神子殺し

第1話

 一目見た時に往来した感情は、どうしようもない憎しみだった。腹の奥から湧き上がってくるような憎悪をなんとか抑え込み、ナイフを強く握る。“祝福”を持たないクズでも、暗殺くらいは容易にできるはずだ。

 石畳の街道に幸福な表情の民衆が集い、目抜き通りは活気に溢れている。馬上鼓笛隊の喇叭ラッパの音が響き渡り、誰かが投げた紙吹雪が風に乗って空を舞う。中央広場から大聖堂までの短い距離に、ここまで多くの人が集まるのは珍しい。

 剣や槍を銘々に持った近衛兵が奴の乗った馬車を護衛し、集う人々を牽制する。そのどれもが本気の警護ではない。これはお披露目の為のパレードで、きっとアイツは民衆の期待に応えて窓から顔を出す。俺はナイフを懐に忍ばせ、その機を伺っている。


 ヘクターは愛されている。この国の民衆にも、貴族院や教会の権力者連中にも、或いは神にも。まだ成熟していない子供が生み出す奇跡は人々を熱狂させ、“祝福”は新たな信仰と権力を生み出す。柔らかい金の髪に映えるような無垢な笑顔は、人の上に立つために生まれてきたかのようだ。

 馬車の窓からアイツが顔を出す。ヘクター・リヒト。誰もが愛する若き王にして、祝福を受けた神の子。俺とは、海のように蒼い瞳の色だけが同じだ。


 俺は馬車の前に躍り出ると、気を抜いていた近衛兵の命を奪い去る。御者を殺し、馬を殺し——ヘクターの下へ詰め寄るのは酷く容易な事だった。


「ヘクター・リヒトだな。大聖堂まで同行してもらう」

「どちら様ですか? ……外が騒がしいのですが、何か事故が?」

「馬車から降りろ。命が惜しくないなら」

「……謁見なら、ここで話しませんか? わざわざ大聖堂に行くのも大変でしょうし」


 ヘクターはそう言って静かに笑う。

 誰もが愛される若い王の事を、口さがない者は“白痴”と呼ぶ。俺の前でそれを言った者は皆平等に死体になったが、それは誤りでも的外れではない。

 光の神子の蒼い瞳に、光は宿らない。神がヘクターに唯一与えなかったのは、視界を覆う光だ。

 盲目の王子は、俺の顔を知らない。アイツの陰で汚れ仕事をしてきた、『王家の影』の存在を。


    *    *    *


 物心ついた時から、「両親は死んだ」と聞かされていた。辺境の孤児院は決して裕福とは云えない環境で、俺たちは少ない食糧を必死に奪い合った。王都から山を隔てた侯爵領は、“祝福”の届かない貧しい土地だ。生き抜くためには、さっさと孤児院を出て食い扶持を稼がねばならない。


 十四の夏、俺は初めて盗みを働いた。金貨を盗むために忍び込んだ屋敷でヘマをし、警吏に身柄を拘束される。熱した鉄の棒で殴られる罰から俺を救い上げたのは、その屋敷の主人だった。

 『黄昏卿、ヘルデン侯爵』の名を知ったのはそこだ。俺を拾った卿は、その罪を糾弾する代わりに住む場所とナイフを俺に提供した。その意味を理解したのは、王都でヘクターが“光の神子”として知られ始めた時期——拾われて数ヶ月が経った頃だ。

 侯爵領は痩せた土地だ。祝福が無ければ作物も満足に育たない。数年に一度、王都から巡行でやってくる王の祈祷によって、遍く大地に祝福が広がるのだ。卿は、それを好機と捉えた。


『これで、王家の障壁を排除しろ』


 卿の野心は、王家に近付く事が狙いだった。当時の王との秘密裏の会談で創り上げた“王家の影”は、反乱を画策する貴族や王家以外の権力を握ろうとする者を暗殺する組織である。

 俺には何も無かった。頭が良いわけでも、力が強いわけでも、畑仕事ができるわけでもない。できることと言えば、誰かを殺すことくらいだろう。俺は言われるがまま、王家の懐刀になった。


 やがて現れたヘクターの存在は、侯爵領に恵みを生んだ。光の神子が祈れば、大地の神からの祝福か、作物が次々に実を成していく。幼い神子は、辺境の地でも救世主と呼ばれ始めていた。盲目の王子は俗世の穢れを知らないまま、全ての人に愛されているかのように生きていく。その裏で人を殺す俺の存在など、最初から居ないかのように。


 ある日、黄昏卿ヘルデン公爵は死んだ。死の直前はヘクターに近付く事を画策していたようで、事あるごとに彼の近辺に接近していた。当然、殺したのは俺だ。

 枢機卿アンダリーも、近衛兵長ライドリッヒも、教導師長エルシドも、皆がヘクターを利用しようとしていた。後見人に名乗り出れば、今後の地位は盤石だ。誰もがヘクターの放つ光を求め、羽虫のように群がっていく。醜悪だ。

 だから、ここで全てを終わらせる。俺はナイフを構えて、ヘクターの戴冠式に忍び込んだ。


    *    *    *


 祝福の喧騒が悲鳴に変わる。すぐに終わらせなければ、憲兵に取り囲まれて計画は終わりだ。捨て鉢な暗殺計画に再挑戦はない。

 俺はナイフを手に取ったまま、盲目の神子を視界に捉える。外で人が死んでいることなど意に介さないかのように、その表情は微笑んだまま不変だ。動かない視線が瞳の蒼を強調し、絵画めいた雰囲気さえ醸し出している。


「……殺しにきた、アンタを」

「私を? そうですか、遂に……」


 暗殺対象に選ばれた者の反応は、大きく分けて2つだ。『怒り』か『恐れ』。命が尽きる事を理解した相手は、そのどちらかの反応を示す。

 ヘクターはどちらでもなかった。暗殺が何を指すかを理解していないか、既に覚悟が決まっているのか。まるでそれが天からの運命だとでも言うように、若き王は俺の宣告を黙って受け入れる。


「……逃げないのか?」

「逃げて何になるというのです? 私は盲目で、一人で歩くことさえ満足にできない。運良くこの場から脱出できたとして、貴方の殺意からは逃げられないでしょう。それに……これは、きっと天命ですから」


 気に入らない。

 ヘクター・リヒトの全てが気に入らない。


 初めてその表情を見た時、奇妙な既視感を覚えた。瞳の色が同じだけの薄い繋がりを手繰り寄せ、俺の死んだ両親について調べたことがある。

 墓があるはずの場所に、父親の名前はなかった。母親はかつて王都で暮らしていたらしく、辺境に居を移した直後に王都でヘクターが産まれたようだ。


 これは万に一つの可能性だ。大真面目に話せば笑い物になる与太話だ。だが、ヘクターが産まれるまで後継者に恵まれなかった王家の、その意味を類推してしまうのは当然かもしれない。


 俺は、ヘクターの異母兄だ。


「そうやって、全てから愛されたまま死ぬつもりか?」


 王家に伝わる祝福の力を、俺は受け継がなかった。受け継げなかったのだ。ただ能力がなかっただけで片方は全てから愛され、もう片方は日陰者だ。それなのに、アイツは生にしがみつく事もない。

 無様に助けを求めろ。「死にたくない」と叫べ。俺を憎んで、お前の権力を利用しようとする連中に憤れ。そうしないと、お前は“神の子”としてその生を終えてしまう。

 誰もに愛される人間などいるわけがない。お前は神でも何でもないのだから、俺はお前を人間として否定する。お前を唯の人間のまま殺して、神格化させることは決してない。


「アンタが王として生きるために、何人の邪魔者が犠牲になったか分かりますか?」


 我ながら意地の悪い質問だ。邪魔者を手に掛けたのは俺で、ヘクターは恐らく何も知らない。本来なら何の責任もない存在だ。だが、それがどうしようもなく気に入らなかった。

 一人だけ安全圏に居ると思うな。お前の人生で無意識に踏みつけてきた存在を知覚しろ。口を衝きそうになる言葉を抑え込みながら、俺はナイフを静かに突きつける。


「だから私の死も天命なのです。その生が犠牲を産むなら、私にも背負うべき罪がある。……殺してください、それで貴方が満足するなら」

「……違う。それじゃ、まるで」


 ヘクターは見えないはずの眼で俺を真っ直ぐに見つめている。蒼い瞳が潤み、頬を涙が伝った。


「名乗ってください。最期に出逢った人の名は、覚えておきたいんです」

「名前、か」


 暗殺を生業としてから、それまで名乗っていた名は捨てたはずだ。それでも覚えているのは、母親が遺した唯一の物だからだろう。


「……ライオットだ」

「ライオット。あぁ、成る程……」


 涙を流しながら、盲目の王は口元を微かに緩めた。


「今までお世話になりました、ライオット義兄にいさん」

「な、んで……?」


 知らないと思っていた。俺の存在も、暗殺者に身を落としたことも。だから憎んでいられた。だから許さずにいられた。なのに、なのに。

 武器を持つ手が無様に震える。この感情は怒りなのか哀しみなのか、それとも困惑なのか。あらゆる感情が脳裏を行き来し、俺は一つの命題に辿り着く。

 単純な話だ。俺は、ヘクターに存在を知ってほしかったのだ。臣民に向ける慈愛の表情のうちのたったひとつでも、愚かな暗殺者に向けてほしかったのだ。


 憲兵の怒声が響き渡る。時間切れだ。間に合わなかった。俺はナイフを放り投げると、諦めの溜め息を吐く。


「義兄さん、やっぱり……」

「人違いだ。俺はただの暗殺者で、アンタを殺しに来た。それだけの話だよ」


 俺はじきに処刑され、ヘクターの治世はこれからも盤石だろう。神に愛されるほどの男なら、俺のような不届者も懐柔してしまうかもしれない。王家の影の存在は、もう不要だ。


 どうも、天命があるのは俺の方だったようだ。俺はお前を嫌ったまま、笑って死んでやる。

 負け惜しみにも似た勝利宣言をしながら、俺は馬車から降りる。


 盲目の神子の記憶に『ライオット・リヒト』という存在が残ることを祈りながら。

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神子殺し @fox_0829

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