第35話 遥か遠くへ
螺旋階段を上って、レンとマルコは揃って見張り塔の天辺を目指す。柵代わりに低い壁が設けられているだけの階段なので、風もそのまま吹き抜けていく。
長らく「わたしは高いところが嫌いなんだ」と思い込んでいたレンだったが、ニルバドへ来て実はそうでもなかったことに気づかされた。
周囲に遮るものなく、遠くまで眺められる場所には独特の心地よさがある。
彼女はただ、閉じた〈鳥籠〉を好きになれなかっただけなのだ。
そんなことを考えながら、前を歩くマルコの背中を見つめていた。
「ほらレン様、もうすぐ着きますよ」
まさか彼女の視線に感づいたわけではないだろうが、後ろを振り返ってマルコが声をかけてくる。
二人が頂上へやってきたのを確認した見張り役の兵士が、笑顔で一礼し場を譲ってくれた。それほどにレンとマルコへの信頼は揺るぎないものとなっている。
ヴァレリア出身であることも、今ではまったく問題とされていない。
「今日は本当にいい天気だ。海も荒れてなさそうですね」
隻眼であるマルコは残った左目を細め、遠方を見遣った。
その隣に並んだレンだったが、いつの間にか二人の身長差は縮まっていた。
ヴァレリア共和国にいた頃ならば彼女の目線の先はマルコの胸のあたりだったのに、今では肩付近へと位置が高くなっている。レンの背が伸びたのだ。
口さがないジャズイールからは「貧相な小娘も多少は見栄えが良くなったか」とからかわれたりもする。残念なほどに彼の人間性には変化がない。
だが状況は劇的に移り変わっていた。
現在のニルバド皇国は分裂して二人の皇帝が並び立っている状態であり、その片方がジャズイールであった。
ちょうど一年前、レンがジャズイールへ「ニルバドの皇帝となってほしい」と願い出てからしばらくの間は、彼も奇妙なほどに鳴りを潜めていた。
海を越えてヴァレリア方面への侵攻をするでもなく、かといってニルバド国内に矛先を転じるわけでもなく。
牙を剥く時機をうかがっていただけなのだとレンが理解したのは、およそ半年前のことである。
皇位継承権を有するジャズイールの五人のきょうだいのうち、最も年の近い姉が結婚する運びとなった。
三人の兄と二人の姉はそれぞれ与えられた領地を治めており、結婚する次姉も自らが領有する都市で式を挙げることとなる。
ジャズイールはこの次姉の下にいち早く駆けつけ、盛大に執り行われる予定であった結婚式への尽力を惜しまなかった。次姉もまた、ようやく末弟が心を入れ替えたのだと喜んで協力を受け入れたに違いない。
しかしジャズイールは突如として兵を挙げた。それも結婚式の前夜に。
式の準備のためと称して彼が手配していた大勢の労働者が、一転して獰猛な兵士となったのだ。
惨劇の舞台となった都はひどい有様だったという。
次姉は結婚相手もろとも殺害され、参列のために訪れていた三兄もジャズイールの凶刃から逃れられなかった。
加えて境界線付近にまで密かに軍勢を展開していたため、次姉と三兄の領地をあっさりと奪取したジャズイールはさっそく新生ニルバド皇国の皇帝を名乗る。
さらに要塞ターシュカを新たに皇都と定めたのだ。
命からがら逃げ延びた残る三人のきょうだい、そして実父である皇帝がこのような暴挙を認めるはずもない。
けれども老齢であった皇帝は、元来の皇都へ帰り着いた途端に憤死してしまう。激しすぎる怒りの前に肉体が持たなかった。
ジャズイールに対抗する皇帝としてすぐに長兄が後を継いだのだが、あくまで緊急事態だったためだ。長姉と次兄は心から認めているわけではないだろう。
あと五年。
ニルバド全土をジャズイールが平定するのにかかる歳月を、冷静にレンはそう見積もった。まとまりを欠く相手陣営とはいえ、それなりの戦力はある。
そういった点を踏まえて一気呵成にとはいかないだろうが、いずれジャズイールが覇権をかけた勝負を制するのは確実だ。
そんなレンの見立てと同じ結論を出している人物がいた。こちらもヴァレリアの権力を簒奪した元将軍、フランチェスコ・ディ・ルーカである。
ジャズイールが皇帝を名乗って程なく、ヴァレリア公国から多数の贈り物とともに即位を祝う使者が送られてきた。
当面はニルバド統一に専念したいジャズイールとしても、ヴァレリア公国と良好な関係を築いておくに越したことはない。
互いの利益が一致した両者はここから急接近する。
ヴァレリアとターシュカ間の都市交易は瞬く間に活発となり、とうとう同盟話まで持ち上がったほどだ。
今、その話を詰めるためにヴァレリアへ再び使節団が派遣されている。正使を務めるのはまたしてもテスレウであった。
手で日差しを遮りながら、レンも海の彼方へ目を向ける。
「テスレウ殿ももうとっくに着いているでしょうね。あっちにもいろいろ美味しい食べ物があるから、今回はそれを堪能してほしいな」
これを聞いてマルコが肩を竦めてみせた。
「さすがにそれは無理じゃないですかね。夜になれば、食事をしながらひたすらフランチェスコ様と腹の探り合いですよ」
「うわ、全然美味しくなさそう」
政治は面倒ね、とばかりにレンは舌を出す。
ただテスレウもフランチェスコも辣腕だ。必ず成果を上げ、同盟話をまとめてくることだろう。
「せっかくの機会なんだし、あなたも同行すればよかったのに」
事前にジャズイールからの許可は得ていた。
レンの身柄が手元にあるかぎり、彼がマルコの行動を制限することはほぼないといっていい。もちろん過去の脱走を改めて罪に問うてきたりもしなかった。
けれども当のマルコは苦笑いを浮かべている。
「どのツラ下げてって話ですよ、それ。護衛すべきレン様から離れて、ニルバド皇国の使節団の一員になるのはどうなんですか」
「面白いと思うんだけど。フランチェスコが目を丸くして驚くんじゃないかな」
「相変わらずですね、レン様は」
そう口にした後、すぐに頭を振って「いや、違うな」と否定する。
「相変わらずなんかじゃない、本当にお強くなられました。だって初めてお会いしたときには、ただただ守るべき対象としてあなたを見ていたんですから。でも、守られていたのはおれの方だったんですね」
守られていた、と彼が指しているのは、奴隷部隊から脱走していた兵士であったことをジャズイールが不問にした件だろう。
「まあ、無知かつ無力な少女だったのは間違いないかな」
籠の中で暮らす飛べない鳥だったもの、と冗談めかしてレンが応じる。
それから彼女は手首より先がないマルコの左腕に触れた。
「覚えているよ、あなたの誓い。あれは嬉しかったなあ」
誰よりもレンが知っている。
マルコは自身の言葉を偽物にはしなかった。片手と片目を失い、かつての同僚を手にかけて、それでも彼女を必死に守り抜いたのだ。
「お互い守って守られて、これからもそれでいいじゃない。わたしはね、あなたとずっと対等な関係でありたいんだ」
少し顔を上げ、マルコの左目を見つめてそう言ったレンだったが、なぜだか急に気恥ずかしくなってきてしまった。
慌てて目を逸らし、また遥か遠くを眺める振りをする。
すべてを飛び越えていけそうに思える、青すぎる空だ。
不意にかつての〈鳥籠〉にいた自分と視線が交錯したような気がして、無性に叫びたくなるほどの懐かしさが込み上げてきた。
遠見のレン 遊佐東吾 @yusa10
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