ありがとうが言えなくて

来冬 邦子

車内アナウンス

 あの冬は毎日病院に通っていました。


 七十四歳になる母が重篤な病気にかかり、もう長くはないと言われたのが前年の春のこと。それから何度か入退院を繰り返していたのですが、今度こそ最後の入院になるかも知れないという予感が常に胸を冷やしました。二十四時間が母の寿命を刻んでいると思うと、一刻も無駄には出来ません。そうかと言って、何をどうしたら良いのかもわかりませんでした。


 朝が一日のスタートです。貴重な一日が始まります。その日も家事を済ませると、玄関に鍵を掛けてバス停に急ぎました。会社員の夫も大学受験真っ只中の長男も先に出掛けてしまい、わたしを送り出す者は誰もいませんでした。吐く息が白くなる寒い季節でした。


 バス停には数人の先客が震えながらバスを待っていました。わたしの後からも数人やってきました。そこへバスが来て、バス代をSuicaで支払うとわたしは身体を縮めるようにして運転席の斜め後ろの席に坐りました。ここが好きなんです。眺めが良いし、大きなハンドルを自在にきる運転手さんの勇姿がよく見えるから。


 今日の運転手さんは女性の人でした。乗り込んでくるお客さんの一人一人に「おはようございます!」といつも爽やかに声をかけてくれる人でした。

 わたしは腕時計を見ました。バスを降りたらJRに乗り換えて、電車から降りた先でまたバスに乗ります。冬は混んで遅れがちですが、今日は定刻通りに走ってくれていました。母は昨夜は眠れたろうか。どうしても病院の母のことばかり考えてしまいます。沿道にちらほらと梅が咲いていました。


 バスが終点のJR駅前に着くと、乗客は我先にと降りてゆきます。わたしも「ありがとうございました」と運転手さんに声を掛けてステップを降りようとしました。すると――。


「ありがとうございました。行ってらっしゃい!!」とりわけ元気な声がわたしを送り出してくれました。いいえ。とくにわたしだけに言ったわけではありません。寒さに身を屈めた人たちを気遣い、今日という日に立ち向かえるように励ましてくれる声でした。


 不覚にも涙が頬を伝いました。誰にも見られまいと手袋で急いで頬をぬぐいました。だって朝からオバサンが駅前で泣いてたら、下手したら警察を呼ばれてしまうではないですか。


 ありがとう。行ってきます。今日も笑顔で頑張ります。

 あなたの明るい声で、今日という日のスタートを切ります。

 わたしは母の病気が分かってから、一粒も涙を零していませんでした。だって母には治るって言い切ってあるのですから。わたしは泣いてはいけないのですから。



(こんなとき。どうやって御礼の気持ちを伝えたらいいのでしょうね)

                          < 了 >

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ありがとうが言えなくて 来冬 邦子 @pippiteepa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ