飛蝗の味

かげのね

飛蝗の味





「ぼく、記憶喪失の人間に初めて会いました」白いレースのカチューシャを外し、ふたつに結んだ髪を指で弄びながら華鈴はそう言った。安っぽいメイド服の薄いフリルをふわふわ揺らしている。「それから、頭に大きなたけのこの生えた人間も」

「僕も記憶喪失になったのは初めてだよ。もっとも、過去に記憶喪失になった記憶を喪失していたのだとしたらそれは自覚しようがないから、あくまでもいま現在の僕における体験として初めて、という意味で」僕はそう返事をして、頭に生えた大きなたけのこをとんとんと叩いてみせた。頭のてっぺんが地面から引っ張られているように重く、首の付け根あたりがひどく凝っている。不快な匂いはしないし、毒性もなさそうなのが幸いだが、頭の中に思考を妨げるような靄がかかっていたり、詰め込まれていたはずのさまざまな記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっているのは、やはりこの頭上の植物が悪さをしているせいなのだろう。

「そのたけのこ、食べられたりしないですかね?」

「よしてくれよ。固くて食えたもんじゃないだろうし、だいいち、切り離して本体になにか悪い影響が作用したら困るだろう」

?」華鈴は吹き出す。「ぼくは下に付いてる人間を切り落としてのたけのこを食べる話をしていたんですけど」

「きみね……」

「冗談ですよ。いまは食糧に関してはほとんど心配ないですし。そもそも、人に生えたたけのこなんて食べたくないです」


 僕は目覚めたとき、どこなのかも分からない鬱蒼とした山奥にいた(そのときすでに僕の頭からは立派なたけのこが生えていた)。自分が何者で、どうしてこんな人里離れた山中で気を失っていたのかも、まるで検討がつかなかった。家族がいたのかも分からない。いたような気がしたが、顔も名前も思い出せなかった。

 助けを呼ぶ手段も持ち合わせていなかったため、太陽が出ているうちにとにかく下山を試みて歩き続けた。枝葉をくぐり、倒木を跨ぎ、下ってるのか登っているのか、進んでいるのか戻っているのかもよく分からないままに、ひどく直感的に。なぜかスリッパを履いていてとても歩きづらく、小指の側面や足の裏の皮はずるりとめくれ、鈍い痛みとともに赤黒い血を流している。分かれ道に古ぼけた木製の道標が立ててあったりもしたが、手書きの文字はずいぶん掠れていてなにかの手がかりになることはなかった。

 どれだけ歩いても大きな変化や手がかりはなかった。僕はずっと名も知らぬさまざまな植物の中を歩いているのか、騒がしい雑踏の中を歩いているのか……あるいは自分は人間なのか、たけのこなのか、たけのこになりかけている人間なのか、人間になりかけているたけのこなのか……そんな錯覚に襲われていた。なにせ身分を証明する記憶を持ち合わせていないどころか、頭からたけのこを生やしてこんなところで倒れていたのだ。ぬかるみのような錯覚だってやってくる。

 夜になったら熊や猪に見つからぬよう祈りながら、胎児のように小さく丸まって眠った。血や土でどろどろに汚れたチノパンの尻ポケットに安っぽいライターが入っているのを認めたが、火を起こしたまま寝るのもかえって危ない気がして、やめた。

 最初の夜はとにかく長く暗かった。それこそ僕は、猛獣に四肢を引きちぎられ内臓を食い散らかされるのと、寝ているうちに火だるまになって死ぬのと、どちらがましか睡魔に打ち負かされるまで本気で考え込んでしまった。最低な気分だった。分厚くて孤独な闇があらゆる方向に広がっていた。僕はそのときから、この世界がことを理解していたのかもしれない。耳の内側から幼い少年の囁く声、言葉になり損なった、くぐもった声が聞こえ、目の前にあるライターや枯れ葉がはるか遠くにあるように見える、そんな夜だった。

 だがそんなふうに鬱々としていたもの最初の四、五日ほどで、変わり映えしない景色の中で絶えず警戒していた危険が想像の檻から出てきそうもないと予感すると、先の見えない迷宮にある程度順応してしまった。連続する浮遊感の中で、頭上の違和感だけが確かだった。

 とたん、激烈な喉の渇きを覚える。僕はなにかに取り憑かれたように、飢えた獣さながらの走りで一度通り過ぎた水場まで引き返した。生水の危険性は承知していたが、滅菌のために煮沸するあれこれを考える余裕はなかった。衣服を脱ぎ捨て水場に飛び込み、一心不乱に、半ば溺れながら水を飲んだ。体の表面の、器官の、あらゆる渇きが満たされていくようだった。

 次は腹が減った。胃にぎゅうぎゅうに押し込まれていた不安や恐怖といった感情がすぼまって、たらふく飲んだ水では誤魔化しきれない空腹に苛まれる。野草はそこらじゅうにあったが、なにしろ知識がない。お誂え向きの食物なら常に頭上に携えていたわけだが、やはりと僕の間に発生しているかもしれない相関的な関係を否定できない以上、手を出すことは——。

「そんな状況でなおも保守的であり続けるんですね」エプロンのほつれた糸をいじりながら、僕の話を黙って聞いていた華鈴が初めて口を挟んだのはそのときだった。「頭の上からたけのこを切り取ったって、なんともならないかもしれないじゃないですか。だって本来は生えてないもの、生えてはいけないものなんですから」

「いけないってことはないだろう」

「虫歯の治療を怖がる子どもみたい」

「やけに手厳しいね」と僕は困ったふうに言った。実際、彼女と出会ってから僕はずっと困っていた。僕を困らせることで楽しんでいる風ですらある。

「あなただって、この世界がことは直感してたんでしょ」華鈴はのんびりと呟いた。まるで不老不死の女神のように、美しく、余裕があって、傲慢な科白せりふだった。


 飛蝗ばっただ。

 結局、僕は飛蝗を食べて生き延びたのだ。それによって長い期間を食い繋いだわけではないのだから、生き延びた、という表現は適切ではないのかもしれないが、それでも〈飛蝗を食べる〉という行為がさまざまな停滞を解消したのは間違いない。

 僕は飛蝗を見つけるまで、山の中で目覚めてからずっと自分以外の生物とまったく遭遇しないのに気が付かなかった。熊や猪どころか、野鳥や栗鼠りす、さらには羽虫の一匹すら目に入らなかった。ただ僕と飛蝗だけがこの山にいた。僕と飛蝗しかいないというより、僕と飛蝗だけが残された感じだった。

「飛蝗!」その話をすると華鈴は舌を出して顔を歪ませた。「飛蝗なんて食べようと思いませんよ、普通。!」

「でも食べたんだよ。飛び跳ねながら逃げるのを必死に捕まえたんだ」と僕は笑った。、という彼女の言葉がいかにも年ごろの女の子らしくておかしかった。あるいは安心したのかもしれない。永く体感していなかった、それでいて懐かしい、人間どうしの人間らしい対話による安堵……。僕は得意になって続けた。「飛蝗を食べている人をいつか見た覚えがあるんだ。テレビだったか、インターネットだったか、とにかくまあそんな記憶は残っていたものだから」

「そのまま食べたんですか」

「いや、持っていたライターで炙ってから食べたよ。寄生虫がいるかもしれないからね。少しばかり青くさいけど、飢え死にしそうな僕にとっては決して悪くない味だった。食感も。なにかに例えたいところだけど、うまく表現できないな」

「もう結構です。そこまで聞いていません」彼女は道端の吐瀉物を見るような目をして吐き捨てた。「でもまあ、よかったですね、飛蝗の食べかたを知っていて。自分の名前や家族の顔なんて覚えていたって腹の足しにはならないですから」

「悲しいことにね」と僕は頷いた。「腹の足しと、それに迷宮からの脱出」

「飛蝗ではなく紅茶に浸したマドレーヌだったらなにかしらの記憶も蘇ったかもしれませんね」

「そうなのかな」

「きっとそうですよ」

 とにかく、一向に冴える気配のない僕の脳には特にこれといった変化は起きなかったが、それでも最低限の栄養が補給されたおかげか、いままでになくぐっすりと眠ることができた。それは深海を漂うように心地のよい睡眠だった。


 そして次の瞬間には、もう僕の遭難は終了していた。メイド服の少女に叩き起こされた僕は、どこなのかも分からない鬱蒼とした山奥ではなく、学校の教室らしき場所にいた。退屈な数学の授業から放課後までたっぷり眠りこけた落第生みたいに、机に伏せていびきまで立てて寝ていたらしかった。日課の見回りで僕を見つけたという華鈴はひどく驚いていた。一年ほどこの廃墟となった学校で暮らしているが、人に出会うのは初めてだと言った。

「ただし、この世界がから、の話ですけど」

 ああ、やはりこの世界はんだな、と僕は独りごちた。いかんせん嘆くほどの未練や思い出は残っていなかったため、知らない国で起きた戦争のニュースを聞かされているのに近い感覚だったものの、燃え殻のような疲労感がたけのこのあたりにぼふりと降りかかった気がした。

はぼくのせいでもあるんですよ」

というのは?」

「いろんなことです」と華鈴は言った。「とにかくいろんなこと。客人に教えるほど薄っぺらい話じゃないんですよ」

「なるほど」と僕はおおげさに頷いた。年ごろの女の子はいろいろと気難しいという一般論はいかなる記憶が欠けようとも心得ている。それは中年男性の体臭に人一倍辛辣な点においても。

「ところで、まずはシャワーを浴びたいとは思いませんか?」華鈴はロッカーに入っていたモップを手に取ると、その房糸を僕の鼻先に向けそう言った。服装も相まって、まるでハウス・キーパーのようだ。

「シャワーが浴びれるの?」と僕は驚いて聞き返した。ガスや水道が機能しているなんて思ってもみなかった。

「浴びれるから言ってるんですよ」彼女は僕の泥だらけのポロシャツをモップで二、三度小突いた。「シャワー室があるので案内します。タオルもちゃんと新品を用意してあげるので」

 そうして歩き出した彼女の後ろを、体臭がきつかったら悪いので少し離れてついていった。ここはかつて華鈴が通っていた高校らしい。比較的新そうな校舎で、ひとりで生活するとなれば不安になるほどばかに広い。彼女に続いて廊下を歩きながら教室を横切るたびにちらと覗いてみると、どの部屋にも生活にあたって必要なあれこれが最低限どころか十分なまでに備えられていた。

 彼女は僕をシャワー室まで案内すると、備蓄してあるタオルを被服室まで取ってくると言ってその場を後にした。僕は少ししてから服を脱いでシャワーを浴び始めた。学校のシャワー室なだけあって湯船などはない簡素なつくりだったが、肌に突き刺さるほど勢いのあるシャワーは溜め込んでいた泥や垢をほとんど脱皮するみたいにつるりと落とすには十分な代物だった。

 清潔になったはいいが、鏡越しに見る自分の姿は想像よりずっとひどかった。肉が削げ落ちていて、落ち窪んだ目や痩けた頬だけでもよほど怪異めいているのに、ハリのない細い髪を掻き分けて屹立する頭頂部のたけのこがいっそう違和感や気味悪さを演出している。たけのこは僕から栄養を吸い取ってそうなほど立派な大きさなのに、背が伸びて皮が剥がれ落ちていき、制御しきれないほど背の高い竹になるわけでもなく、いつまで経っても竹皮に閉じこもったきりだ。

 ちょうど全身くまなく洗い終わったころ、背後の扉ががらりと開く音がした。驚いて振り返ると、白いタオルを持った華鈴が立っていた。どうぞ、と差し出される柔らかいタオルを反射的に受け取ったのはいいが、どういうわけか彼女はそこからじっと動かずに僕の全裸体をもの言わず眺める。監視カメラのように無機質かつ淡白な両の目で、特定のどこか一点ではなく、ただ僕の全身を。動揺しつつも、これもまた難儀な思春期女子に対するある種のかなと考えようとした僕のほうだって、そんな視線に晒されて性的興奮や爽快感などおよそ起こり得るはずもない。体毛の張りつく冴えない皮膚の奥に潜む脆い内臓まで見透かされているような気分になって、僕は開放的なそれとは正反対の、ひどく閉塞的で怯弱な疾しさを覚えた。

「あまり見ないでくれよ。恥ずかしいじゃないか」僕は身をくねらせながら、努めて冗談めかして言ってみる。「小さなタオル一枚じゃ隠せないほど全身情けなくって……」

「服、なかったです。なので取りに行きましょう。ついてきて」彼女は顔色ひとつ変えずそう言った。「ここから二十分ほど歩くとドン・キホーテがあるので。ドン・キホーテにはなんでも揃ってますから。あなたの衣服も、食べきれないほどの食料も、つまらないテレビゲームもね」

「もちろん構わないけれど、その前になんでもいいから身に着けさせてくれないか」

「ないって言ってるじゃないですか。だから取りに行くんですよ」

「まさか裸で外を歩かせるつもり?」

「どうでもいいですよ」彼女は先ほどとは打って変わって明らかに苛立っている。「誰もいないんだから関係ない」

「しかしね……」

 云々。

 正統性も苛立つ権利も、どう考えたって彼女ではなく僕のほうにあるのだが、最終的には諦めて了承するはめになってしまった。さしずめこれは彼女なりの駆け引きというわけだ。いささか幼稚が過ぎるが、例の子守りだと思って付き合ってやることにする。それに公然猥褻がどうだとか、そもそも年上の人間を敬えだとかいう数々の社会常識は、いまやパスポートや核兵器と同様に価値のないものなのだ。


 外はやはり自動車も人も通らない。かといって家屋や道路に荒れ果てた様子はなく、朧げながら存在する記憶の一片、決して人間がふたりではなかったころの雰囲気とさほどギャップはなさそうだ。もうずっと四日目の繰り返しなんですよ、と華鈴は呟いたが、僕にはなんのことか分からなかった。なにしろ僕は記憶喪失で素っ裸なのだ。

「きのこはなかったんですか?」華鈴は後ろを歩く僕のほうを振り返らずにそう尋ねた。

「え?」

「きのこですよ。あなたの言うその山の中には、きのこはひとつも生えてなかったんですか?」

「きのこ」と僕は繰り返し、少し考えた。「おそらく生えていたと思う。でもきのこに関しては野草と同じで、食べられるものとそうでないものの違いを知らなかったから」

「生水は飲むのに」

「緊急時の行動だからね。多少の矛盾は勘弁してよ」やはり僕は困っていた。不得要領な彼女との会話だけでも参っているのに、生暖かい風が吹いて、木々が揺れるたびにどきりとする。飼い主の手を噛む気力もない不能の老犬らしく、とにかくいまは機嫌を損ねないよう努めるほかない。「そうだね……もっとシンプルに、僕はきのこが苦手なんだ。と思う。おそらくは。考えつかなかったというより、無意識に選択肢から排除していたように思える」

「かつて人類がきのこ派とたけのこ派に分かれて戦争していたのを知ってますか?」

「まさか!」と僕は笑った。「そんなくだらないことで戦争なんてしないだろう」

「えっ、覚えてないんですね!」華鈴はわざとらしい口調で言う。「もっとも、終末間際の混沌ケイオスなんて、覚えていないほうが幸せなことばかりでしたからね。政治、戦争、陰謀、病原菌、それと大学受験!」

「でも僕は飛蝗の味を知っている。きみは知らない」

「腰に巻いたタオルごと蹴っ飛ばしてやってもいいんですよ。反抗的なワンちゃん」

 このインポテンツが一過性であろうがなかろうが、いずれにせよこの世界はいるのだ。それならいっそそうしてくれよ、とため息をつくほかない。


 彼女はドン・キホーテにはなんでもあると言ったが、おおむねそれは正しかった。もっとも、仕入れはもうずっと止まっているわけだし、こと食品売り場に関しては野菜や鮮魚や精肉の売り場あたりからはちょっと形容しがたい悪臭が立ち込めている。それでもまだ陳列棚や倉庫の段ボールにある保存食の量は、常連客が僕ひとり増えたくらいで困るようなそれではなかった。どの商品もインパクトのある手描きのポップで値段が記されているが、当然それは目下意味をなさない。華鈴は上のフロアで三着ずつ似たようなポロシャツとジーンズを選んできた僕(彼女は僕を見て中年らしいセンスですね、と毒づいた)にバスケットの乗ったショッピングカートを渡すと、ポテトチップスやチョコレートを大量に手に取り始めた。

「そんなものばかり食べているの?」と僕はぎょっとして尋ねた。「多少は仕方ないけど、これじゃ体を壊すよ」

「次にそういうつまらない話をしたらエサは抜きにしますよ」華鈴は僕を睨む。

「でも、まだ缶詰なんかのほうが栄養になるだろう」

「期限の近いものから消費してるんです。保存の効くものはまだ。ここではぼくがルールです。勝手なことしないで」

「分かったよ」僕は彼女の指示通りペットボトルの飲料水やジュース(彼女いわくまだ消費期限までは数ヶ月ほどあるらしい)をいっぺんに持ち帰れるぶんだけ確保した。家庭菜園のキットもあったが持ち帰って文句を言われるのは目に見えている。彼女のほうはほんの少しだけ有機トマトやスイートコーンの缶詰をバスケットに入れていた(それは僕のを聞き入れてくれたものかどうかは分からない)が、それ以外はパッケージを見るだけでも胃がもたれそうなお菓子の山だった。とりわけきのこの形状をしたチョコレート・スナックを大量に入れていた。

「これが好きなの?」

「どちらかと言えば」

「そういえばさっき上のフロアで、パーティ用のコスチュームをたくさん見たよ。きみはあれを着ているんだね」

 華鈴は迷惑そうな顔でこちらを一瞥したが、なにも言葉を返さなかった。僕としては何気ないコミュニケーションのつもりだったけれど、あまり好ましい話題ではなかったのかもしれない、と反省した。

 それから僕らはショッピングカートを押して学校へ戻った。会話はなかった。僕は服を手に入れて気持ちに余裕すら生まれ、春らしいのどかで澄んだ外の空気をすっかり気に入っていた。

 案外、僕は昔から孤独だったのかもしれない、と思った。僕の記憶の大部分と一緒に、人々はみなどこかへ行ってしまった。僕もまたの一端を担っているとすればよほど辻褄が合うな、と考える程度には、華鈴の若さ、見当違いな罪悪を背負うその若さに触発され始めている。


 およそ半年(それはとても感覚的な半年)の間、僕らの生活はかなり平穏なものだった。基本的には朝らしい時間になんとなく起床して、なんとなく校内を見て回り、なんとなく食べ物を摂取して、眠くなったらなんとなく就寝する。それから定期的にドン・キホーテで飲食物を調達する。そんな日々がひどく緩やかに続いた。波風ひとつ立たない大海原で遭難しているような虚しい焦燥感のもと、最初のうちは迷子にならない程度に散歩をしたり、華鈴に倣って図書室にあった難解そうな文学をじっくり読んでみたりしたものの、結局ほとんどはなにをするわけでもない時間、僕の空白だらけの記憶の中にも残らないような時間を過ごすばかりだった。きっとなにかをするには有り余る自由だけではだめなのだ、と僕は思った。一切の制限がない状況もまた、あの恐ろしい山の中と同じなのだ。すくなくも僕にとっては。

 だからあるときを境に一、二週に一度ほどのペースで映画を見る時間を設け始めたことは、僕らの心の距離をいくぶん縮めたのだと思う。それはクラブ活動のようにきっちりと決められたスケジュールに則って実施されるものではなく、ドン・キホーテでワゴンに乱雑に積まれ叩き売られていたDVDやブルーレイを気まぐれに持ち帰っては、インターネットにどうやっても繋げないPCが大量に鎮座する視聴覚室で鑑賞するといった具合だ。彼女は最初、映画には興味がないと乗り気ではなかったが、僕がたまにでいいから一緒に見てくれと懇願した。僕はどうもうまくいかない彼女とのコミュニケーションをなにかしらの外的要因に補助してもらいたかったのと同時に、映画そのものに惹かれるものを感じたのだ。もとより知らないのか忘れてしまったのか定かではないが、おそらく不朽の名作と呼ばれていたであろうあらゆるタイトルが僕の目には新鮮に映った。華鈴は受動的なコンテンツなんて、とぶつぶつ文句を言っていた。

 僕らはきまってキャスターの付いたデスクチェアに少し離れて座り(彼女はいつも僕のに座った。たけのこが視界に入ってきたら鬱陶しい、と言ったが、それはもっともだろう)、プロジェクターからスクリーンに映写される作品をコカ・コーラやポップコーンと一緒に味わった。僕らだけの大きすぎる住処には電気も絶えず供給されているのだ。記念すべき第一回目に『大人は判ってくれない』をチョイスしたのは意図せずラッキーだった。不承不承ながら鑑賞していた彼女はやがて真剣な眼差しになって、上映後には興奮した様子でその魅力を力説してきた。それが済むと今度は僕が僕なりの感想を語った。それを契機に不定期な上映会はどちらともなく催されるようになり、そのたびに僕らはどれほど不謹慎な批評だろうがどれほど好意的な解釈だろうが、誰の傷痕にもはばかることのない世界で存分に語らった。新しい波ヌーヴェル・ヴァーグが来ていた。

 やがて僕らは時代や国を問わずさまざまな映画と触れ合ううち、ローズ・デウィット・ブケイターの犯した非合理的な過ちやB級映画の楽しみかたやメッキの剥げたオスカーのについてだけでなく、少しずつ自分を曝け出すこともできるようになった。とはいえこちらの記憶は鮮烈な映画の数々によっても取り戻されることはなかったし、華鈴だってすっかり気を許したといったわけではない。スクリーンから溢れ出たフィクションがメタフォリカルな現実と交錯し、僕らに鈍く煌めく高揚感をもたらしているにすぎないのだろう。それでも彼女にとって僕は得体の知れない客人ではなくなったことは確かだった。

「この世界は即ちぼくと母の関係に直結していたんです」と華鈴は話した。それは『ヴィオレッタ』を見終わったあとで、彼女が飲んでみたいと言うので僕らはコカ・コーラの代わりにシガッラなにがしとかいう赤ワインを飲んだ。彼女はコカ・コーラのほうがずっといい、と眉間に皺を寄せ不満げだった。そんなもんだよと僕は答えた。ふたりで三本のボトルを空にした。

「彼女は母親としておおむね完璧だった……あらゆる家事をこなし、パートタイムで働き、若々しさを保っていた……」華鈴はかなり酔っていた。顔や首だけでなく腕のほうまで真っ赤になっている。「問題はいち人間としてぼくとまったく相性がよくなかったことで、直情径行な彼女と虎にすらなれないぼくは互いに嫌悪し、互いを恥じ、互いに自己を見出していたのですから……」

「水を飲むかい?」

「水……そう、水ひとつとってもあの人は神経質で……いつだって政治や添加物の話をしてぼくたちを苛立たせる。愛情を盾に主観的正義と空間的秩序を混同するあの人を父や妹は困り笑いで受け流せても……ぼくにはそれが我慢ならなかった。ぼくに正当性があったとて、それを若さと切り捨ててまるで対話にならないあの人が……」

「お父さんはどんな人だったの?」と僕は尋ねた。

「父は……」華鈴は子犬が威嚇するみたいに少し唸り、沈黙した。枯れ葉の山を掻き分けるような沈黙であったし、広い砂漠を歩くような沈黙でもあった。やがて彼女は口を開いた。「たけのこが頭に生えていない人でした」

 それはそうだろう、と僕は笑った。なにか気の利いた返答をあれこれ頭のなかで探ってみても、結局僕は笑うしかできない。

「いかなる幸福を巻き添えにしようとも……」華鈴は机に突っ伏してまどろみながら呪文のように呟いた。「ぼくが望んだことなんですよ……凝り固まった自我に囚われてもはや救えない母と、あらゆる存在の喪失を……」

 やはり僕はただあいまいに笑うだけだった。共感してやれればどんなによかっただろう。誰もが一度通った畦道だったとしても、一度しか通っていなければ忘れてしまう。そんな愚鈍な繰り返しもすぱっと斬れてしまった。この世界は

 僕は眠ってしまった華鈴を、彼女が寝室にしている保健室まで運んだ。スカートからのぞく華鈴の素足に触れたとて一物が勃起することはないし、ドン・キホーテで調達したらしいチープなセーラー服を脱がすことも当然ない。

 そのまま職員室に寄り、そこにストックしてあったぬるい缶ビールを二缶手に取って屋上に出た。この学校以外は見渡す限り本当に真っ暗で、夜空一面に星がよく見える。まだ僕らの孤独が伝わっていないはるか遠くの小さな星を眺めながら、つまらない味がするビールに口を付け、なにか輪郭のない大きな恐怖について考えてみた。

 それは飛蝗の味、それはあらゆる存在の喪失、それは原初の不条理。


 ヤマダユウタが現れたのは偶然にも〈いない日〉のことだった。〈いない日〉にはどうしたって電気や水道を使うことはできない。停電や断水がいっぺんに起きて、僕はどこか遠くで僕らにライフラインを提供しているなにかが気まぐれにいなくなってしまったのでは、と考えた。ぷつりと命綱を切られたような突然の事態にかなり狼狽し、どっと吹き出た脂汗が肌寒さを忘れさせる。このままずっと電気が使えなくなってしまったら、この世界ではそのほうがいくらか自然に感じられるとはいえ不安になる。華鈴も始めは学校じゅうを慌ただしく駆け回りなにかを確かめるようにしていたが、やがて深緑のジャージのポケットに入ったメモ帳を取り出しぱらぱらとページを捲ると、ちょうど一年前にも同じことが起きたと心持ち穏やかに説明してくれた。それくらい僕の動揺は尋常ではなかったのだろう。

「まあ、ほんの一日の辛抱ですよ。なんてことない」と華鈴は努めて明るく言った。「絶対に、とは言い切れませんけど」

「ありがとう」僕もいくらか冷静さを取り戻した。彼女に気を遣わせる苦痛に比べたら、いかなる不安も一旦は些細なものに思えた。罵られるほうがずっといい。「楽しみにしていたディザスター映画も明日以降にお預けだ」

 それから僕らは日が落ちてからの過ごしかたを話し合い、懐中電灯やアウトドア用品をいくつか点検し、あとは普段通りなにをするわけでもなく時間を浪費した。華鈴は上下巻に分かれた長編小説を読んでいたが、僕はそんな気になれなかった。頭の中で乱立する無限の悪しき可能性に脅かされながら、ほんの少しでもそれを振り払うように散歩に出かけた。歩きながら小石を思いきり蹴ったり道に落ちている煙草の吸い殻を数えたりして、とにかく不躾に居座る予感めいた怖気を体から追い出したかった。

 やがて見覚えのないところまで来てしまった。見渡せど建物はなく、ひん曲がったガードレールとひび割れたアスファルトが果てしなく続き、生い茂る雑草が規則的に揺れるばかりの場所、この世界の全貌を最小限で最大限に示唆しているような場所だった。そんなに遠くまで来たつもりはなかったが、日が傾き始めているのを見てようやく、僕は焦りから大胆と呼ぶにはあまりに古典的な過ちを犯したことに気が付いた。僕の姿が見当たらないことを華鈴は心配するかは分からないが、こんな日に忽然と消えればさすがに訝しむだろう。

「もし……」

 突然、声が背後から聞こえた。久しく聞いていない、自分以外の男の低い声だ。振り返るより先に腰を抜かしてしまう。

「驚かせてしまいましたね」と声の主はへたり込んだ僕を助け起こして笑った。「驚くことは分かっていたんですがね。はは。申し訳ない。どうもヴォリュームの調節がへたなんですよ」

「いや……」まるで枯れ枝でも拾うかのように僕の体をたやすく持ち上げる彼の太い腕に視線を落としながら、僕は悔しさを覚え咄嗟におどけた風で捲し立てた。「なんせまだ生きてる人間なんていると思ってなかったものだからね……それはそうだ、僕らふたりなわけがない……すっかり感覚が麻痺してた。順応とは恐ろしいよ……他人の声を聞くだけでこんな風になるなんてね」

「そうですか。では、帰りましょう」彼は僕を解放すると大股で歩き始めた。

「帰るって?」

「ええ、帰るべき場所に。あなたは帰り道がすっかり分からないが帰る場所はある。私は帰る場所がないが帰り道は分かる。するとどうです、ぴったりでしょう」

「つまり……」と僕は背の高い彼の歩幅に小走りで合わせながら尋ねる。「きみはあの学校の場所を知っているの?」

「そこが帰るべき場所ならば」と彼は微笑んだ。端正な顔立ちで、大きな口からのぞく白い歯はほとんど幾何学的な美しさをはらんでいた。

 歌でも歌いながら気楽にいきましょう、飛蝗のように。彼はそう言ったが、はたして飛蝗にそんな習性があるのだろうか? 彼を追う僕の足取りは重かった。


 いつの間にか見当たらないと思ったら、いったいどこでこんな大きなお土産拾ってきたんですか?と華鈴が腹立たしげに言い放ったとき、僕はなによりもまず安心してしまった。ヤマダユウタと名乗る彼を連れ、というよりはむしろ彼に連れられ息を切らしながら学校まで帰ってきた僕を彼女がわずかでも探してくれていた事実が、僕の自尊心をいくらか回復させた。それに彼女は、しなびたたけのこ男よりも、こういう快活で親しげな男に警戒を示すのだった。

「うちにはもう大型犬を飼う余裕はありませんよ」

「僕を助けてくれたんだ。そんな言いかたはないだろう」ほら、彼を庇うわざとらしい芝居すら!

「ご心配なく」ヤマダユウタは華鈴の言い草など意に介さずやはり微笑む。「足を引っ張るつもりはありませんよ。私は自分のことは自分でなんとかしますから。いないものだと思って、とはさすがに言いませんが」

「仲よくやろうじゃないか、なあ?」

「勝手にすれば……」なんて投げやりに舌打ちをする彼女にもはや喜びすら覚えてしまうのは、決して下品なマゾヒズムからではないわけだ。

 夜になると僕らはLEDの卓上ランタン(スノーピークですね、とヤマダユウタは喜んだ)を囲んだ。ヤマダユウタが華鈴の隣に座るのを僕が向かいから眺める構図になったって、たちまち気に病む必要はなかった。若いふたりでごゆっくり、なんて茶化しながら席を外すほど油断はしないが、すくなくも僕の考えた最悪の可能性へ進むとは思えなかったからだ。

 彼は自分の人生について、突然の孤独以前以後に限らず惜しげもなく話した。大して興味もなかったのでほぼ覚えていないが、予てからの旅行趣味を存分に謳歌するように定住を選択せず歩き続けたというから驚いた。

 その隣でランタンの灯りを頼りに頑なに読書を続ける華鈴にヤマダユウタはめげずに話しかける。彼は決してひとり歳の離れた僕を除け者にしているわけではなかったが(苛立ちから逃避するための主観による捏造ではない。卓の主導権はずっと彼が掌握し、僕らはきわめて公平に話を振られた)、自分を忌避するような彼女の態度にかえって興味を持った風だった。

「私は読書が苦手でしてね」ヤマダユウタは困り笑いを浮かべた。「嫌いってわけじゃないんですけどね。文字を目で追うばかりで内容が入ってこない」

「どうでもいいから黙っててよ、うるさいな……」

「こら、華鈴……」と咎めた僕にまで鋭い視線が飛んでくる。、とでも言いたげな目だ。調子に乗りすぎたようだ。気まずさから逃れようと、したくもない会話を続ける努力をする。「ま、僕も読書は得意じゃないからよく分かる。映画はどうだい?」

「映画もだめですね」と彼は肩をすくめる。「長いことじっと座っているのがどうも我慢ならないんです。外で体を動かしたほうが楽しいじゃないですか」

「はあ……」彼もまたある意味では、この世界で生きるには十分すぎる豪胆さを備えているわけだ。サイアク、と呟く華鈴の声が聞こえた。

「そうだ! せっかくこんなに広い土地があるんだし菜園でもやりましょうよ。見たところおふたりは野菜を全然食べていない。スナック菓子やカップ麺ばかり。これはかなり不健全です。農作業は運動不足も解消できますし、名案だと思いませんか」

「いらない」

「僕もかつてはそう考えたけどね、どうも……」

「ははは。私ひとりでもやりますよ。明日にでもドン・キホーテで必要なものを調達してこよう……ドン・キホーテにはなんでもありますからね。立派なたけのこ以外はすべて揃ってる」

 結局僕は〈いない日〉の恐怖などさっぱり忘れ、座標を飛び回った感情はあげく後悔、野良犬というよりは厄介な外来種を拾ってきてしまった後悔に落ち着いてしまった。今日はなにもかも空回りしている気がする、と僕は缶ビールを飲み干しため息をついた。華鈴は不愉快だからもう寝る、と懐中電灯を手に教室を後にした。小さな背中がいっそう遠く見えた。

「まったくは気が合いませんね! ははは……」

 ヤマダユウタが来てからの華鈴が徹頭徹尾不機嫌なのは若干の罪悪感を感じつつも同時に救いでもあったが、耕と読の字をひとつずつ持て余す彼らが、僕の思考でまたしても肉腫のように広まったそれに気付くことがないように祈るばかりだった、それに気付くことがないように。


「それに気付いたんですよ」と全裸体のヤマダユウタは晴れやかに言った。気が遠くなるほどなにもない真っ白な空間で、よく日に焼けた彼の逞しい肉体だけが煌めいている。厳かで形のいいペニス、そこから雄弁に語られる男性性は、僕に敗北をもたらすには十分すぎた。

「それ……つまりそれとは……」

「そう。私たちは互いを補うことで完璧になります。彼女も望んでいます」

 いつの間にか華鈴がヤマダユウタの隣にいた。空間との境が視認できないほどの純白のウェディングドレスに身を包んでいる。顔を覆うヴェールはレースではなくウェディングドレス姿の華鈴がプリントされた分厚い布で、その小さな華鈴の奥にはまた華鈴がおり、再帰の沼に限界はない。僕は強烈な耳鳴りを覚えた。視界がだんだんと黄色っぽく染まり、足元がぐわっと回転する。

「ねえ、パパ。——」

共同体コミューンをつくるんです。人類の希望のために」華鈴の言葉を遮るようにヤマダユウタは言った。眩暈が治まるとそこはランタンを囲んだあの暗闇の教室で、ふたりの姿は見当たらない。「私たちからやり直すんです。始めから丁寧に、なにもかも完璧に」

 それに僕はなんて応えればいい? もはや言葉は声にならず、僕の口からは罵声や負け惜しみの代わりに数えきれないほどの飛蝗が飛び出してきた。僕がかつて山中で食べた飛蝗だ。ライターで炙ったときの焦げ目もそのままに、すばしこく灯りの周囲を跳ね回っている。

「華鈴は責任を取る決意をしました。素晴らしい選択です、それが大人になるということです。本当のところは、この世界がのは誰のせいでもない。しかしそれは同時に、誰のせいにでもなり得るのです。そういう入り組んだ配管のような、あるいは税務手続の書類のような煩雑な責任を背負うと彼女は決めたのです。ならば私も添い遂げなければなりません」ヤマダユウタは洟をすすり、しばし間を置いて宣誓した。「人類の希望のために」

 声は黒板の上に取り付けられているスピーカーから聞こえるようで、声とともに小さく聞こえるクラシックはワーグナーだかヴェルディだかショパンだか詳しくは知らないが、その旋律はひどく壮大で、僕はほとんど泣き出しそうになりながら廊下に出て、思うように動かない四肢をめちゃくちゃにばたつかせ這う這うで放送室を探した。放送室……放送室! 天井と床が忙しなく回転する。力が入らない。一階まで降りて職員室の隣の部屋を開けるだけのことができない時点で、僕はただちに目を覚ませばひとまずの救済が得られるのを冷静に理解していた。眠っている僕の本体のどこか核のような部分が、おそらくそれを拒んでいるのだ。逃避のち爽やかな陽光……だがそれも束の間、新しい朝は絶望の朝で、悲劇の続きは華鈴のヴェールのようにすぐさま待ち受けているのかもしれないのだから……ポップとコークはもう消費期限切れなんですよ、と華鈴が僕に言い渡すかもしれないのだから!

「まあ、華鈴ももう大人なんだから、そんなに心配しなくてもいいんじゃないか?」

「え?」今度は校長室らしい。僕は普段ベッド代わりに使っている合皮のソファに座っていて、面談でもするかのように机を挟んで僕の向かいに腰を下ろすのは、背広を着た飛蝗人間にも見えるし、赤い三角帽子を被ったペンギンにも見えるし、僕によく似た男にも見えるが、絶えずかたちや大きさを変えるそれを僕は〈校長〉と呼んでいた。

「まあ、華鈴ももう大人なんだから、そんなに心配しなくてもいいんじゃないか?」と、〈校長〉は繰り返した。タイプライターの打鍵音のような声だ。

「しかしね、校長……」

「それに、きみね、さっきの言いかたはあんまりだよ。華鈴が出ていくのだって無理はないさ」

「僕がなにを言ったって?」僕は机をばんと叩き〈校長〉に怒鳴りつけた。飛蝗の脚が口内に刺さったままでちくちくと痛い。「あの子は出ていってしまうのか? 変わってしまうのか? 大人になる必要もないこんな世界で?」

「そりゃ、僕だって黙って見てるばかりだったのはすまないと思うよ……でも口を挟めばきみがなにを言うかは分かってる、『私がなにを言っても気に入らないんでしょ』、『じゃあ私が死ねばいいんでしょ』、そうヒステリックに泣き叫ぶんじゃ、会話にだってならないだろう、な? きみが肯定したいのは彼女のこれからじゃなく自分のこれまでなんだよ。カレンだって──」

 突如、鼓膜を突き破るような破裂音とともに飛蝗人間の〈校長〉の頭が吹き飛んだ。次の瞬間僕は薙刀のような形状の竹の棒を持っていて、そいつで〈校長〉の首を刎ね飛ばしたのだと認識した。どうしてそんな惨いことをしてしまったのか分からないが、すでに事態は決着していた、とうてい持ち合わせているはずもない蛮勇をもって決着していたのだ。スロー・モーションのようにゆっくりと弧を描いて宙を舞う頭部は、その間もひどく猥褻で象徴的な形状に変容し続け、相変わらずぱちぱちと無機質な音を発してはいるが、言語としてはまるで機能していない。首の付け根からは黄土色の血が勢いよく噴き出ている。膝から崩れ落ちた胴体がやがて砂になり消えていってもなお、竹の棒を握りしめる僕の両手にはぬらぬらとした体液が残っていた。もうこうなってしまっては、どれだけ洗っても汚れが落ちないんだろうな。ぼんやりとそんなことを考えていた。どれだけ洗っても、どれだけ洗っても。


「最低な朝ね」華鈴はソファの肘掛けに腰かけて僕を見下ろす。いつも通り文庫本を手にしており、どうやら僕は『笑う月』の角で叩かれたようだ。「もう昼ですよ、お寝坊さん。みっともなくうなされてましたね」

「まったくだよ。きみのモーニングコールが飛蝗の首を吹き飛ばした」僕は信じられないほど汗をかいていた。

「気持ち悪いこと言って。なんでも人のせいにしないでください」

「カレンって、きみの妹?」

「頭のたけのこ、ちょっと大きくなりました?」

「気のせいじゃない?」いまや頭上の違和感はほとんどと言っていいほどなかった。もしかしたらかつての不快な感覚は記憶喪失が原因で、僕は生まれたときからずっとたけのことともに在ったのかもしれない。

「ま、いいか。それより、あれ、見てくださいよ」

 窓の外にはヤマダユウタがいた。三十メートルほど先、よく陽の当たるグラウンドの一画はすでに柵で囲われており、そこで彼は備中鍬を夢中で振り下ろしている。すぐそばのベンチにはパッケージされた野菜の種苗がずらりと並び、図書室の蔵書らしい農業の入門書も積み重なっている。彼は僕らを認めると全身を唸らせて大きく手を振った。肩を上下させ笑顔でなにか叫んでいるが、彼のよく通る声も分厚いガラス窓を隔てた僕らには届かない。

「作物なんてとっくに育たないのに」

「試したんだ」

「あの人はずっと出ない芽を待つんです。かわいそうですよね」そう言って華鈴は皮肉っぽく笑った。

「ああ。かわいそうだ」僕も頷いて笑った。この微笑は返事としては最適解だろう。僕らはまったく不誠実で不謹慎で、死と相乗りのトロッコで緩やかに坂道を登っている。

「ねえ。はあなたのこと結構好きなんですよ」華鈴は僕の頭のたけのこを指先で撫でている。白く細い指でまじないをかけるように輪郭をなぞるその優しげな愛撫は、僕の神経に伝播することはない。

「どうして?」寂しげに影を落とす彼女の長い睫毛に手を伸ばすと、蠅でも追い払うかのようにあしらわれる。

「昔はよかった、って言わないから」

 きっとこの世界には触れてはいけない禁忌もあれば、触れたところでとうてい分からない神秘もあったのだろう。あるいはいまだって。

 ひっきょう悲しみは続いていくのだ。僕の喪われた記憶は戻ってこないし、彼女は誰のことも愛さないし、劇的なことなんてなにも起こらず、ただ、やはりこの世界は

 僕らはポップコーンとコカ・コーラを手にしばらく彼を観察していた。子供向けの人形劇を見るような退屈な時間だった。華鈴はほんの数分のうちに飽きてしまって、またいつも通り読書に耽りだす。僕のほうも瞼が重くなり、今度は幸福な夢が見れたらいいと思いながら横になって二度寝を試みる。

 ヤマダユウタはひとり爽やかに鍬を振るう。それは人類の希望のためか、あるいは悠然たる自慰行為か、彼はそこが賽の河原とも知らずに、鍛え上げられたたくましい肉体に汗を光らせている。

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飛蝗の味 かげのね @enonegaK

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