第4話

「紅葉」


 厠に向かう途中で、そばかすの男の人が後ろから声を掛けてきた。見覚えがあった。


確か皇帝の一番近くにいた側近だった。話すことができずにいた月人だ。ドキリとする。まさか。


「えっと……もしかして朔夜?」

「うん」


 心が震えた。なぜか瞬きも忘れて涙が、ひとつ、零れ落ちる。


「どうしたの、何か嫌なことでもあった」

「違う、あれ、涙が止まらない。朔夜に会えたから、気が抜けたのかな」


──会えた。


 狼狽える朔夜。近づき朔夜は紅葉の頭を撫でた。そして懐から朔夜はなにかを出した。


「紅葉に薬を持ってきたよ」

「えっ?」

「手、水仕事ばかり、やらされていたんだろう。ささくれが出来てる。人の何倍、働かされていたんだか、まったく」


 朔夜らしい言葉に紅葉は嬉しさが込みあげてくる。


そっと躊躇いがちに朔夜は紅葉の手をとって、薬を塗り込む。痛みに紅葉は眉をひそめる。


 胸がぽかぽかと温かかった。

 なんだろうこの気持ち。熱い。ささくれに塗り込まれた傷口が熱を持っていた。


「これで、よし。さぁ、宴に戻ろう。これから池に浮かべた船に皇帝と乗ることになっているんだ」

「船に?」

「うん。皇帝は紅葉を気に入られている。きっと紅葉が皇后に選ばれるよ」

「えっ……」


 急にそんなことを言われ、体中の血の気が引いた。


──嫌。


 気がつけば紅葉は朔夜の袖を引っ張っていた。困惑する朔夜。言葉に詰まる。


なにがそんなに嫌なのだろうか。でも、皇后など考えたことも無かった。だから、こんなにも逃げ出したい気持ちになるのだろう。嫌で、嫌で、嫌で。


 それからはどうやって宴に戻ったのかわからない。朔夜が皇帝の良さを語っていたような気がするが思い出せない。


──あっ。手巾を朔夜に渡すの忘れてた。


 懐にある手巾が、なぜか鉛のように重く感じた。心なしか胸も重い。


 



 ちゃぷちゃぷ。豪華な船が揺れている。皇帝が紅葉の肩を抱き船に乗る。


皆の剣の含んだ視線を感じていたが紅葉はすくんでいた。皇帝の手を振り払いたい衝動に駆られていた。


触れられたくない。気持ちが悪い。朔夜の手はあんなにも温かで、ドキドキしたのに。


同じ男の人の手なのに、どうしてこんなにも違うのだろうか。


 あぁ、この手が朔夜なら良かったのに。紅葉は硬直した。


──朔夜なら良かった?


 なぜ? どうしてそんなことを思ったのだろうか。友達なのに。

 友達ってこんなに胸が痛くなる物なのだろうか。


『紅葉』


 月夜から降り注ぐ声を思い出し心臓がざわざわと騒ぐ。


 朔夜だけが紅葉の支えだった。皇帝に触られるのは嫌。朔夜ならいい。


 その意味は……。顔がかっと熱くなる。これは友達の感情なのだろうか? 違う気がする。そらなら……恋?


──私は、朔夜を好きなの?


 紅葉は頭を振った。まさか……。だって、朔夜は友達だ。でも朔夜のことしか考えられない。朔夜のことを思うと胸がドキドキする。


 これが恋なのだろうか?

 駄目だ。頭が追いつかない。借りに恋だとする。だからって友達の関係は変わらない。


むしろ、紅葉はさっと恐怖が差す。知られてはいけない。駄目だ。今の関係が壊れてしまう。このまま友達でいい。


 ふと皇帝が紅葉を離した。その隙に紅葉はそっと船の端に移動した。ほっと息をつく。胸にはしこりを宿したまま。


「なぜ、お姉様ばかりが皇帝の近くにいるのよ」


 妹が背後に立ち、私の腕をギリリと掴んで呟いた。ぎくりとする。徐々に食込む爪が紅葉の肉を裂き、血が滲む。冷や汗が頬を伝った。


「ぐずでのろまで、生きてる価値すらないのに」

「……」


 妹の言葉は剣で刺された様に胸を抉る。どこかで、そうだと思っていた。朔夜に会うまでは。


『紅葉と話していると、心が休まる』


 月夜の晩にいつだったか朔夜がそう言ってきたことがあった。生きてて良かったと思った。


自分にも誰かの心を和らげることが出来るんだと思った。

 だから、生きてる。


「──紅葉」


 そこで声をかけたのは、そばかすだらけの朔夜だった。来てくれた。妹は焦って手を離す。


朔夜は妹に冷たく一瞥いちべつし、紅葉の前に立った。


「さっきから、皇帝がお呼びだよ」


 その言葉に、氷の刃が胸を貫いた。行きたくない。紅葉は少しでも朔夜の側にいたくて、手巾を出した。


「朔夜。これペンダントのお礼に手巾を作ったの、貰って」

「孔雀の刺繍。この手巾は皇帝へでは? 鳥は、月の神の化身のはず」


 首を捻る朔夜に紅葉は必死で話をする。


「朔夜は孔雀を知らないようだったから……覚えてない? 昔、緑の羽を拾って見せたことがあったでしょう。そのときのこと覚えてない?」

「えっ?」


 朔夜はぽかんとしていた。困り顔て頭を掻く。その姿に紅葉はなぜか違和感を感じた。


 っと。誰かに背中を押された。体が傾き船が揺らぎ紅葉の目の前に池が迫る。まずい。池に落ちる。


バシャンっと大きな水飛沫があがった。紅葉は池に落ちてしまった。


服が水を吸い、重い。泳げず手足をバタバタさせた。顔が浮かんでは沈む。


まるで底から足を引っ張られているようだった。助けを求めるように船を見ると妹と目が合う。


にやりと笑っていた。


──誰か……。


 長いようで短い間に紅葉は溺れ、沈んでしまった。


苦しくて、苦しくて、口から大量の泡が溢れた。死を覚悟する。意識が遠のく。


目の奥に闇が落ちる。真っ暗だった。

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