神様の左腕

黒本聖南

◆◆◆

 真っ白な原稿に、ぽとりとインクが落ちる。黒い涙は私のもの? それとも死んだ神様のものか。

 そんなことを思いながらぼんやりとそれを眺める私の耳に、忙しない針の音と共にスマホの着信音が届いた。この設定は、相方のものだ。

 無視をしたいけれど、そうすると後が面倒くさい。溜め息を溢して、左手に持っていたGペンを脇に置き、スマホを取る。


『進捗どう? 大丈夫だよね?』

「……」

鶴子つるこ!』


 何も言わないでいる私に怒りを覚えたのか、何度も何度も苛立ち混じりに相方は私の名前を呼んでくる。電話に出ても面倒だ。


『聞いてるの鶴子! 四日も時間あげたんだから当然できてるよね? 原稿ちゃっちゃか入稿してもらわないと、イベントに間に合わないじゃん! 私達何年も掛けてやっと壁配置になったんだよ! 落とすなんて許さないから!』

「……」

『鶴子ってば!』

「あのさ、朱美あけみ


 私がやっと口を開いたのが嬉しいのか、何よと、鼻息荒く返事をする。残念だけど、もう貴女を喜ばせることなんてできない。


「過去のやつ、まだ在庫あるよね? 今回はそれ出して」

『……え?』

「あと、作画なんだけど、もうできないや。なんか描けなくなっちゃった。違う人探してよ」

『つ』


 通話を一方的に切ってすぐ、荷物を纏めた。相方はこの部屋の合鍵を持っている。私が渡してしまったから。どこから掛けてきたのかは知らないけれど、急げば鉢合わせないでしょ。

 ボストンバッグに色々ぶちこむ。着替えに財布、通帳に印鑑、スマホにタブレットと充電ケーブル。──スケッチブックは、放置した。

 あってももう、使えない。


 神様の左腕は、とっくに死んでいた。


 左手にペンを持ち、原稿と向き合えば、いくらでも描きたいものを描きたいように描けた。漫画の描き方を知った時からそうで、それができなくなるようなことは一度だって起こらず、私はきっと、漫画の神様に愛されているんだ、この左手は、左腕は、神様に与えられたものなんだと思っていた。

 与えられたものは精一杯使わなければいけない。私はこの神様の左腕で漫画家になるんだと心に誓いながら、明くる日も明くる日も絵を描き続けてきた。

 それが狂ったのは……狂ったのは……。

 高校で、私と相方は出会った。彼女はクラスメイトで、席が隣同士。休み時間に一枚絵やネームを描いていたのをジロジロ見られ、漫画が描けるなら私の小説の作画をやってほしいと頼まれた。それが私達の始まりだ。

 読んでみれば面白かったから、シャーペンでささっと描いてみたらひどく喜ばれて、もっともっとと求められるようになり、高校を卒業するまでに五本、相方の小説のコミカライズをやった。

 文化祭の時に、相方が所属していた文芸部で作品を配布させてもらったから、それなりにファンもできた。卒業式で、もっと読みたかったですと泣く後輩の言葉を真に受けた相方は、一次創作限定の漫画のイベントに出店したいと言い出し、私達の腐れ縁は十年くらい続くことになった。

 でも、それも今日でおしまい。

 仕事の合間に漫画を描く日々はキツかった。夢という麻薬があれば多少の疲労も無視できたかもしれないけれど、これ、私がなりたかった姿じゃないなと思うたび、逆に疲労が増した。

 私は、私の漫画を描きたかった。

 私の左腕を、こんなことに使っていいのか。

 相方の小説は面白い。相方はいつも楽しそう。それに比べて私は……。

 そんなことを考えると、どんどん描きたいものが分からなくなって、描くべきものが描けなくなって、そんな私を相方は叱咤したんだ。


『鶴子の漫画が読みたいのに!』


 私の漫画って何? そんなものがあったとして、描けなくしたのはどこの誰? ……いや違う。どこかの時点で断るべきだったんだ。するべきことをしなかったから、漫画を描けなくなった。


 神様の左腕を殺してしまった。


 真っ白な原稿がそう言って私を責めてくる。ごめんなさい。せっかく頂いたものをちゃんと活かせませんでした。

 原稿に向き合うのが苦痛で、相方と──朱美といるのが苦痛で、逃げたくなって、逃げることにした。

 この先どうすべきが何も考えてないけど、貯金はしてきた、仕事を辞めて数ヶ月は無職でも問題はないはず。

 だから考えよう、この先どうしたいのか。


 神様の左腕を失ってもまだ──私は漫画を描きたいのか、よく考えないと。

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