第2話 承
僕は八歳になり、父の仕事を手伝うようになっていた。
この頃から僕の記憶ははっきりしている。僕の、大事な記憶だ。
その日、父は村の集まりがあるとかで雑貨屋を出ていた。僕は店の留守を任せられて、一人で窓の外に振る雪を眺めていた。
赤い槍を持つ少女が窓を横切って、僕の胸は高鳴った。夜の雑貨屋に、その年もミラがやって来る。
僕は嬉しくて気持ち悪いくらいに、にこにこしていた。そのことを店に入ってきたミラに指摘されたのだ。僕は恥ずかしく思いながら俯く。羞恥心が身についていたからだ。
「冗談よ。素敵な笑顔だったわ」
「慰めなんかいらないよ」
八歳の僕はミラに対して、少しだけ素直じゃなくなっていた。気になる相手に程、素直ではいられなくなっていたのだ。そんな風に接しても相手に良く思われることはないのに。
「それで、今日も得物を狩って来たの?」
「今日はあんまり大物は狩ることができなかったけどね」
ミラが手に持っていたのは一羽のウサギだった。彼女の狩りの結果としては、あまり良い結果だったとは言えない。
「なんだ、今日は大したことないんだね」
「たまにはこういう時もあるわ」
「ミラだったら簡単に大物を狩ってこられるんじゃないの? だって君は古い吸血鬼なんだろ。僕たち人間とは違うんだから、狩りなんて簡単だろ?」
「そうね」
僕の言葉に、ミラは表情を変えなかった。だけど今の僕には分かる。その時の言葉は少なからず彼女の心に傷をつけたはずだ。だからこそ当時、態度を変えず僕に接してくれた彼女には申し訳ないと思うし、今の僕があの場に居たら当時のクソガキをぶん殴っていると思う。
「ウサギを買い取ってもらえるかしら?」
「良いよ。父さんがとっておいたほんと交換だね」
「ええ、いつもの通りに」
僕はミラからウサギを受け取り、ミラは僕から本を受け取る。得物と書物の交換は毎年のことだ。たまに本ではなく、調合役のレシピが書かれたメモを渡したりすることもある。八歳の子どもには価値の分からないものばかりを、彼女は欲しがった。
「調合役のレシピとかじゃなくてさ。料理のレシピとかのほうが役に立つんじゃない?」
「あら、知らないの?」
「なに、知らないよ。なんなの?」
「本当に知らないのね」
ミラはため息をついた。彼女はそういうことは滅多にしなかったから、僕はなんだか凄く悪い気持ちになって謝ろうか迷った。結局、その時謝ったりすることはなかったけれど。
「ハンス君は吸血鬼についてどの程度のことを知っているの?」
「父さんから、ミラは古い吸血鬼なんだって。それで、凄く強いんだって聞いてる」
「じゃあ、詳しいことは知らないのね」
「どんなこと?」
その時、僕はむっとしていたし、彼女の言葉が気になってもいた。だから彼女に詳しい話をするように促した。彼女は快く説明をしてくれて、僕は今でも彼女に教わったことを胸に刻んでいる。
「私は古い吸血鬼で、ずっと昔はこの土地を治めていたわ。神のように扱われていたこともあるの。実際、古い時代には今より多くの神が認められていたから……神のようだった、ではなくて、神だった。のでしょうね」
「ミラが神様だって、うまく想像できないや」
僕の言葉にミラは微笑んで頷く。
「そうね。本当の私はもっと、醜いものなのよ。そのことに昔の人たちも気づいたのよ」
「ミラは醜くなんかないよ」
「見た目はね。でも良い機会だから教えてあげるわ。吸血鬼という生き物は本質的に邪悪なものよ。いつも血に飢えた化物。冬という季節以外は体の底から湧き上がる吸血衝動に苦しみ、得物を前にすれば凶暴化する。そんな醜い獣なのよ」
「そんな、醜い獣だなんて……」
「良いのよ。あなたと、あなたの父さん以外は私のことをよくは思っていないし、あなただって私を人間とは別の生き物だと思ってる。それは自然なことで、普通のことよ」
僕はうまい言葉を返すことができなかった。その時にこそ、僕は彼女を差別していたのだと分かり、彼女が怒らなくても悲しかったはずだと考えられた。
「ミラ……ごめん。何も考えてなくて、ひどいことを言った」
「別に良いの。変に私に惚れられるよりはよっぽど良い」
「ほ、惚れてなんか!? そんなことないよ!」
僕は紅くなりながら必死に否定した。本当は彼女のことが好きなのに、当時の僕は素直じゃなかった。
「惚れてなくても良いわ。ハンス君、私は吸血衝動を押さえられる冬という季節にだけ、山からこの村へ降りて来る。そして、冬以外の季節は河を超えた先にある山の屋敷に引きこもっているわ」
「冬以外は山に居るしかないの?」
「山に引きこもるのが一番安全なのよ。私も……あなたたちも。吸血鬼は流れる河を渡ることができないから。冬の凍った河しか渡ることはできないから、私が山中に引きこもる季節、絶対に山に入ってはいけないわよ。まあ、村の人々はずっと昔からあの山には入ることはないけどね」
そう言って微笑む彼女は、いつも見せる寂しそうな空気をまとっていた。
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