スタートラインに立っている

小絲 さなこ

※※※

「誰かいい人いないの?」

 母にそう訊かれ、あぁやっぱり帰ってこなければよかったと思う。

 

「あ、そうそう。あゆみちゃん出戻ってきたのよ。まだ小さな子供が二人もいるのに、離婚なんて……」

 あゆみのことならSNSで繋がってるから知ってるよ。元夫がモラハラ暴力男だってことも。やっと離婚できたってことも。


「ニューヨークに異動なんて、結婚できなくなったらどうするの。まぁ、もういっそアメリカ人でもいいけど」

「父さんは外国人なんて認めないからな。国際結婚なんて日本の男をバカにしてる」

 なんで私、渡米前から外国人男性と結婚することになってるの?

 しかも、サラッと意味不明な人種差別的発言。こんなことを言う人が親だなんて。外では絶対言わないでと願う。


  

「もう行くの?」

「うん」

 名残惜しそうな母に「異動の辞令出るまで帰らないから」と、小声で放り投げるように言う。


 

 家を出てから帰省するたび、これで最後かもしれないと、何度も思ったから振り返らない。


 

 もっと、もっと遠くへ行くのだから。

 簡単には帰ってくることが出来ない場所へ。


 

 毒親とは離れたほうがいい、というが、世間のいう毒親でなくても『合わない親』とは離れた方がうまくいく。私はそう思う。

 


 忙しいから。本当とフリ、どちらも含んでいて、帰らない理由をひとつひとつ積み上げていった。


 


 結婚しない理由と、子供を持ちたくない理由は、ほぼ同じだ。

 女は子供を産み育てて一人前だと、いまだに信じているような親への反抗心だと思われても否定は出来ない。

 だが、それに反抗することは、悪いことなの?

 私はずっとそう思っている。


 干渉するのは心配だからだと他人は言う。

 だが、本当に心配なだけなのだろうか。

 世間の目を気にして、変な目で見られないように、そればかりを気にする。私の意思や希望は二の次だ。

 

 あの人たちは知らないし、知ろうともしない。


 有名な大学を出ていれば安泰。誰もが知っているところに勤めていれば安心。平穏に生きていけると信じて疑わないのだ。そんなわけあるか。あゆみの元夫だって、有名大学出身の国家公務員だった。

 

 女が仕事に生きるのは間違っていると、いまだに思っている。

 そして、女はみんな子供好きだと思っているのだ。


 早く結婚しろ、早く子供を産めと言う。

 相手の条件も厳しい。

 言うだけなら簡単だ。

 

  

 初めての彼氏に難癖つけられたことを今でも根に持っている。

 母子家庭で母親が夜の仕事をしていて、高校卒業後は就職する──それのどこがいけないのか。いまだにわからないし、わかりたくもない。

 彼女の親に交際を反対されるということが、母親思いの優しい男の子にとってどんなに高い壁になったか。あの人たちには、たぶん一生わからない。

 

 

 

 

 いっそ、もっと毒を持った親なら、スッパリと縁を切れるのに。

 いっそ、こんな親なんてもういらないと、非情になれたら。

 中途半端な毒持ち。中途半端な私。適度な距離を取ってしまう。今後二年は顔を出せないからと、帰省してしまう。詰めが甘いと笑え。

 そして、親の無神経な発言に苛立ち、帰ってこなければ良かったと思ってしまう。自業自得だと笑え。

 それなのに、もしも両親やこの街に何かあったら、きっと帰国してしまうのだろう。やっぱりいい子ちゃんじゃないかと嘲笑え。 



  

 駅までの道は、路面電車が通る住宅地。

  

 朧げな記憶はモノクロで、一歩一歩進むごとに色鮮やかな風景がそれらを塗り替えていく。


 こんな音だったかな、と眉を顰めて耳を澄ます。

 やっぱり、音が変わっている。

 フォンフォンフォンフォンという軽い音に違和感を抱くのは、物事つく前から聞いていた、甲高いカンカンカンカンという音が懐かしいからかもしれない。


 線路沿いの細い道。

 見上げると子供の頃から見ている高層ビルと、記憶の中にない、建物。

 すれ違う部活帰りの高校生。私の頃とは違う制服を身に纏っている。

 俯き歩く着崩していない制服姿の子に過去の自分を重ねる。


 

 変わってしまったところと、変わらないところが混在している。

 それらをひとつひとつ掬い上げて確かめていく。


 たった四年でも世の中はこんなにも変わってしまったのかと、改めて思う。


 そして、あの人たちはいつまでも変わらない。それに苛立つ。


  


 今度ここに戻ってくるときは、またきっと次のスタートを切る時なんだろう。

 今度ここに戻ってくるときは、どれくらい景色や音が変わっているだろう。

 

 

 ここは、すべての始まりの場所。 

 それを確かめるために帰ってきた。


 

 遮断機が上がる。

 ステップを踏むように渡った子供の頃を思い出す。

 カーブを描いて音を鳴らし、ゆっくりと住宅地を進む路面電車が遠くなっていく。

 その風景を刻みつける。



 私の幸せは私が決める。

 あの人たちは身勝手だと言うだろう。


 平穏無事を祈るのは、あの人たちのためではない。

 ただ、何も心配したくないだけ。

 自分のことに集中したいだけだ。

 

 

 ずっと叶えたかったことを掴めるチャンスが来た。

 それを実現するまでは、帰らないよ。



 女がひとりで生きていくのは大変だと、母は言う。


 それでも私は、まだひとりで立って、ひとりで歩いていたい。


 この先の道を、邪魔しないで。


 


 私は今、スタートラインに立っている。



 

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スタートラインに立っている 小絲 さなこ @sanako

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