汀に遺せしもの

ごもじもじ/呉文子

汀に遺せしもの

 幼い頃、俺はかみなりが恐ろしかった。遠雷の音がかすかに響くだけで、身の内がすくんだ。そのような折には、幼子おさなごはおそらく親に泣きつくものなのだろう。だが、俺には甘えられる親がいなかった。母は俺を生むと、しばらくして死んでしまったらしい。親父も体が悪く、ずっと寝たり起きたりで、頼りにするにはあまりに心許こころもとない。


 幸い、雷雨の始まりには常に兄が家にいた。ゴロゴロと空が鳴り出す前に、兄は畑から帰っている。野良の仕事のためか、兄は天候には人一倍敏かった。囲炉裏端いろりばたに座るその膝上に、俺はすぐさま飛び乗り、耳をふさいで、あるいは兄の胸にしがみついて雷をやりすごす。


 五つ六つの折だったように思う。その年は特に落雷が多かった。

 万一雷が落ちてこようものならば、このあばら家など消し飛んでしまう。俺は兄の膝の上で尋ねた。

 にいちゃん、もし、かみなりがここにおちたら。

 兄は大層愉快そうに、そりゃあ、その時だ、と答える。

 その刹那、耳をつんざくような轟音が響き渡った。ずいぶんと近いな、と兄は俺を横に置き、格子窓こうしまどから外の様子を伺う。

 あちらの方角が光っていたな。落ちたのは、湖か。兄が呟く。この村から山ひとつ越えた先に、小さな湖があるという話は聞いていた。

 兄は続ける。湖のぬしが、天に昇ったのかもしれんなあ。

 どういうことなのかを尋ねると、兄はにやりと笑った。そして、本当か嘘かわからない口調で、俺に告げる。

 あの湖には、主がおる。主は龍の姿らしい。龍は時折、雨雲を集め、雷を呼び、それをしるしに天に昇るという話よ。先の雷は、大方、湖に飽いた湖の龍が呼んだに違いなかろう。

 りゅう、と、俺は繰り返した。兄の語る話に、外の雷鳴の恐ろしさなど、頭から抜け落ちていた。

 そうだ、と兄は続ける。今、湖に行けば、龍の鱗一枚、爪ひとつぐらいは残っているやもしれん。拾うた者は運が良い。鱗ならば長命ちょうみょうの薬となる。爪ならばそれはそれはたこう売れよう。やれ、あやかりたいものじゃ。

 そう言って、兄は俺の頭をくしゃくしゃに撫でる。俺はそれを邪険に払いながら、今、兄が語った話について、幼い頭で必死に考えを巡らせていた。


 それからしばらく、明けても暮れても龍のことばかり思う日々だった。龍。その姿は知っている。寺の境内けいだいの彫物で、たびたび目にしていた。それが、湖に潜んでいたとは。


 俺は、龍が空へと帰る様を思う。叩きつけるような雨が湖面を揺らす中、突如、水が真二つに割れる。割れた湖面から、龍の鼻面がぬっと出てくる。まず頭。次に体。長く大きな蛇のごとき体は、白銀の鱗に覆われている。湖から立ち上るその姿を、稲光が照らす。目も眩む銀の輝きを放ち、龍はただひとすじに天に昇っていく。天に帰った龍は、渦巻く雨雲を引き連れ、さらなる空の深みを目指す。それはさぞや美しく、神々しい様であったろう。


 龍のおらぬ湖には、もはや価値はない。だがしかし、もぬけの空でもいい。せめて、湖だけでも見てみたい、と幼い俺は思った。そこにあるのは、好奇の心ばかりではなかった。兄の言葉が頭をよぎる。龍の鱗は長命の薬。龍の爪は高値で売れる。もしかすると―――万が一ではあるが、ひょっとすると、湖には龍の遺物がまだ残っているやもしれぬ。そうも思った。


 兄が苦労しているのは、幼子なりに知っていた。朝早く野良に出、飯の煮炊きをし、俺や身体の悪い親父の世話を焼く毎日だ。少しでも兄の役に立ちたい、とおぼろげながら思うていた気がする。


 湖に行かねば、と決心がついたのは、あの雷の日から三日も四日も経った頃だったであろうか。山向こうの湖。童の足では半日、いや一日仕事だ。しかし、行きさえすれば何とでもなる、とも思っていた。朝、畑に出る兄を見送ったあと、支度をした。支度と言うたところで、釜の底にこびりついた飯をこそいで丸めたものを、竹の葉に包み、背にくくりつけるぐらいであったが。


 おそらく、あちらの方角であろう、と目星をつけて歩き始める。道を進んでいるうちに、向こうから馬を引いた男が近づいてきた。隣の家の文三ぶんぞうだ。文三に、どこに行くんじゃ、と問われた。そこは子どもの浅はかさで、山向こうの湖じゃ、とそのままに答えてしまった。はあ、まあ、湖か、兄ちゃんは知っとるんか、と重ねて問われる。さすがにまずかったと気づき、知っとる、と嘘をついた。文三は怪訝な顔をしながらも、それより深く問おうとはせず、さよか、気いつけえ、と、俺とすれ違った。


 山道は―――今思い返せば、さほど勾配のない、緩やかな道であったが―――当時の俺には、果てなく続く手強い上り坂であった。木々の覆い被さる山道は、昼でも薄暗い。道のすぐ側まで迫る森の中には、獣やらが潜んでいるのではないか。考えるだに恐ろしく、ただ足元だけを見つめ、息が上がる中、一心に峠を目指した。山の尾根までたどり着き、やれ嬉しや下り坂、と思いきや、かえって辛さは増した。今度は足に力をこめ、ふんばらねば転げ落ちる。草履ぞうりの鼻緒が足に食い込み、泣きそうになった。


 痛む足を引きずりながら、ようようたどり着いた湖。それは、わらしの目から見ても、あまりにもささやかな溜まり水でしかなかった。湖面は凪ぎ、ちらちらとの光を跳ね返す。湖水はどこまでも澄みわたり、かえって、その底の浅さを際立たせた。俺は湖のぐるりを回る。たちまちのうちに一巡りしてしまう。龍のいた気配など、微塵もない。


 それでも俺は、龍の跡を探した。鱗が。髭が。爪が。一枚、一本でも残っていはしまいか。その麗しくも恐ろしい姿を思い描きながら、懸命に探した。草履を脱ぎ捨て、足を水に浸し、俺は水辺をさらい続ける。龍の角か、と駆け寄れば、それは朽ちた枯れ木であった。俺は波打ち際でさざ波を蹴った。やがて蹴ることそのものが楽しくなり、ひとり遊びに興じていた。


 いつごろからか童らが集まり、じろじろと俺をめつけていた。おそらく最も年嵩としかさの童が、見らん顔じゃ、どっから来た、と言った。俺は、山向こうからじゃ、と答える。その童は、ふん、と鼻を鳴らした。そして、今から鬼事おにごとをする、お主が鬼じゃ、と、俺を指差した。童らは、わーっと一斉に走り、三々五々に散る。足の痛みも忘れ、俺も走り、中のひとりを捕まえた。かわるがわる誰かが鬼となり、それは果てなく続くように思われた。


 やがて、山のに日がかかり、空が茜に染まる頃となった。気づくと、辺りは薄暗くなりかけている。誰からともなく、やめじゃ、帰ろ帰ろ、という声が上がった。そして、ひとり抜け、ふたり消え、とするうちに、俺はただ一人残された。これから、この宵闇が徐々に深くなる中、帰路につくのだ。俺は足元が崩れ落ちるような思いに襲われた。


 遊び疲れてくたくたの体を、引き摺るように進む。帰りの山道はひときわ暗く、ただひたすらに恐ろしさがつのる。さらには、どこからともなく遠吠えが聞こえてきた。それに和する鳴き声が、徐々に数を増す。あれは、犬か。狼か。見つかる。見つかったら喰われてしまう。なんとか足早に坂を登る。ふいに、ぶつりと草履の鼻緒が切れた。草履を捨てて歩くも、鋭い石が足にじかに触る。二、三歩ほど歩むと、足の裏が痛くてたまらない。俺はとうとう、声をあげて泣いた。大声で、わんわんと―――。もはや、野犬も狼も、どうでも良かった。


 ふいに、何か大きなものが、道の向こうから駆け寄ってくる気配があった。暗くて何もわからない。熊か猪か。もう良い。どうとでもなれ。

 影から声が発せられた。

 おい、大事だいじないか。

 兄の声だった。

 俺は兄とおぼしき影にしがみついた。そして、一層大声で泣いた。兄は何も言わず、ただ俺の背を、その大きな手で擦りつづけていてくれた。


 俺は兄に負われ、山をゆっくりと下る。日頃の野良仕事で鍛えられた兄の背は広く、温かい。

 なんでわかったんじゃ、と兄に問うと、文三に聞いた、と答えが返ってきた。

 湖は遠かろう。まあ、今日のところは、帰って休め。

 兄は俺を責めなかった。安堵した俺は、兄の背に顔をうずめる。

 ふと不安がきざした。兄もまた、どこかに行きたいと思うことはないのだろうか。俺は兄に尋ねる。

 にいちゃんは、おれとずっといっしょにいてくれるかのう。

 当たり前じゃ。何を言う。

 兄の答えは力強く、揺るぎない。

 しっかりとした温かな背に揺られるうち、とろとろとまどろむような心地となる。いつしか俺は、眠りに落ちていた。

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