悲しみの調理法
柊木てん
第1話
「そんなら玉ねぎを切るといいよ」
広瀬さんはこともなげに、あっけらかんとそう言った。
「そりゃ、確かに玉ねぎで涙は出るけど……」
「いいのよとりあえずはそれで」
私の不安をよそにレモンが沈んだままの渋そうな紅茶を一口飲む。ソーサーに戻されたカップの中身は、もう半分以下に減っている。
広瀬さんは職場の同期で、お昼休憩によくランチへ行く仲だ。しかしプライベートでの関わりはあまりない。仲が良くてもそれは業務時間内だけで、それが終わればさっと別々に帰るような、そんな関係。でも一人の時間が好きな私にとってはそれが気楽で、彼女のさっぱりとした所も好ましいと感じていた。
「溢れる前に無理に出しちゃうのよ。そしたらしばらくは安泰でしょ?」
「そういうものかしら」
「そういうものよ。人の心なんて」
そう言って、広瀬さんはカップの裏が見えるほど豪快に紅茶を飲み切った。
――五年。
心の中で呟く。
五年という歳月も、そんなことで簡単に流れていくものかしら。
私が二十七歳から三十二歳の間、一緒にいた人だった。気が合って、食べ物の好みも同じで、二人でいる時はいつも笑っていた。喧嘩したり、ましてや私が彼の前で泣いたりすることなんて数えるほどしかなかった。当然結婚するものだと思っていた。
――それがあんな別れ方をするなんて。
ヒールを鳴らしながら駅前のスーパーで玉ねぎを買う。オレンジの網に入った、三玉入りのやつだ。籠に入れると片側だけがぐっと傾いた。意味もなく野菜売り場を一周して、日用品の列を通りレジに並ぶ。
――女なんて三十過ぎたら誰も相手してくれないんだから、せめて二十代のうちに言ってくれればよかったのに。
黒いビジネスバッグの中から雑誌のおまけかなんかでついてきたエコバッグを取り出し、会計の終わった玉ねぎとレシートを入れる。
スーパーから出ると乾いた風がまともに吹き付けてくる。その冷たさが沁みたのか、目がまた潤んだ。
彼が家から去った時、わあわあ声を上げて泣くと思った。鼻がつんとして、目に涙の膜ができて、それがそのまま目尻から落ちていくのだと。しかし泣けなかった。涙は瞳の奥にすっと引っ込んでいった。
次の日も、その次の日も、私は泣かなかった。人は悲しすぎると逆に涙が出ないものなのかしらと思った。でも心はいつだって涙を流す準備をしていた。
家に帰って手を洗い、部屋着に着替えると早速キッチンへ向かう。冷蔵庫に入れない野菜を保管してるストッカーを覗くと、今日買ってきたのと同じ玉ねぎがふたつ残っていた。どちらも網から出してごろごろとまな板の上へ転がす。
――こんなに買って、どうしようか。
玉ねぎをあめ色になるまで炒めて作るカレーにでも挑戦してみるか、と全ての玉ねぎの皮を剥き、早速みじん切りにしていく。休日やることがなくて丁寧に研いだ包丁の出番だ。
半分に切って、縦横に包丁を入れる。鼻がつんとしてきた。玉ねぎを半回転させて更にざくざく切っていく。痛いほどに目が沁みて思わず目を瞑った。
不意に、背中から孤独が押し寄せてきた。どうしようもなく、今この部屋に自分一人なんだなという気持ちになった。
滲む視界を瞬きで耐えながら包丁を動かす。瞼がぎゅっとなっても、切った玉ねぎが濡れても構わず手を動かし続けた。
私の目の前には美味しそうなカレーがある。具は玉ねぎだけの、とろっとして甘い匂いのするカレーだ。
スプーンで一口掬って食べると、やさしく心に響く味がした。あっ、と思って食べかけの皿を写真に撮って、メッセージアプリで送信する。宛先はもちろん広瀬さんだ。
二口目を食べている間に返信を知らせる着信音が鳴り「そんなもんでしょ」と返信が来た。
「そんなもんだね、人の心なんて」
五年分の涙の入ったカレーは少しも辛さを感じなかった。
悲しみの調理法 柊木てん @hirgten
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます