グロテスクII

松本貴由

グロテスクII

「紗和子、超キレイだったねぇ」

「うん。ドレス似合ってたね」

「お色直しのラベンダー色のやつさぁ、ラプンツェルみたいだったよねぇ。紗和子好きって言ってたもんなぁ。いいなぁディズニー婚、わたしもシンデレラ城の前でプロポーズされたかったぁ!」


 なにがディズニー婚だよ、いい年して馬鹿じゃないの。

 そんな台詞を飲み込んで微笑むくらいの処世術は、こんなあたしでも身に着けている。

 白い歯列と塗り直されたヌーディピンクのグロスが、あたしに向けてくっきり半月を描いた。

「あとはみーちゃんだけだねぇ、待ってるよ招待状!」


 愛想笑いを返そうとして、披露宴の途中でトイレに立ったとき前歯に口紅がついていたことを思い出す。何度も口をゆすいだり指でこすってやっと落としたが、こんどは鼻の頭のファンデーションが剥げていることに気付いた。戻った席で、えりなはふんわりきれいに描いた眉尻を下げて「みーちゃんだいじょうぶ? お腹痛い?」……

 なにがみーちゃんだよ、いい年して。トイレ長いからって別に腹下してないし。それともなにか、化粧直しには歯ブラシ必須とでも言いたいのか? そんなのまで入れられるほど大きいバッグじゃないし、ああ女ってほんとめんどくさい。


 思い出したら腹が立ってきた。

 この満員電車に乗り換えたときも、この女は端っこの空席を指して「みーちゃん家遠いんだし座りなよぉ。わたし駅から旦那の迎えあるからぁ」とこれみよがしに笑いかけてきたのだ。


 えりなはドア脇に寄りかかり、細い足首を交差させて立っている。パーティードレスとヒールは濃いネイビーに、ハンドバッグとショールはシルバーで統一され、ゆるく巻いた横髪のうしろでパールのイヤリングが揺れる。ハーフアップにした髪やピンクのネイルにもさりげないラメがきらめいている。どう見ても慶事と分かる装いに車内の男たちの視線がちらちらと注がれていた。

 揃って上向きにカールした長い睫毛、大きな目、すっと通った鼻筋、ぷっくり唇、整えられた肌。生活に余裕のある女の風体だ。えりなは引き出物の大きな紙袋を時折持ち替えながら、リラックスした表情で車窓を眺めている。地下鉄だから景色もクソもないくせに、スマホくらい触れよ。ガラスに映った自分に悦ってるんじゃねえよ。


『旦那の金で整形女、豊胸→目頭切開の次は鼻プロテーゼwww』

 親指でスマホを叩く。実名や写真を晒すわけじゃない、ただ愚痴を吐き出して共感してもらうだけ。これぞSNSの正しい使い方だ。

 すぐさまリプ通知が来た。

『全力嫉妬惨めで草』

 は? 通りすがりでアンチコメントしてくんなよ、誰だよ。画面のキーボードをタップしているとまた通知が来た。

『おつかれ 帰り何時なる、駅まで向かおうか?』『夜ご飯チャーハンあるよ』『お風呂追い焚きして入ってね』

 ああウザい。結婚式で遅くなるって昨日言っといたのに。いい年なんだから子離れしろよ。

 適当なスタンプを返そうとした、その時。


「新型COVIDコロナウイルスの流行から◯年、新たな脅威“GODゴッド”出現! 人類は再び粛清される!」


 爆音のナレーションが車内に響き渡った。

 誰かが端末からわざと流しているらしい。


「アメリカ◯◯州でのパンデミックにおいて大統領が非常事態を宣言しました! 州境にはバリケードと防護服を着用した軍警備隊が配置されています! 周辺都市はすでにロックダウンし、さらなる感染拡大を防ぐための最大の措置が取られています!」

 ニュース映像らしき緊迫した音声のあと、先程のナレーションがヒステリックに終末論だかなんだかを語りはじめる。

 電車内のいくつかの視線は音のする方向を気にするものの、それ以上関わらないようにしようという意志が漂っていた。


 終末論だの陰謀論だの、まだそんなキモいことを言ってるやつがいる。ウイルスについて正しい情報を正しく理解すれば正しい対策ができるのに、コロナ禍を経てもなお進歩しないとは嘆かわしいことだ。

 ワイヤレスイヤホンをはめてスマホのYouTubeを開く。検索窓にゴと打ち込んだだけで“ゴッドウイルス 解説”と表示された。スクロールの一番上に出てきたまとめ系YouTuberの動画を再生する。


『新たに発見されたこのウイルスに感染した人は全身からの出血症状を伴い、理性を失って破壊暴力的な行動に及びます。致死率は100%、感染経路は血液感染ですが血液に触れても感染しない人が一定数おり、その健康状態や身体的特徴にいっさいの共通点がみられないことから、このウイルスは肉体ではなく精神に作用しているのではと考えられています。また感染者の大きな特徴としてウイルスが顔面神経細胞に影響を及ぼし非常に歪んだ表情に変貌することから、“心の醜い者を暴き出すウイルス”として“GOD”と命名されました』


「神のウイルスだなんて大袈裟だよね〜、アメリカはさすがノリが違うなぁ」

 頭上から降り注ぐ声にはっと顔を上げると、えりながあたしのスマホを覗き込んでいた。

 自分の顔だけ見てればいいものを、ほんとに鬱陶しい女だ。思わず睨みつけてしまった。


「いや、ガチな話でしょ。ロックダウンとかしてるし」

「だってぇ、心のきれいな人は感染しないウイルスなんて、そんなのハリウッド映画じゃん。みーちゃん信じてるの?」

「信じるとかじゃなくて実際そうなんだよ」

「でもみーちゃんマスクしてないよぉ」

「それはゴッドが血液感染だからだよ」

「んーそっかぁ。みーちゃんが言うならそうなんだろうなぁ」

 えりなは呆れたように眉尻を下げた。

「でもさぁ、なんかコロナのときも思ってたけど、みんな過剰反応っていうか、怖がってても仕方ないっていうか、ある程度は免疫つけなきゃ生きてけないよねぇ」


 えりなが涼しげに笑うたび、白い歯と控えめなグロスが艶めく。なんなの、あたしが過剰反応って言いたいの? なんの免疫がないって? 人生なんでも分かってるって顔して、自分の発言が人を傷つけてるなんて露ほども思わない。一番たちが悪いタイプ、ああムカつく。

 こういうやつらがコロナ感染を拡大させたんだ。どうせ自分はゴッドに罹らないとでも思ってるんだろう。他人を見下すようなやつの心が醜くないわけないだろ、クソが。


「あ」

 えりなの顎先がくいと上がって、つられて同じ方を見る。車内モニターに流れていた缶ビールのCMがニュース映像に切り替わり、赤字で速報のテロップが映し出されていた。


 “◯◯市でゴッドウイルス感染者確認か、国内初”


 速報に気づいた車内がざわつく。

「マジか、ヤバくない?」

「こわ……」

 慌ててマスクをしはじめる人もいる中、例の爆音終末論信者が声を荒げる。

「ついに日本にも神の裁きが下るときが来た! 悔い改めてももう遅い! 恐れ慄いて粛清の日を迎えるのだ!」

「うるせーぞ黙れ!」

 遠くから誰かがヤジを飛ばすが、信者は宙を仰いで喚き散らすのを止めない。それを睨みつけながら座り直すおばさん、煙たそうな顔で寝たふりをするサラリーマン、若者の集団はヘラヘラとスマホを向け、他の何人かはそそくさと車両を移動する。

「でも血に触らなきゃだいじょうぶなんだよね、みーちゃん」

 身をかがめてあたしに囁いたえりなの顔はすこし強張っていた。どいつもこいつも滑稽だ、笑いがこみ上げてくる。


 その時、若者たちの視線が泳いでいるのに気づいた。彼らのスマホカメラは騒いでいる人ではなく別の方に向けられている。

 えりなと同じようにドア付近に寄りかかっている若い男性。シンプルな服装に黒マスク、地味なはずなのにまるでお忍びの韓国アイドルみたいなオーラがある。

 有名人だろうか、どこかで見た気がする。名前なんだっけ? たしかさっきのYouTuberがまとめ動画を出していた。履歴を辿ると、ああこれこれ、思い出した。

『【サイコパス】イケメン医学生、ついに指名手配【◯◯区女子大生連続殺人事件】』

 

 動画を再生しようとした時、車両の前方でうわっと大きな声がした。隣の車両から移動してきたウーバーイーツの人が立っていたおじさんにぶつかったようだ。

 よろけて倒れこんでしまった二人に周りの人が手を貸そうとしたその時、配達員がうぐっとえずいた。悪い予感がする間もなく、配達員はおじさんの顔めがけてあり得ない量の血を吐いた。

 ……血?


 若者の甲高い悲鳴が車内を駆け回る。必死で顔を拭うおじさんの前に立ちはだかる配達員の顔は筋が攣って骨が浮き出ていて、見開きすぎて目頭も目尻も切れ、鼻からも耳からももちろん口からも血が垂れていた。

 配達員は言葉にならない声を上げながらおじさんに襲いかかり、汚い悲鳴がこだました。

「ゴッドだ!」

 誰かが叫んだ瞬間、配達員の後ろのドアが勢いよく開いて、唸り声とともに血まみれの人々が押し入ってきた。そう、まるでハリウッドのゾンビ映画のように。


 やばい、やばいやばいやばい。弾かれたように席を立った瞬間、視界が傾く。胸と顎を強打して口の中に生臭い味が広がる。滑ったと認識したときには誰かの革の裏が顔面に降り注いでごきりと変な音がした。

 体を丸めたら腹を蹴り上げられて呼吸が飛ぶ。背中をめちゃくちゃに殴られる。不明瞭なダミ声と生温かい液体が飛び散る。痛い、痛い、痛い、鼻の中も口の中も鉄臭い。だれかに足首を掴まれて引っ張られる。振り返ることもできず必死で足をばたつかせ、腕の主を何度も何度も蹴りつける。そいつはぎゃっと叫んで爪を立ててきた。痛い、なにこれ痛い、意味わかんない、逃げなきゃ、逃げなきゃ、離せ、離せ、離せ!

 全力で踏みつけるとようやく離れた指先からラメの付いたピンクのネイルが弾け飛んできた。四つん這いのまま座席を手繰り寄せて膝をつく、なんなの全身痛い、ベージュのドレスが真っ赤ニなっている。車両が揺れてる、だれがなにを叫んデいるのかもわからない、窓が割れた、蛍光灯がチカチカすル、血飛沫、ちがう視界ガあかい、なんで、どうなってルの、あれ、この窓に映っテいるのはダれ? 鼻が折レテ目も腫れて、血がダラダラ垂れてル、ぼさぼさ頭で皺々で醜悪ナこの女ハあたしなの、違ウだってさキレイに髪の毛結っていッタじゃん、メイクもがんバってしタじゃん、おメカシしタヨこんナ、こんなコンナ血みドロでシワシワで醜いノがアタシなンテそんナノオカシイヨ!!


「ミーチャン、ドコイクノ、イタイヨォ」


 ウシロカラ声ガシタ。

 ユルフワノ髪、長イ睫毛、大キナ目、通ッタ鼻筋、プックリ唇。

 ナンデエリナハ血マミレナノニキレイナノ?

 アンナニ蹴ッテヤッタノニ。

 フザケンナヨ。

 アンタダケキレイダナンテユルサナイ。

 アタシハコンナニナッテルノニ!

 ユルサナイユルサナイユルサナイ!!



 ***



『地下鉄〇〇線△△駅区間は閉鎖され、自衛隊により当該列車は制圧されました。現場は阿鼻叫喚の惨状を極めており、生存者はいないとのことです……』


 規制線のはるか向こうで報道カメラマンたちが最前列を確保しようと躍起になっている。

 現場に入った医療関係者そして警察関係者は全員が防護服を着て検証にあたった。封鎖された地下鉄のホームにはビニールが敷かれ、比較的原型を留めている遺体が並べられていた。

 刑事は吐き気をこらえて血まみれの遺体を直視する。ほとんどが歯型すら歪んだ断末魔の形相で事切れており、それがウイルス感染によるものなのか暴行によるものなのかも見ただけでは判別がつかない。

 全員の身元照会は骨の折れる作業だが、服装をみればある程度は進められそうだった。ビジネススーツに学生服、デリバリーのユニフォーム、パーティードレスを着た遺体もある。それぞれに人生の喜怒哀楽があっただろうに、誰もが平等にという末路を迎えたのだ。刑事にはウイルスが感染者を選んでいるとは思えなかった。


「おい、見てくれ」

 同じように現場を鑑識していた仲間が、戸惑ったように刑事の腕を叩く。促されるまま横たわる男の顔を見て刑事は愕然とした。

 ――野上マサト。昨年◯◯区で起こった女子大生連続殺人事件の容疑者だ。若い女性の顔を傷つけて殺すという残忍な犯行、そして整った容姿や高学歴のハイスペックなエピソードが若者の間で話題となり、指名手配犯ながらカルト的人気を博していた人物である。

 今回のパンデミックが起こる直前に乗客からの目撃情報が多数SNSにあがっていたため、野上を追っていた刑事が現着したのだった。


 刑事は取り調べでの野上を覚えていた。あの端正な顔、少年のように無邪気な笑み、自分は嘘なんてついたことがないとまっすぐなまなざしで見つめられ、詰問をたじろいだこともあった。物的証拠不十分で勾留を解いたが、捜査を進めるうち殺人嗜好をもった異常な人物であることがわかり、指名手配に至った。

 あの顔で何人もの女性を誘い出し手にかけたのかと思うと、『こんなイケメンに殺されるなら女も本望』などという軽薄な世論が許せなかった。そしてなにより殺人犯をみすみす取り逃がした自分が。


 その野上がパンデミックで死んだのだ。名もわからぬ顔面の歪んだ遺体に囲まれて、

 刑事は神を憎んだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

グロテスクII 松本貴由 @se_13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ