第5話
「紅葉」
──いったい、これはなにごとだろうか。
パチリと目を開ける。紅葉はびしょ濡れで皇帝の膝に横向きで、抱き締められていた。
理解が出来なかった。目を泳がせる。煙る水飛沫。
ざぁっと流れる音。一瞬、左右に滝がある錯覚を起こす。どうやら紅葉たちを中心に池の水が真っ二つに割れているようだ。
「心臓が止まるかと思った」
「あのこれは」
目を白黒させる。皇帝は優しく紅葉を見下ろした。
「俺が魔法で池の水を割いた」
「裂く! すみません。私」
いまいち状況が読めず紅葉は胸に手を押さえる。手には朔夜へ贈る手巾を持っていた。
目ざとく皇帝は気がつき、紅葉の手から、それを、すっと奪ってしまった。
「それは……」
「孔雀の刺繍か」
紅葉は黙る。
「緑じゃなくて、金にしたんだな」
「えっ」
皇帝は怒っているような、困っているような、表情で紅葉を見る。
「まだわからないのか」
「えっ?」
紅葉はきょとんとする。
「朔夜は俺だ」
「えぇ!」
紅葉は滝のような割れた池の上を見た。朔夜は上にいるはず。
皇帝がムっとして紅葉の左頬に触れると、グイッと無理矢理、皇帝に向かせる。
「あれは俺の指示で動いてるだけの側近だ。それに、声でわかるだろう。気づいて欲しかったんだ。まさか……あんな不安そうな顔をするなんて、言い出せなかった」
紅葉は混乱の極みだった。動揺であっぷあっぷっと魚のように口が開く。
「えっ、朔夜が皇帝で……皇帝が朔夜? ええ、どうゆうこと、夢? これは夢」
紅葉はほっぺを捻って見る。皇帝はちょっと目を細めて呆れている。
「兎に角、池からでよう」
皇帝はなにかしら指を動かし印を結ぶ。すると、どこからか風が吹く。
しだいに、ひらひらとピンクの物が上から降り注ぐ。
なに?
それは月下花の花びらだった。花の香りが充満する。
花たちは舞い踊り、寄り塊り、巨大になった。形が形成される。色がピンクから金になる。
紅葉は目を見張った。目の前には三メートルはある、金の孔雀が優雅に立っていた。それもこれは……。
尾っぽのところに一筋だけ赤い柄がある。それは十歳のときに紅葉が介抱した傷ついた孔雀に酷似していた。
皇帝はにやりと笑った。
「わからない? あの傷ついた孔雀も俺だよ」
「!」
皇帝は言うと素早く、紅葉を横抱きにして立った。悲鳴をあげる。
皇帝は紅葉を無視して、跳躍すると、三メートルはある孔雀の背に乗った。
紅葉は度重なる衝撃で心臓が出てきそうだった。展開についていけない。
──助けた孔雀が皇帝で、皇帝が朔夜で……つまり、私が好きな人は……。
間近の皇帝を見やり、頬が、かっと熱くなる。それに気を良くしたのか皇帝はコツリと額と額をくっ付けた。
──ひぇぇ。
「俺はね。今日を心待にしてたんだ」
巨大な金の孔雀が大きな羽を広げる。ぱさぱさと羽ばたく準備をすると風に煽られ、皇帝の綺麗な髪が紅葉の頬を優しく撫でていく。
「今日のために色々大変だったんだ。紅葉を後宮に入れたのは俺だよ。まさか余分な妹までついて来るとは思わなかったけど。ふふ。理解できないって顔だね」
後宮に呼んだのは皇帝? 呼ばれた理由がわからない。
紅葉は声も出せずにいた。そして、ようやく額が離れ、安堵した。
「俺はね三十人いる皇太子の中で一番末だったんだ。前皇帝である父に会ったのは二度ほどで期待もされていなかった。はっきり言って愛情なんてものも無かったんだ。ああ、心配しなくても、育ての月人には、ちゃんと愛情はあったよ」
皇帝は紅葉の心配げな表情を見透かしてなのか、くすりと笑って答えた。
魔法で心を覗かれたんじゃないかと紅葉は焦った。
「心なんて読んでないよ。わかりやすいんだよ紅葉は」
くすくすと優しく皇帝は笑う。すぐに、顔を引き締められた。
「それが俺が十三歳のある日に、高齢の父は崩御されたんだ。俺は跡継ぎには兄たちがなるんだと思っていたのに、まさか、魔法量の多さで皇帝につくことになるなんて、あのころの俺は知らなかったんだ。俺ね、権力争いとか大嫌いで、駄目王子のフリをしてたんだ。面倒だったからね。実はかなりの魔力を持ってる。でも、隠してればバレないと高を括ってたんだ。ところがだ、魔法石で質量を計るものがあって計らされた。石は誰よりも光って若干十三歳の俺が皇帝の座につくことになったんだ。──っで俺は、それが嫌で、下界に逃避した」
「下界に……」
「そう。金の孔雀に化けてね。だけど、そこでヘマして怪我をした」
皇帝の貫くような甘い視線が紅葉を捉える。
「そして紅葉に会った」
──じゃあ、あの金の孔雀は本当に皇帝だったんだ。
とくとくと心臓が騒ぎ出していると、ふわり、と急に体が浮く。巨大な金の孔雀が飛び立ったのだ。
孔雀は両翼を羽ばたかせると、池から飛び出る。途端に、ざぶんと割れていた池が元に戻った。
孔雀はさらに高く飛んだ。下を見ると船があんなに小さい。
池に浮かぶ船が煽られ、大きく揺れて、悲鳴が飛び交っていたが、皇帝は気にしてない。大きな満月が二人を照らす。
「俺が月に帰ってから、どれだけ会いたかったかわかる。ようやく会えた。長かったよ」
息が止まりそうだった。胸がぎゅっと締め付けられる。
──私もずっと朔夜に会いたかった。
「お忍びで、ってか逃げで、孔雀に化けて下界に降りて、紅葉に出会って、介護されて、色んな感情をもらったよ。出会ったのが紅葉で良かった。本当はあのまま留まりたかったけど、それじゃぁ本当の意味で紅葉が手に入らないと思って月に帰った。色々手続きさせて紅葉を後宮に呼んで、まさかこんな所で妹たちに虐められると思わなかったよ。泣いてる姿に我慢できずに月から声を掛けることになった」
「どうして」
「まだ、わからないの」
皇帝は紅葉の首にぶら下がっている月の雫のネックレスを指でなぞり手に取ると、ネックレスにキスをした。
「俺ね。このネックレスからずっと覗いていたんだ。だから紅葉が唇を寄せるのを見てた。見たかったし、意味わかる?」
──えっと、どうゆうこと……。
っと思いつつも紅葉は頬を染めた。
戸惑う紅葉に、皇帝は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「言っとくけど、もう、逃がさないよ。俺の妃はひとりって決めているから」
「まっ、まって、そんなこと」
「出来るよ。そのために月に帰ったんだから」
──そんなことしたら、戻れない。もう友達には。
月明かりがまるであの日のよう。傷ついた孔雀に出会った満月の夜。
あのときのように柔らかな光が降り注ぐ。紅葉の心は揺れ動く。顎をあげられる。
──とんでもないことになった。
──ずっと友達でいたいと思ってたのに。
皇帝は嬉しそうに目を細める。
「ふふ。だからね。紅葉がたくさん子供を産んでね」
月からの声と同じ声音で朔夜は言い──好きだと囁いた。
後宮のうえで 月は囁く 甘月鈴音 @suzu96
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