はじまりのA

香坂 壱霧

🎵

 楽器を始めよう。それは、特技も趣味もなんにもない自分が、なんとなく思いついたものだった。

 教室では、たいてい。話すクラスメイトはいるけど、親友はいない。

 夢中になれるものがあれば、漠然とした不安が消し飛ぶかもしれない。そんなことも考えた。


 それからすぐ銀行でお金をおろし、楽器屋さんに行った。音楽の成績は下から数えるほうが早いくらいひどいものだから、楽譜なんて読めるはずはないというのに。

 こんな自分でも弾ける楽器はあるのか、ネットで調べてみる。ギターならミスをしてもバレにくいらしい。

 バンドすることが前提の文言。自分と一緒にバンドをしてくれる人がいるとは思えない。

 ギターは華やかなイメージがある。そんな場所、似合うはずがない。そうなると、ベースしかないだろうと思いいたる。


 ベースが並ぶコーナーで、うろうろとしていると、

「ベースをお探しですか。初めてです?」

 と、店員さんが話しかけてきた。

 戸惑っていると、「最初は、どれがいいかわからないですよねー」と苦笑いで話し始める。

「ちなみに、どんなジャンルを弾こうと思ってますか? ジャンルによって、それに合う音があるし見た目もそのジャンルっぽい色とか雰囲気? 形から入るのもアリですよねー」

「えっと、曲は決めてなくて、楽器をやりたいだけで……あの、おかしいですか、こんな感じなの」

「おかしくないです。始めた理由なんてみんな違うでしょ。決めてないなら、ふだん、どんな音楽聴いてるか、そこから最初のコピー曲を決めてみるの、いいかもしれないですね!」

 この店員さん、いい人だな……そんなふうに思いながら、店員さんをじっと見ていたら、

「あっ、すみません。馴れ馴れしいですよね。距離感バグってるってよく言われるんです。気に触ったらごめんなさい」

 見た目が派手なわけではないけれど、クラスに一人はいるような面倒見のいい委員長タイプの女子。

「流行りの最近の曲は、あんまり聴かないです。親世代が聴いていたような昔のバンドです」

「そうなんですねー。そういう感じならシンプルなプレベタイプをおすすめ……なんですけど、お客様、スリムだし、ネックが少し太めなこれが最初だとしんどいかもしれません。少しだけしゅっとした感じならジャズベースタイプ……うーん、お客様、手の大きさ、どんな感じです?」

 よく喋る人だな……

 すごく熱心に説明してくれて助かる。それに、優しい。客だからそうなるんだろうけど。

「背丈はあるのに、手はあまり大きくないです。指も長くないので……男なのに、女子みたいな手だと言われて」

「それだと、SGタイプのショートスケールがいいかも! ベースじゃないけど親世代の女の子バンドのギタリストでこのタイプのギターを弾いてる人がいて、かっこいいんです。あ、画像検索しますね、ほら」

 卑下した言葉を聞き流した店員さんは、手慣れた感じで画像検索した。それからゆっくりスマホの画面を見せてくれた。

「あ、かわいいです。その赤色……」

「ちょうど同じ色のベース、メーカー違いの廉価版なんですけど、こっちにあるんです」

 少し先にあるそのベースがあるところに店員さんは移動し、それを指さした。

 ライトがあたって、赤色がきれいに見える。値段は……予算より少しだけ高いけど、手持ちギリギリで買えなくはない。

「弾いてみます?」

「えっ! でも、弾いたことないです。無理です! でも、音は聴いてみたい……です」

「じゃあ、あたしが弾いてみますね。ふだんはギターやってるんですけど、簡単な曲なら弾けるのがあるので」

 

 店員さんは、アンプを持ってきてセッティングし、椅子に座ってベースを構えた。

「ちょっと、チューニングしますね」

 よくわからないが、そのよくわからないことすら、絵になるような。慣れた手つきで音を出している。

「じゃあ、ビートルズの……」


 店員さんは小さい声で口ずさみながら、ベースを弾き始めた。歌いながら弾くなんて難しそうなのに簡単そうにみえる。

 あっという間に一曲終わった。

「お粗末様です」

 店員さんは片付けながら、

「小さめだけど、この子、いい音してますし、初めての楽器にはちょうどいいと思いますよー。私も欲しくなりました。あはは」

「これにします! このベースにします。買います!」

 びっくりするほど、大きな声で言ってしまう。店員さんも目をまんまるにして、

「気に入ってもらえて、よかったです。これ、現品限りなのできれいにしてケースに入れてお渡ししますね。あちらでお会計を……」


 支払いを済ませたあとケースを背負うと、楽器の重みを感じた。

「初めて買った楽器の重み、感慨深いですよね。これから、弦の張替えとか楽譜の読み方とか、いろいろわからないこと出てくるだろうけど、今はネットで調べたらなんとかなりますよ! 頑張ってくださいね」

 店員さんはそう言いながら笑った。

 その笑顔に、僕は――




 それから僕は帰宅してすぐ、店員さんが店でしていたチューニングをしてみる。

 3弦の開放弦がA。4弦の5フレット目を押さえた音と同じ。この音を覚えていたらチューニングができるんだと知った。

 気持ちを開放するようなの音。曲を奏でる前の音。


 新しい僕が、始まる。

 

 

 


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