スタート

野苺スケスケ

第1話 スタート

 あの自転車が立ち漕ぎをやめたら、次に通る車が赤い色だったら…。

 まともに目すら合わせれずにいたガキだった僕が、君の手を握るために欲しがったきっかけたち。


 自転車はあまりにも早く立ち漕ぎをやめたし、通った車は白だった。


 ガッカリより先に安心した自分をひどく情けなく思ったっけ。


「ねぇ」


「ねぇ聞いてる?」


 ポニーテールが揺れながら僕の顔を覗き込む。


「ご、ごめん。なにか言った?」


 少し吃りながら尋ねる僕に、いたずらに笑う君の顔が近づく。


 一瞬にして自分の顔が熱を帯びる。絶対に顔が真っ赤になっているのがわかって恥ずかしくなる。


「次に通る車が赤だったら手をつなごうか?」


 驚く僕の返事を待たずに君は僕の手を握った。


「見てて」


 直線の向こうに見える赤い色がこちらに近づいてくる。


「ほらね」


 そう言って握った手を見せつけてくる。


 ドキドキより戸惑いより僕が感じたのは安心感だった。


 握られた手から伝わる君の温もりを感じながら、見た目よりも幼く笑う君を、幸せにしたいと強く願った。




 ひどく静まり返った病室はまるでこの世界に僕達しかいないんじゃないかと思わせるには充分だった。包帯で巻かれた君の顔をまともに見れずに、僕は君の手を握りしめそこだけを見ていた。


 あの頃とは違う、家事で荒れたそこは少しカサカサして、でも柔らかくて。年季の入ったシルバーの指輪が異質な感じに思えて、新しいの買ってあげたいなって、そんなこと考えてたら。

 子育てに邪魔だからと思い切って短くした髪。一度も染めたことがないのを自慢してたのに白髪が目立ってきてたな、なんてことを思い出したりして…。


 握った手にポツリ、ポツリと止まることなく涙が落ち続けた。


 今朝、電車の中で君から入ってきたメッセージにげんなりしていた。


(帰りに卵お願いね!会社の近くのスーパーが安いの!)


 あそこによるといつもの電車に間に合わないから、一時間は遅くなるんだけどな。


 大きくため息をつき

「了解」

 絵文字もなくそれだけを返した。

 ため息が気に触ったのか怪訝そうにスーツ姿の女性が見ている。それがさらに嫌な気持ちにさせた。スマホには、ウサギがお辞儀しているスタンプが虚しく浮かんでいた。


 そんな感じで始まった今日の午後、突然の知らせが入る。


「奥さんが交通事故に…」


 慌てて告げてくる後輩を押しのけ病院の場所も聞かずに僕は駆け出した。


「〇〇病院です!」


 背後から後輩の叫ぶ声が聞こえた。


 病院に着くと直ぐに、おそらく妻をはねた車の運転手と思われる初老の男性がすごい勢いで土下座してきた。

 〜〜運送(株)と刺繍された作業着は所々、ほつれを直した糸が見え、元の色がなんだったのか分からないほど着古されている。その姿を見てこの人もプロだ、こうなった事に余程の事情があったのだろうと思った。


 だがしかし、僕にはそんなことはどうでもよく、いや…よくはないんだが。一刻も早く君に会いたくて病室へと急いだ。


 医師からは「命に関わる心配はない、今は麻酔で寝ているだけだ」と告げられたが、君の姿を見た瞬間に心臓が止まるかと思うほどの恐怖を感じた。


 君は寝ているが、その顔には包帯が巻かれ、左手にはギブスがされている。


 出会って数十年、たまに体調を崩すことはあったが元気じゃない君を見るのは初めてだった。


 もしかして、僕が素っ気ない返事をしたから。気にした君は自分で卵を買いに出たんじゃないだろうか?そんなことを考えながら僕は自分を責めた。


 握った手に涙を落としながら今までの自分を反省していた。


 もっと子育てに積極的であるべきだった。掃除でも料理でも一緒にできることはあるのに…。

 そして、それは君への感謝へと変わっていった。


 いつも何があっても笑ってくれてた君がいた。それにどれだけ救われただろうか。


 君を幸せにすると誓ったあの日が思い返される。


 思い出の中の笑顔はあの頃の君じゃなくて今の君だった。


「ねぇ」


「ねぇ聞いてる?」


 ハッと顔をあげる。


 僕の顔を見た君がいたずらに笑う。


「だ…大丈夫か?」


 不安気に尋ねる僕に君は


「なんか昔のこと思い出しちゃったな」


「覚えてる?初めて手を握った日のこと」


 ドキリとした。返事を返さない僕を気にせず君は続ける。


「本当は知ってたんだ…あの時赤い車が来ること」


「!!」


 僕の反応に満足そうな君。


「橋を渡って来るのが見えてたから、左に曲がればこっちに来るって…こっちに来いって願ったのよ」


 そう言っていたずらに笑う君の姿にポニーテールが揺れた気がした。


「そっか…」


 涙を拭きながら僕はそれだけを返した。


「何?それだけ?」


 不満そうな君に僕は続ける


「あの日誓ったんだ…君を幸せにするって。でも僕は君に貰ってばっかりだった」

「今日からまた新しく始めたい。君を絶対に幸せにしたい」


 …


「ばかね…」


 優しくつぶやく君の瞳は少しだけ潤んでいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スタート 野苺スケスケ @ichisuke1009

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ