第34話 悪い女
ジャズイールの発言はいつだってレンの頭を悩ませる。
テスレウとの関係修復に尽力した功績の対価であるらしく、彼はレンに対して「褒美をやる。望みのものを言え」と通告してきたのだ。
レンにそんな意図はなかったにせよこれは好機だ。当然、ありがたく受けるつもりなのだが、焦点となるのは何を求めるかである。
猶予として与えられた二日間、彼女はひたすら考え抜いた。
マルコから話しかけられても生返事を繰り返し、上の空になってしまうほどの真剣さで頭を回転させ続けた。
そして二日後、指定された時刻にレンはジャズイールの政務室を訪れる。
「殿下、失礼いたします」
緊張気味に入室し、深々と頭を下げる。
「ふっ、そう畏まるな」
最初の謁見とはまったく異なり、ジャズイールはにこやかに出迎えてくれた。
手には見慣れぬ弦楽器を持っている。装飾を施された下部だけが球状となっており、全体の四分の三ほどは弦がぴんと張られた細長い首のようだ。
かつてサラが〈遠見〉の異能によって目にしたのも、おそらくはこの楽器だったのだろう。
彼は弦を何度か弾き、音を出す。澄んだ高音だ。
「どうだ、この音色。心が安らぐとは思わんか?」
ここまで機嫌がよさそうなジャズイールを見るのは初めてである。
今回は裏がなければよいのだけれど、とレンも内心で密かに願っておく。
「今度、久方ぶりにテスレウと音合わせをしてみるつもりだ。奴は笛の名手でな、幼い頃は腕前を競ったものよ」
だが彼はその表情を一気に引き締めた。
「おかしいか?」
「いえ、そのようなことは」
「大きな戦の前にこそ、水のように透き通って穏やかな精神が必要なのだ。深い森の中で微かに聞こえてくる鳥の声に耳をすませ、自らが静寂そのものへと溶け込んでいく、そんな穏やかさがな」
やはりジャズイールはジャズイールであった。
あくまで彼は闘争とともにある生き方を変える気はない。楽器の話を通して暗にそう示唆してきているのだろうし、レンにもそれはわかっていた。
ジャズイールの心に巣食った渇きが満たされる日は、彼が死を迎えるそのときまできっとやってこないのだ。
「では本題へと入ろうか。レン、おまえは何を望む」
楽器を書棚の脇へそっと立てかけ、ジャズイールが言った。
小さく息を吸ってからレンも意を決して話しだす。
「先日、殿下は『巨大な収蔵庫を建設したい』とおっしゃられました。覚えておいででしょうか」
「無論だ。それがどうした」
「わたしは、殿下の遠大な夢にお力添えをしたいと考えたのです。〈鑑定〉という特異な力を持つわたしだからこそできることがあるのではないでしょうか」
ここで少し間を空けて、焦らすようにレンはジャズイールの反応を見る。
すぐに彼は「続けろ」と先を促してきた。
「具体的なお話に移りましょう。わたしが望むのは、歴史書の編纂。様々な資料や物品を収集するのが常道ですが、わたしの〈鑑定〉ならばそこに隠された背景をも浮き彫りにすることができます。いかに広大無辺なニルバド皇国とはいえ、わたし以上に適任の方がいらっしゃるとは思えません」
「──面白い」
ジャズイールが身を乗り出し、早口で喋りだす。
「歴史書の編纂か。面白い、非常に面白いぞ、レン! なるほど、おまえの持つ力を最大限に活かせる道なのかもしれぬな。よし、さっそく──」
興奮した様子で拳を握り締めているジャズイールへ、不敬であるのを承知しつつレンは割って入った。
「少々お待ちを、殿下。これだけではわたしの望みはまだ半分なのです」
「ん? なら残りの半分はいったい何なのだ」
すかさずレンが切りだした。
「わたしには編纂したい歴史がございます。それは、殿下が覇道を突き進んでニルバド皇国の皇帝の座につかれる歴史です」
あまりにも思いがけない要望だったのだろう。
ジャズイールの声にわずかな震えが滲んでいた。
「おまえ……自分が口にしていることの意味を理解しているのだろうな」
「もちろんです、殿下。何とぞニルバドを我が物となさってください」
はっきりと言い切ったレンに対し、ジャズイールはまだ動揺を隠せないでいる。
「それはつまり、私に血を分けた実のきょうだいたちを討てということか」
「必要ならば」
レンの返答は潔い。
ジャズイールに「ヴァレリア侵攻を考え直してほしい」と褒美を願い出たところで、戦いこそが人生だった彼のことだ。容易に受諾などしないはず、そうレンは睨んでいた。もし応じてくれたところで、後で引っくり返される可能性も相当高いに違いなかった。
だからこそ考え続けたのだ。
どうすれば戦神とまで謳われるジャズイールの剣の切っ先から、ヴァレリアを逃がすことができるのか。少なくとも時間を稼ぐことができるのか。
レンが二日間かけてたどり着いた結論こそ、彼の進撃をニルバド国内へ向けさせることであった。
そうなればもうジャズイールも後戻りはできないし、ヴァレリア侵攻へ割く余裕などなく手一杯になる。
きょうだいたちの悪辣さを身をもって知っているテスレウだって、この案に反対はしないはずだ。
もちろん倫理的な問題はあるだろう。
しかしジャズイールの発した言葉を借りるならば「これも世の習い」というやつではないか。彼の死、ないしは失墜を望んだ者たちがその報いを受けるだけ。
丸一日はそう割り切るのに費やしたようなものだ。
口元に手を当て、ジャズイールも考えを巡らせている。
「仮にだ、仮に私が皇帝として戴冠したとしよう。ならばその流れでの史実を描く歴史書において、おまえという存在はどう描かれると想像しているのだ。わかっているのか? 新皇帝にきょうだい殺しを唆した稀代の悪女となるのだぞ」
「事実であるならば、そのように記されて然るべきです」
後世の人々が彼女をどう評価しようと、そんなのはレンの知ったことではない。
だが代々伝えられていくであろう歴史書に、自分の悪評を自らの手で書き連ねるのは、どこかしら喜劇的でさえある。
惜しむらくは、その面白さを共有できそうな相手が目の前のジャズイールくらいしかいないことだ。マルコには確実に悲しまれてしまうはずだから。
「殿下、いかがでしょうか」
重ねてレンが圧力をかけていく。
「待て。私にも考える時間がほしい。もう下がってよいぞ」
疲れた表情でジャズイールはそう告げる。
けれどもレンには、彼ならばきっと自分の提案を受けるに違いないという不思議な確信があった。
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