員だかなんだか知らないが、彼の親は有名らしい。だからこそ、こんなにも態度がデカいのだろう。

 その彼が苛立たしげにボクの手からジュースを奪い取った。


「じゃあ、ボクはこの後、授業に出たいから」 


 ボクは彼らに聞こえないように小さな声で一方的に言った。

 ボクの存在なんてどうでもいいのだろう。


 いつもならば隣で茶々を入れる短髪の彼はちらっとボクを見ただけだった。


 お礼のひとつもなく、彼らはおしゃべりに戻った。


 どうやら今日は、おとなしくボクのことを放置してくれるようだ。


 2学期も始まったばかりだというのに、彼らはいつものように、しばらくの間は中庭で授業をサボるらしい。

 彼らの溜まり場を足早に後にして、ボクは急いで外階段を駆け上がる。


 少しカビ臭い階段を駆け上がり、旧校舎の3階まで登った。


 ちょうど炭酸水の『プシュー』と派手に吹き出す音とともに彼らの慌てる声が微かに聞こえた。


「くっそ、あのノロマっ!!」

「あいつ、絶対振ってきただろ」

 

 今は部活棟としてのみ機能した旧校舎。

 その3階のトイレ用具室から用意していたバケツを手に取る。

 

 そして、ボクは3階の外階段から身を乗り出す。

 それから勢いよく中庭に向かって水を落とす。


「雨だー」


 大根役者のような棒読みでそう言ってから、すぐに2杯目のバケツを手に取った。


 今度ばバケツごと中庭に思いっきり落とした。


 彼らの怒号が聞こえてきた。


 ボクは笑い声を上げるのを必死に堪えて、急足で外階段から旧校舎の扉を開けて、校舎に入る。


 すぐに追いつかれるだろう。

 でもそんなことはどうでもいい。


 なんせ高校2年生の2学期は始まったばかりなのだから。


                       (終)

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【短編】始まりの予報〜ずぶ濡れ高校生と旧校舎の美少女 渡月鏡花 @togetsu_kyouka

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